毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

日露戦争で日本はナポレオンの教訓は考慮できなかった

2016-02-06 15:23:54 | 軍事

 ロシアがナポレオンに勝ったのは、退却戦で戦線を伸ばし、広大な領土に引き込んだ結果である。別宮暖朗氏の、「坂の上の雲」では分からない日露戦争陸戦、では奉天からのロシア軍の撤退は、日本軍の大勝利の結果である、としている。現にクロパトキンは満洲軍総司令官を降格された。

氏によれば、講和は、敗北を認めた側が、勝者に申し込むのであって、これ以上の継戦が困難だとして政府に講和工作をした児玉は間違っていた、という。講和を望むのなら戦争を続けるべきであり、それまで不足していた砲と砲弾も、奉天会戦後には、充足されていたのだという。

だが、ナポレオン戦争でも、好んで退却し、敵をロシア領深く迎え入れたのではない。負け続けていたのに過ぎない。奉天からの撤退を世界の大勢がロシアの敗北と判断したのも当然である。結局、講和が成立したのは、日本海海戦に奇跡的な勝利をおさめ、ロシア国内の不安定が拡大したため、日本のこれ以上の勢力拡大を望まない米英が、講和をロシアに斡旋したからである。米英は、ロシアの東亜での勢力拡大を、日本の軍事力で抑えられれば良いのであって、それ以上の日本の勢力拡大は無益であったどころか嫌悪する所であった。

ナポレオン戦争の時代と異なり、ロシアは国内事情によって講和を受け入れるしかなかった。たとえ海軍が全滅しようと、ロシアの国内不安がなく、陸戦を徹底して戦うことができれば、ロシアは最終的には勝てたであろう。そのような可能性まで検討した結果、日本は日露戦争を決断したのではなかった。

制海権が日本にあっても、日本の兵站が切断されないだけで、ロシアの兵站も可能である。まして、西方に進撃する日本軍の兵站は延びる一方で、ロシアは逆である。それでもナポレオンの敗北の教訓を考慮する余地は日本にはなかった。日本は戦うしか生きる道はなかったと判断したから開戦したのである。

それならば、大東亜戦争の開戦を間違っていた、と言える日本人はいない。明治の元勲なら開戦を選択しなかったとは言えないのである。ただ一部の識者が言うように、大東亜戦争にも勝てる戦略はあった可能性はある。正確に言えば、不敗の体制を確固として、米国を厭戦に追い込む、ベトナム式の戦略である。しかし、米軍の戦争テクノロジー、特に海軍のそれは開戦時点では英独をすら遥かに凌駕していた、といえるから米国相手の「勝てる戦略」は極めて困難であろう。大東亜戦争は、海の戦いであった。

別宮氏の講和についての考え方は、意外に思われるが正しい。結局相手に徹底して勝てなければ、相手は講和しないのである。現に大東亜戦争の終戦工作は、敗北を認めた日本が行ったのである。ベトナム戦争の場合は、北ベトナム軍が敵の首都サイゴンに突入し、南ベトナム政府が崩壊して終わった。講和ではなく、無条件降伏である。支援したアメリカは、勝てない長期の戦いで厭戦に陥って、南ベトナム軍が敗北する前に撤退したのである。これでも米国の敗北ではある。米軍は敗北しなくても、米国は敗北したのである。

日露戦争が、結局日本の勝利と言う形で講和が成立したのは、ロシアの国内事情と米英の思惑による、という極めて例外的なものである。その意味で、山本五十六が「城下の誓い」をさせることが絶対不可能と知りながら、緒戦の徹底的な勝利で、米国を厭戦気分にさせて講和に持ち込むことが唯一の勝利の道だと考えていたとしたら、大間違いである。唯一の勝利は、ベトナム戦争と同じく、長期持久戦略によって、米国を厭戦に追い込むことである。

 


ロシア海軍は日本に負けて崩壊した

2015-11-23 12:33:14 | 軍事

 日露戦争でロシア海軍は消耗を続け、日本海海戦でとどめを刺されて全滅し、その後の努力にもかかわらず再建されていない。主力艦を含めた艦隊をほとんど失って、再建できていないうちに、海軍、特に日米の主力艦が空母になってしまったために、時代の変化に追いつくことができなくなってしまったからである。

第二次大戦時に保有していた戦艦、はロシア帝国時代に海軍再建を目指して建造された、ガングート級4隻と英国から貸与されたアルハンゲリスク一隻と言う、帝政ロシア時代とは比べようもない有様だった。最新鋭戦艦として名前だけ有名になった、ソビエツキー・ソユーズは独ソ戦により建造が中止されて、再開されることはなかった。

 その結果、戦後は海軍が対艦ミサイルを武器とする、日本の陸攻のような機種が、米海軍に対抗する海軍の主戦力となってしまい、まともな海軍の艦艇の編成ができなくなってしまった。確かにゴルシコフ元帥らの努力によって、大型艦艇による外洋艦隊や潜水艦の充実に努めた。

 ところが、建造したのは、キエフ級「空母」である。正確には航空巡洋艦と言うのだが、大型の船体にYakのVTOL機やミサイル、艦砲など、あらゆる艦載兵器を満載した中途半端なものとなった。いつ本格的な空母を建造するのかと注目されたが、結局作られたのは、キエフ級を大型化したばかりではなく、スホーイのCTOL戦闘機を搭載した一見まともなクズネツオフ級空母である。

