和の独り言=PART-2

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松本市と甲府市

2018-11-18 | 旅行

 私が住む山梨県の地元紙のコラム「風林火山」に、記者が松本市を訪れた感想が載ったことがある(2018年10月23日付け山梨日日新聞)。松本市は長野県南部(南信)の中心都市だが、わが県都である甲府市とは昔からなにかと比較されて話題を提供してきた。同じように、松本平や安曇平という盆地と、甲府盆地という立地背景が似ていることもある。

 鉄道旅行を趣味とする私にとっては、最寄りの中央東線の特急「あずさ」「スーパーあずさ」の終点であるし普通電車も松本を目的地としている列車が多い。先月も行きつけの安曇野のホテルへの旅をした。松本で中央東線から大糸線に乗り継ぐのだが、行き帰りとも松本では途中下車して駅前をしばし散策する。
 まず改札口を出て東口に立つと、その脇にはかって同駅の表看板だった「松本駅」の表札が掲げられている。「旧松本駅表札の由来」なる説明版によると、戦後に消失した駅舎が昭和23年春に再建された際に当時南安曇郡豊科町在住の曽山環翠さんが揮毫したものだという。


 振り返って駅前広場を眺めると、左の方に錫杖を持って立っている「播劉上人」の像がある。1828(文政11)年夏に北アルプス槍ヶ岳の山頂をきわめたという、槍ヶ岳開山の祖だという。山都松本を象徴するにふさわしい上人であろう。

 

 はさらに思い入れが多い松本市なのである。私は1940(昭和15)年4月に東京市世田谷区の代沢小学校に入学した。2年生になった翌年4月から、学制が変わり代沢国民学校となる。その年の12月8日に日本は米英を相手にした太平洋戦争に入る。翌年には航空母艦から発進した米陸軍機B25による初の日本本土空襲を家の前から眺めた記憶がある。
 開戦当初は華々しい戦況のニュースに国を挙げて歓喜に包まれていたが、戦いの様子が負け気味となりサイパン島が米軍に占領されると、米長距離爆撃機B29による日本本土空襲の恐れが大きくなってきた。
 東京など大きな都市部の国民学校児童の疎開が進められ、1944(昭和19)年4月から、私と妹は父母の故郷である山梨県の甲府盆地に縁故疎開した。縁故がない児童たちは学校に残っていたが、その年の夏には集団での学童疎開が始まった。虐められっ子の私だったが、残された級友たちはどこへ集団疎開したのか知らなかった。

 数年前だったが甲府市にある山梨平和ミュージアムの蔵書のなかに、きむら けん著{鉛筆部隊と特攻隊ーもうひとつの戦史}なる本を見つけた。"信州松本浅間温泉にあった秘められた特攻隊の物語!” と帯にあり、鉛筆部隊というのは世田谷、代沢国民学校の疎開児童のこととある。文中に出てくる児童の名前が懐かしい級友の姿である。
 満州(現中国東北部)の新京(現吉林省長春)で編成され松本空港で訓練と機体整備に励んでいた武剋隊・武揚隊の特攻隊員と児童たちとの触れ合いが詳しく記されたノンフィクションである。
 続編として{特攻隊と<松本>褶曲山脈ー信州松本浅間温泉には、多くの特攻隊が滞在していた!}にも級友たちが出てくる(いずれも彩流社刊)。

 農村に縁故疎開した私は田舎の国民学校の仲間に入れてもらい、主に養蚕地帯で桑畑の除草や学校の便所の汚物を天秤棒で担いで畑に運んだりした経験もした。4年間を机を並べて勉強したり遊んだ級友たちの経験を始めて知った。それが松本郊外の浅間温泉だったのである。

 

 



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