 とはいってもカタパルトが開発できず、英国流のスキージャンプ台を使った。本来スキージャンプ台は、ハリアーのような垂直離着陸機の離陸時の搭載量を増やして短距離離陸できるようにしたものであって、カタパルトほどの能力はない。ハリアーは戦闘を終えて身軽になると垂直着陸できるのである。

 だから垂直離着陸能力のないスホーイの艦上戦闘機の搭載量は、飛行場を使用する場合に比べ、かなり制限される。そもそも陸上機を艦上機に流用して成功した例がほとんどないのは、英海軍の失敗を見ればわかる。予算の制約から、またまた対艦ミサイルまで積んで、航空巡洋艦と呼ばれることとなった。秋月型防空駆逐艦が、不徹底にも魚雷まで搭載させられたことに似ている。結局ソ連はまともな空母を作れずじまいだった。

 中国が、クズネツオフ級一隻を用途を誤魔化して買い、結局は空母遼寧に仕立てた。とはいっても、機関の不良からカタログ値の30ktより遥かに遅い、と言われているから、実戦には使えない。練習用か脅し用くらいにしか使えまい。遼寧の経験をベースにして、本格的な空母を建造中である、と言われるが、いつ完成して、いつ就役することやら。

 潜水艦にしても、タイフーン級などという第二次大戦中の戦艦に近い巨大な排水量のものを建造するなど、ポリシーが不明である。要するに大きな軍艦を数を揃えて、大海軍に見せようとしたとしか思われない。

 多量の対艦ミサイルによる、米空母への飽和攻撃は、イージス艦という新艦種による阻止手段を発明され、潜水艦の充実は日本のP-3Cの大量配備によってブロックされた。結局ゴルシコフの夢だった大海軍は、金食い虫となってソ連の崩壊を早めた一因となったのであろう。ゴルシコフがソ連崩壊を見ずに亡くなったのは、せめてもの幸せだったのかも知れない。

実にソ連を大海軍国にさせなかったのは日本であって、米国を大海軍国にしたのは日本であったのかも知れない。現代の米海軍の主力艦である、空母の艦上機の尾翼に旭日旗が描かれたものを見ることができるのは、米海軍が日本海軍と正面から戦って勝利したことの、誇りの象徴なのであろう。敗れはしたものの、日本海軍はよく闘ったのである。


撃墜王・岩本徹三

2015-07-28 14:39:57 | 軍事

 日本海軍の撃墜王・岩本徹三は自己申告で撃墜202機を主張していたことで有名である。日本のエースパイロットが、撃墜数を主張する事は稀なのだが、けれんみなく、あっさりと言ってのけているような気がするところが、小生は他の日本のエースパイロットより好きなのである。

 戦後手記を編集した「零戦撃墜王」の何版かをその昔読んだのが、岩本の名前を知った初めである。零戦の格闘性能を生かすのではなく、垂直降下により敵機に超接近して、一撃撃墜するのを常とした豪快な空戦法であったというのもなかなかである。

 零戦は、水平面の旋回性能の良さで米英軍機を圧倒した、と言われている。ところが岩本は優位な上空に占位して、急降下して、一撃離脱する戦法に徹底したのである。だから岩本は被弾することもほとんどなかった希な戦闘機パイロットである。。その戦法は支那事変の際に九六式艦戦で、複葉機と戦った経験から来ているものと推察する。いかな九六式艦戦でも水平面での旋回性能では、複葉機にかなわないからである。

 敵より優位な高度に占位するというのは、当時の戦闘機には洋の東西を問わず、絶対的な原則である。これを基本として徹底した岩本は名パイロットである。ちなみに欧米、特に英軍戦闘機は、格闘性能の優劣を横転性能、すなわちロール率で判定していた。これは高速化と矛盾しないから、是とすべきであった。岩本は撃墜マークを胴体がピンクに見える位沢山描いていた、というからプラモマニアとしても面白い。

 そこでタミヤの48にスペシャルマーキングとして岩本機のデカール付の52型のキットがあったので買った。ところが撃墜マークを見ると、控えめでガッカリしたが、同時にジャンクパーツでタミヤの21型のデカールが売っていて、桜いっぱいだったので買って組み立てたのが、この写真。

 ところが似た趣味の人は居るもので、童友社の1/100だと思うが、52型の岩本機の桜べったりのものが売られているはずです。撃墜マークは、この写真のものどころか、日の丸の直後から垂直尾翼ぎりぎりまで、目いっぱい撃墜マークで埋められています。ところでタミヤの零戦は、作りやすさ、考証の正確さで、ハセガワのより好きです。モールドも塗装で消える危険も少ないもので楽です。小生は零戦に限らず、同タイプの飛行機でハセガワとタミヤがあったら、迷わずタミヤにします。悪しからず。


中国潜水艦を「元」と呼ぶ馬鹿

2015-07-04 13:34:15 | 軍事

 最初はプラモのキットを見て気付いたのだが、中国の潜水艦は歴代王朝の名前が付けられている。納得できないのは、元などという、明らかに非漢民族王朝の名称が付けられていることだ。現在の支那の政府中枢は明らかに「漢民族」と呼ばれる範囲でしか構成されていない。また夏などという伝説上の王朝としか思われないものの名前まで使われているのには驚いた。

 これは現在の支那政府が、中華民族と称して、満州族やモンゴル人まで、ひとがらげにして、歴代王朝を全て中華民族の王朝とすることによって、中国四千年の歴史などと主張していることと符合する。そこで、こんな潜水艦の命名までするのか、と呆れた。だがこれは、小生が往々にして犯す思い込みだった。

 ウィキペディアで調べたら、例えば、元級というのはNATOのコードネームで、支那軍の公式名称は029A型潜水艦(中国字で029A型潜艇)というのだそうである。ロシア軍の戦闘機のコードネームには頭文字Fで、フィシュベッドや、ファーマーなどという、およそ軍用機とは関係のないふざけたものを使っているのとは大違いである。

 なるほど、戦艦には英国では王家関係のものを、米国では州名を使っているのと発想は似ている。だが問題はNATOが、自然に歴代王朝を現在の支那政府の前身と看做していることである。日本が戦前苦しめられたのは、欧米諸国がこのような認識を持ち、清朝の後継は中華民国だ、などと考えて九ヶ国条約で中国の主権の尊重などという実態のないものを日本にも押し付けたことにある。

 「満洲国出現の必然性」という本の著者の戦前の米国人は、支那民族(すなわち漢民族)と言っても、言語、文化等の相違は北欧と地中海民族よりも差があるいくつかの民族から構成されているし、満洲人はその中にさえ含まれない、と喝破したが、このような欧米人は、当時も現代でも例外なのである。欧米人の宿痾がコードネームの命名にも現れている、と気付かされた次第である。

 


集団的自衛権一考

2015-06-28 13:36:19 | 軍事

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 集団的自衛権について反対する理由は、戦争に巻き込まれるというものである。一方で賛成の意見とは、例えば米艦船と自衛隊が共同行動をとっていて、米艦船が攻撃を受けても日本には集団的自衛権がないから、自衛艦は敵を攻撃できず、見殺しにせざるを得ないから日米同盟が機能しない、というものである。これでは議論がかみ合うはずがない。

 安保条約を想定して、自動的に米国の戦争に巻き込まれる、というのは明白な間違いである。安保は米国が攻撃を受けた時、日本に米国を守る義務はないからである。次に、イラク戦争のような場合である。確かに、米国に協力して参戦した国はあるが、同じ国連加盟国でも中露は反対して参戦しなかった。

集団的自衛権は、国連憲章で規定されている、とされるが正確ではない。国連憲章51条では「・・・安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と書かれているだけである。前段の「必要な措置」とは第1条に書かれた「・・・有効な集団的措置をとること・・・」である。

これは国連軍による集団的安全保障のことであって、集団的自衛権とは異なるものであるが、混同されているきらいはある。国連軍による集団的安全保障が実行されたのは、唯一朝鮮戦争である。当時、中共も北朝鮮も国連に入っておらず、当初は北朝鮮の侵略に対して国連軍として米軍が派遣され、途中から中共もその対象となったのである。

 国連憲章は国連軍が来てくれるまでの間の、集団的自衛権を否定していないだけのことであるから、集団的自衛権が国連憲章に規定されているという理由で、国連加盟国は他国の戦争に参戦の義務がある、という見解は論外である。国連加盟国であろうとなかろうと、個別の戦争に参戦するか否かは、政策判断の問題である。ベトナム戦争に韓国が参戦したのも同様の問題である。ベトナム戦争は東南アジアに共産主義が蔓延するのを防止するために米国が行ったものである。その米国は戦前の日本の反共政策を妨害したから、自分のつけを自分で払わされただけであって、日本が参戦するいわれはない。

 唯一の問題はPKOの戦闘行動に参加するか否かであろう。日本はPKOに参加しているとはいっても、後方支援任務に限定している。これを紛争の鎮圧、すなわち戦闘行動への参加に拡大するか否かの問題はあるが、これも政策の問題である。ただし、後方任務であっても、近隣の部隊が襲われて助けを求められて戦闘に参加することは、今回の集団的自衛権の保持の憲法解釈で可能になるし、必要である。

 ちなみに戦後日本は、参戦したことはない、というのは国際法の厳密な解釈から言えば、明白な間違いである。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも、日本は戦闘に参加する米軍に基地を貸した。特に朝鮮戦争では日本から直接出撃した航空機も多かったし、軍需物資を米軍に売ったし、掃海作業も行って犠牲者も出した。

これらの行為は全て国際法の中立違反、すなわち参戦したことになる。北朝鮮や中国、ベトナムといった国は国際法上、日本を攻撃する権利があった。しなかったのは、できなかっただけのことである。この通り、憲法九条があるから戦後日本は戦争しなかった、というのは真っ赤な嘘である。していたのである。また、朝鮮戦争とベトナム戦争で基地を提供するなどして参戦したことは、自衛権の行使としか考えられず、自衛権の行使ならば、議論された集団的自衛権と言うしかない。

賛成派も反対派もまともな常識があれば、そのことは知っているが、知っている者は黙っているのである。賛成派が黙っているのは、今後も似たようなケースが朝鮮半島や台湾で起こり得、集団的自衛権があると言おうがないと言おうが、日本が日米安保による米軍駐留により、否応なく集団的自衛権を行使しなければならない立場にあると追及されるからである。

反対派が黙っているのは、憲法九条のお蔭で日本は戦争に巻き込まれていない、というのがフィクションであることがバレるのと、既に集団的自衛権が行使されたという既成事実を隠したいからである。こうやって日本はダチョウの如く頭隠して尻隠さず状態で生きてきたのである。

また、民主党は、防衛法制整備に関して、盛んに徴兵制にするのではないか、という議論をするが典型的な議論のすり替えである。それに対して、近代兵器を使うには短期間では技術を習得できないから、現代では徴兵制は適さない、という反論もあって、それはそれで正しいのだが、本質的には議論のすり替えである。

どうしても人が集まらないとか、後方要員が必要だとか、徴兵しなければならないケースが絶対に出ないとは言えない。また技術の進歩により最新兵器が簡単に使えるようになる、ということは将来現出しないとも限らないのである。現に刀より火縄銃、火縄銃よりボルトアクション小銃と、技術の進化により取り扱いは容易になっている。いずれにしても、安全保障法整備と徴兵制は直接リンクする事柄ではない

兵役が憲法で言う苦役である、というに至っては論外である。確かに兵役の訓練はつらい。だがスポーツ、特に一流スポーツ選手の練習は辛い。だが人はそれを苦役だと言い切れるだろうか。スポーツ選手は好き好んでやっているのだから苦役ではない。それは結果が出れば賞金も名誉も獲得できるから、辛い練習にも耐えるのだというであろう。

正にそれが本質なのである。兵役では、祖国を守るという使命感から辛い訓練に耐える。だから苦役ではないのである。つまり兵役が苦役だといいつのる者は、国を守るという使命の必要性と重要性を無視しているのである。いや、日本など守るに値しない、と考える人たちなのである。そのような人達が、安保法案の議論に参加するのがおかしいのである。彼等は日本が侵略さえしなければ、どこの国も侵略しない。あるいは日本以外に侵略するのは米国だけであって、その片棒をかつぐのは嫌だ、という訳である。

西洋の古い法律の諺に「第一の原則を否定する人と論争することは出来ない」という(満洲国出現の合理性)。正に彼らは、国防の必要性という、第一の原則を否定しているから議論にならないのである。例えばチベット人やウイグルが兵役につかされるとする。彼等は中華人民共和国を祖国と思っていないから、国土防衛の任につくいわれはない、と考えるであろう。こういう兵役をこそ、苦役というのである。いや、戦争となれば督戦隊に銃で脅されて、真っ先に死地に行かされるから苦役どころではなく、いわれなく死刑を宣告されたようなものである。戦争法不安反対と叫ぶ人たちは、こういうウイグル、チベットの人たちの苦衷を察したことはあるまい。

まして日本人が、兵役を苦役と言うようになったのは、中国やソ連にとっては喜ばしいことである。彼等は対日戦で日本の勇敢な兵士に苦しめられ、敗北を喫した。その末裔が兵役を苦役と言い出したのだから、対日戦は楽勝だと考えても不思議ではない。それ故、兵役を苦役と言い募ることは対日開戦のハードルを低くする。もちろん自衛隊の諸士がそのような人物ではないと信じている。しかし、兵役を苦役だという日本人が増えたことは、彼等に自衛隊の戦意は低い、と誤解されかねないのである。


ベトナム戦争と日米同盟

2015-06-22 15:42:08 | 軍事

 日本に憲法九条がなかったらベトナム戦争への戦闘に参加しなければならなかったという論者がいる。だが、それ以前に日本はベトナム戦争の戦闘に参加すべきであったか、ということを考えるのが先決である。たとえ、軍事同盟を結んでいようと、いまいと、同盟国が自分の国益の選択として始めた戦争に対して、戦闘に参加するか否かは日本が判断すべきであって、憲法を理由にしなければ参戦を断れない、という発想自体がおかしいのである。現に日独伊三国同盟においても、日本は第二次大戦勃発3の際に参戦していない。

 ベトナム戦争とは何か。それは戦後再植民地化のために戦ったフランスを、アメリカが引き継いだのではない。ドミノ理論によりベトナムの共産化が東南アジアの共産化につながることを防止するためである。日本が支那事変を戦ったのも、ある部分で反共の戦いである。ドイツと手を組んだのも当初は反共のためである。日本は一直線とは言えないまでも、アジアの防共のために戦ったのである。それを理解できなかった米国は、結果として共産中国を成立させてしまった。

 アメリカが日本の邪魔をしなければ、アジアの防共はありえたのである。アメリカは日本を倒したために共産主義の威力と本質を知り、ベトナムに飛び火した共産主義を阻止しなければならない羽目に陥った。つまり米国は日本の役割を肩代わりしなければならなくなったのである。米国がアジアにおける日本の役割の貫徹を阻止したために、ベトナムで戦う羽目になった。日本が支那におけるゲリラ戦に苦しんだと同様に、米国もベトナムで苦しんで敗北し、厭戦になったという相似性はよく指摘される通りである。

  それ以上に両国の戦いにおける政治的意味は類似していた。ある意味で日本の代わりに米国はベトナムで戦ったと言えるのだが、日本の邪魔をしなければベトナム戦争はなかったのだから、既に支那で犠牲を払った日本が直接参戦する義理はないのである。つまり、アメリカは過去の間違いのつけを、ベトナムで払わされたのである。

  だが日米戦争なかりせば、アジアの独立はなかったのだから、日本としてはアメリカのベトナム共産主義との戦いに、消極的協力をするのもおかしな話しではない。その意味で沖縄基地を利用させるなど後方支援をしたのは正当である。すなわち日本のベトナム戦争に対する態度は、結果論ではあるが正しかったのである。

  ちなみに、基地の提供などの後方支援は、集団的自衛権の発動であり、日本は戦闘に参加していなかっただけで、国際法上は戦争当事国である。すなわち中立国ではなかったのである。だから、北ベトナムが日本を攻撃する権利はあった。ただ、物理的にできなかったし、する必要もなかった。日本との戦いはべ平連などの日本人反戦活動家を利用することで、事足りていたのである。

  共産主義を標榜しているとは言っても、中国もベトナムも単なる独裁国家、正確にはファシズム国家であって、共産主義国家ではない。中国の覇権主義的行動は、統一された支那政権の伝統的行動であって、共産主義とは関係がない。その意味で日本に代わってアジアでのプレゼンスを得た米国が、日本に変わって中国と対峙するのは当然である。

  米国がアジアにおけるプレゼンスを維持する実力と意志を日本が阻止して、自らアジアの安定を維持する覚悟がない以上、日本は米国を支援して中国と対峙して、中国の侵略からアジアの安定を保つ役割を補完しなければならない立場にある。現在では日本が独力でアジアの保全をすることができないというのは、精神衛生上有難い話ではないが、大東亜戦争で証明されてしまった、日本の国力や地理的な縦深性のなさから、米国の協力者となってアジアの保全を図るというのは、日本の縦深性の不足を米国に補完してもらえるという意味では有利であるともいえる。

  結果論ではあるが、戦前の日本のように、アジアで孤独に悩むということはなくなった。アジアでは、中国やタイ以外にいくつもの独立国ができ、中国の伝統的覇権主義的行動に悩まされているのである。その意味で支那事変と大東亜戦争を戦ったということは、現在の日本にとって有意義であった。その結果を現在の日本が有効に活用できず、共産中国に翻弄されているというのも、大東亜戦争の負の遺産である。だが両者を総合すれば、日本は戦前に比べ有利になったと言える。それを利用するのが今後の日本の役割である。

  いつの日にかロシアは覇権国家として再生する。そのときにロシアと支那とは、現在とは異なり両立しえないことは、歴史の教えるところである。そのときに支那は分裂しているかもしれない。分裂した支那をその状態のまま保全することが、支那各民族の幸福であり、周辺諸国の幸福でもある。その幸福のためにやはり米国と日本は、協力して支那と対峙すべきである。

  日本は米国と異なり地理的にアジアに存在し、アジア唯一の正常な国民国家であるという戦前からの立場が不変である以上、米国は日本の協力が不可欠である。大東亜戦争を戦った米国はその事実を教訓として知っていなければならない。知らなければ日本は教えなければならない。ロシアが復活する日まで日本と米国は協力して支那と対峙して、アジアを保全しなければならないのも両国の義務である。

  支那と日米の対峙の目標はアジアの保全ばかりではない。支那大陸における健全な国民国家の成立である。支那大陸において未だかつて健全な国民国家が成立した経験はない。たが中国系住民が居る台湾において、かなりその目標が達成しつつあることは、適切な国家規模ならば、大陸にも健全な国民国家が成立しえることを証明している。また皮肉なことに、植民地化の間に英国が教えた「民主化」という言葉を覚えた香港人が、支那政府と対峙する形成を見せているのも、支那における光明のひとつである。

  健全な国民国家の成立を阻んでいるのは、規模の問題と民族の錯綜と大陸における覇権志向の原因ともいえる統一願望である。統一願望は統一が成ったとしても、チベット侵略のように、更なる統一を求めて拡大する。これが覇権志向である。支那においては日本と異なり、古来支配者と被支配者は厳然と区別されている。

  支配者は自らの幸福のために統一と拡大を望む。そして大部分の被支配者は抑圧と収奪の犠牲となる。この不幸の連鎖を断ち切るには、各民族が分立して独立する、支那の分裂しかない。分裂は適正規模の国民国家の成立と、類似民族の国内共存による安定である。

  支那は漢民族と呼ばれる多数民族が支配しているとされる。しかし漢民族というのはフィクションである。それが証拠に漢民族といえども北京語、広東語、福建語など全く異なる言語を話していることはよく知られている。

  互いに通じない異言語を話すものが同一民族であろうはずがない。異言語とはいえ英語のルーツは古ドイツ語である。そのような意味における近親性さえ、中国における各言語間には少ないと考えられる。支那は古来外来民族による支配を繰り返してきた。その外来民族が自らの王朝が滅んだ後にも、大陸の各地にまとまって定住した。

  そのグループが上記の北京、広東、福建などの異なる言語を話すのである。すなわち古来の外来民族の象徴が、相違する各言語である。すなわち北京語と広東語を話すものは民族のルーツは異なる。別項で説明するが、北京語を母語として話すのは実は満州族であるというように(満洲化した、いわゆる漢民族も含む)。

  支那人が血族しか信用しないというのはこの異民族性による。血族すなわち、確実に同一民族と保証された人しか信用しないのである。それは大陸が常に外来民族の侵略支配と定住を繰り返した、モザイクのような地域であったためである。血族すなわち同一民族、つまり同一言語のグループだけで国家を構成するようになれば、この不幸は解消する。

  この分裂が始まったとき、日米は協力して分裂を支援しなければならない。そのためには米国人に支那大陸の本質はヨーロッパのように、異民族が各地に固まって定住しているモザイクのような地域であり、統一は住民に不幸しかもたらさない、ということを理解させることである。そして統一志向が覇権志向の原因であり、アジアの不安定化の原因であるということを理解させなければならない。外部から干渉あるいは支援などをせずに、内乱を放置することかも知れない。日米ともに、混乱の平定を目的として支援した結果が、毛沢東の統一という最悪の結果をもたらしたからである。

 この際に潜在的な危険がある。それは米国がハワイ併合以来、中国に野心を持ってきたことである。現在の中国に対しては軍事力のみならず、地理と人口の縦深性により戦い難いために、経済的権益の追求だけに止めているが、分裂した国民国家となった中国に対しては、米国は本来の野心をもたげることなしとしない、と考えなければならないであろう。

  そのときかつてのロシア帝国がそうであったように、復活したロシアも中国を狙うであろう。このときアジアの安定のために、何らかの形で戦うのが日本の役割である。アジアの安定なくしては日本の平和はない。

 もう一つは米国の抜きがたい有色人種への蔑視である。そのことに日本はペリー来航以来悩まされてきた。排日移民法、戦時中の日系人隔離、東京大空襲や原爆投下など市民への無差別大量殺害などである。すなわち日本人に対する欧米人、従って米国人には表面上現在はなりを潜めているが、絶対的な人種偏見がある。そのことを日本人は絶対に忘れてはならない。米国は日本が対等な同盟関係を求めた場合、その偏見が妨害するであろう。

  小林よしのりや西部邁の反米論は感情論である。米国が日本になした仕打ちは前述のようであって、両氏の言うことは事実として正しい。米軍が人道的な軍隊などではなく、南方や沖縄、本土において民間人の殺戮と暴行を行ったのは事実である。しかしその故に同盟が出来ないという結論を下すから感情論だというのである。確かに同盟できないとは直接は言っていないように思う。しかし二人の主張を総合すると、同盟できないと考えていると結論するしかない。

  欧米人も究極において日本人と異なり暴力的である。だがロシア人や支那人と異なり表面上はルールを確立して秩序を保っている。文明を装っているのである。彼らがギリシアローマ文明の後継ではなく、ゲルマン、ノルマンの蛮族の出身で、倦むことなく争いを繰り返したのは遠い昔の話ではない。二千年の歴史の経過で暫時文明化した日本列島と異なる。

 楠正成の糞尿をかけて敵軍を撃退したなどという、おおらかな話しが讃えられる世界と、十字軍とイスラムの攻防のように、巨大兵器を開発して戦闘を繰り返す文明とは世界が異なる。近代においても同一民族でありながら、米英の独立戦争を戦った。国内でも南北戦争という殺戮を繰り返し、北軍は南軍に無条件降伏を要求し、講和による和平を選択させなかった、過酷な人たちである。

  しかし、ともかくも彼らは和解し、米英は断ち難い同盟国となり、米国民は南北ともに対外戦争に協力できている。日本にした米国の仕打ちを忘れてはならない。だがそれ故に同盟が出来ないとしたら米英の同盟もなく、南北対立によって米国の統一もなかったはずである。

  これらの同盟と異なるのは前述のように、日米には人種偏見という抜きがたい溝があることである。しかし、多民族国家である米国にとって人種偏見は、自らにも向けられた刃であることを自覚しているはずである。それゆえ日本は人種偏見がなきがごとく、米国に対応することができるのである。

  日米戦争を戦ったのは必ずしも米国にも反感を残したのではない。米海軍には日本海海戦に勝った東郷平八郎に対する伝統的憧憬がある。日本海海戦は最初の近代的海戦であった。米海軍の将帥はアドミラル・トーゴーの海軍と戦うと奮い立った者が多いという。大東亜戦争で敗れはしたものの、彼らはカミカゼ攻撃の恐ろしさを知っている。いざとなったときの日本に対する畏怖はある。

 英米人には伝統的に良く戦った相手に対する尊敬というものがある。その点は日本人と共通している。それは個人から組織にまで及ぶことがある。そして相手が人種偏見の対象となる人種であっても、よく戦った相手には例外的に敬意を払う。例えば黒人であっても人種偏見にめげず勉学して弁護士や政治家となり、白人と対等以上の仕事をしている者に対しては名誉白人として、白人と同一の居住区に住めるし、対等に喧嘩をしながら仕事が出来る。

 日本人が米国人の人種偏見を打破して対等の同盟ができるとしたら、その原資は明治以来の日本が苛烈な戦争を戦い抜いたことである。その極限がカミカゼである。西洋人は日本人と異なり、数百年の戦いを続けてきた戦争巧者であり、勝利に向けてはハード、ソフト共に天才的な努力と才能を発揮することは、日本人の及ぶところではない。その努力の結果は年々進歩している。

  だが日本人が古里のために生命を惜しまない精神を潜在させていることを知る限り、対等の関係が成り立ちうる。だが日本にも朝日新聞のような、一部のマスコミのように、生命どころかカネの欲しさと脅しに屈して、故国を支那に売っても恥じない者たちが増えている。彼らは支那人からも心底では、侮蔑される存在なのだが、現実には大きな日本の脅威である。

  米国はある意味、「長い歴史を持つ」中国には憧れのようなものを持っていると推察される。それが戦前、中国を支援したのはひとつの原因である。それは中国が文明発祥の地とされるのに対してわずか二百年しかないというコンプレックスであろう。ところが現実の中国はみじめな後進国であるということが、ますます支援を動機付ける。日本に対する蔑視と中国に対する憧れが近年に至っても、クリントン政権のように時々日米関係を阻害している。

  日本には古来支那大陸との葛藤があった。これに幕末以来、ロシアと米国が参加して日本を悩ませた。隣国朝鮮は常にその間にあって日和見をする自主性のない存在であった。このパターンは現在でも生きている。それが日中二千年の歴史が教えるものである。

  日本人は中国四千年の歴史という、フィクションを忘れなければならない。中国の歴史は支那大陸という地域の歴史であって、連続した民族の歴史ではない。漢民族というものはいない。支那は飢餓と戦乱により民族の血統が何回も断絶した地域である。長江文明の支那人は黄河文明の支那人ではない。黄河文明の支那人は秦漢の支那人ではない。

  秦漢の支那人も隋唐の支那人は宋の支那人ではない。宋の支那人は元の支那人ではない。元の支那人は明の支那人ではない。明の支那人は清の支那人ではない。清の支那人は中共の支那人ではない。これらの漢には風俗、文明、言語、血統のほとんどが必ず断絶して不連続である。異民族が漢化されたのではない。支那の住民が異民族に滅亡あるいは同化されたのである。支那のひとつの文明はひとつの王朝限りで終わっている。現代支那の歴史は1949年の中華人民共和国から始まった、百年にも満たないものである。

  だから漢民族の四千年の歴史はない。日本人は戦前の日本人が持っていたような、文明の先達としての中国に対する憧憬を捨てるべきである。支那の現実をみつめて考えを改めた内田良平を見習うべきであって、支那に憧れて助けようとして殺された松井石根を見習うべきではない。冷徹に支那大陸の覇権争いとして捉えて対処するべきである。それが大陸の住民個人個人の幸福を達成するゆえんである。


小林よしのり氏の勘違い

2015-06-14 16:13:26 | 軍事

 この頃、小林よしのり氏の言動には違和感がある。保守を自負しているのだろうが、女系天皇論を始めとして、不可解なものが増えている。ここでは、 対米テロ以来の新ゴーマニズム宣言について述べる。それはアフガニスタンのタリバンに対する爆撃を原爆や東京大空襲などの日本への無差別爆撃と同一視して非難していることである。

いうまでもなく日本への無差別爆撃は計画的に民間人を殺戮する意図を持ったもので、非戦闘員への攻撃を禁じた国際法に対する明白な違反である。ところがタリバンに対する爆撃は戦闘員に対する攻撃である。武器を持つタリバンは戦闘員とみなされれば、攻撃の対象とするのは合法的である。ただし、武器を隠し持てば、攻撃の対象となるどころか、捕虜ともなり得ず、射殺することも合法である。戦闘員や戦闘施設に対するピンポイント爆撃でも、民間人に対する誤爆は免れないことを問題にするのだ、国際法でも戦闘員に対する攻撃が民間人を巻き込まれてしまうことを条件付きで認めている。

小林氏は真珠湾攻撃を非難しはしないだろう。ところが真珠湾攻撃でも百名を超える米民間人が巻き添えで死亡している。民間人を攻撃する意図を持たず、攻撃の結果が作戦の効果に比べた民間への被害が過大だと見られない攻撃は合法と考えられるのである。

そうでなければ剣を使った戦争はともかく、火器を使用した近代戦争は、民間人の巻き添えを完璧に防止できない以上、全て違法といわざるを得なくなる。

西部氏との対談で「パレスチナ側からすれば、国家でなければ軍隊もないわけだから、戦争はできない」といっているのは明白な国際法の知識の欠如である。現代の国際法では国家に所属しない軍事組織、すなわちゲリラであっても公然たる武器の所持等一定の条件を満たせば、陸戦法規の適用を認めている。このことは西部氏はよく知っているのにあえて指摘しないのである。

確かに「テロを起こす原因がアメリカにある」のは事実である。だからといって民間機をハイジャックして民間ビルに体当たりするというのは卑劣の極致である。乗客は米軍がハイジャック機を攻撃するのをためらわせるために乗せられているのだから。

神風特別攻撃隊は軍艦を攻撃したのであって、民間人を殺傷するつもりは全くなかったのだから、同じ体当たりでも同列ではないのに、小林氏は9.11テロと特攻隊を同一視している。正直言って事実誤認も、ここまで行けば話にならない。議論の対等な相手となりうる基礎知識が欠けているのである。国際法を超える、もっと高等な論理があるならばよいが、小林氏はそれも提示できない。国際法に依拠する以上は、小林氏は勉強不足である。

こう仮定してみよう。極悪人が多数の人質を取って立てこもって、人質を次々と殺している。そこに警察が極悪人の家族や親戚を連れてくる。警察は投降しないとこいつらを殺すぞと脅すが、言うことをきかないので、本当に家族などを一人ずつ殺し始める。9.11の対米テロは、ひいき目に見てもこの警察のやっていることと同じではある。

残念に思うのは小林氏が「つくる会」を離れたことである。人一人ずつの考え方が異なるのは当然である。ともかくも一度共同で教科書をつくることができた以上、自虐的ではない教科書をつくるという範囲では、西尾氏などとの考え方の相違は誤差の範囲であったはずである。

多くの大人はイソップを子供の寓話で言われるまでもない、と思っているが、結局人は自分の立場になると「キリギリス」になったり「裸の王様」になる。人は知識として知りつつも、現実問題に直面すると、イソップの寓話を超えられないのである。

小林氏は薩長同盟での坂本龍馬の功績を認めるのであろう。だがそれは単にそういう知識を小林氏が持っていて、龍馬の功績を認めていたのに過ぎず、同じような立場にあっても、類似の行為を小林氏にはできないだろうと疑う。

龍馬の功績は、血で血を洗う争いをしていた薩長を、倒幕して近代日本をつくるという大義のために、小異を我慢させて団結させたということにある。日本の将来のために、小異を我慢して西尾氏らと再度団結できないのである。「教科書そのものも西尾幹二から頼まれたから仕方なく執筆した」というのでは実に情けない。信念で執筆したのではないことを自ら白状したのである。

最近まで、私は西尾氏と小林氏には根本的な考え方の相違はないと思っていた。だが最近の小林氏の言論を聞くと、間違っていたのかも知れない。西部氏が保守を自負していても、かつて染まっていた左翼思想に、思想の基層が抜け切れていなかったように、小林氏も思想の基層に左翼思想があるのではないか、という気がする。ただし、西部氏には小林氏と異なり、論理の一貫性がある。中年の域に達した小林氏が、漫画に描く自画像は、常にハンサムな若者であるように、小林氏は単に「イイカッコ」したいだけなのではないか。


海軍のいい加減な対米戦略

2015-06-13 14:48:00 | 軍事

 ロシアを仮想敵国とする陸軍に対して、海軍は対米戦を想定して予算獲得をした。艦艇の動力は日露戦争時代、石炭専焼であった。しかも後日の蒸気タービンではなく、レシプロ式の蒸気機関であった。それから重油との混焼時代を経て、最終的にボイラは重油専焼罐となった。混焼の時代にあっても、石炭燃料の比率は段々減少していった。

例えば大正2~4年に竣工した金剛型戦艦は、最初は混焼罐であったが、大正12年頃の第一次改装により、一部のボイラに重油専焼を取り入れた、石炭重油混焼で重油の比率が高まった。昭和8年頃から開始された、第二次改装では全部、重油専焼となった。この改良はひとえに性能向上のためであった。

もちろん、他の日本戦艦も似たような時期に、重油使用の比率を高めていって重油専焼罐となった。石炭なら国内産も大陸産も入手がある程度可能であるから問題が少なかったが、石油が艦艇の主燃料になったときに、主として石油は米国から輸入していることを考えるべきであった。日本海軍の仮想的国は米国だからである。

山本五十六ら海軍の幹部が、水からガソリンを作れると言う男の売り込みを聞いて、実験をやらせるという事件があった。何日もかけて、男は水の入った瓶からガソリンを取り出して見せたがもちろん、トリックに過ぎなかった、という事件である。この事件を海軍教育における初歩的科学的知識の欠如や、程度の低い詐欺に引っかかるほど海軍首脳はガソリンが自給できないと心配していた、と解説する向きが多い。

炭素の含まれない水がガソリンに変わる、などという事を信じた山本らの科学、という以前の理科の程度はひどい、というのは事実である。ところが、ガソリンを自給できない、と心配していたことが、こんな詐欺に引っかかるという事自体が、軍人としては変であるし、本気で心配していたのかを疑わせる。

というのは、現実に米国からの石油が途絶したとき、彼らが躊躇なく考えたのが、蘭印からの石油確保、という事だったからである。当時オランダ本国はドイツに降伏し亡命政府を作っているような状態だったからこそ考えられる選択肢、であるというばかりではない。もし、そんな事態ではなくても、あの時点では、最も近隣の産油地帯である蘭印から石油を調達する、ということ以外に考えられないのである。対米戦なら当然オランダも敵になるからである。

日本海軍は対米戦を想定していた。戦争の兆候が出れば、米国が石油禁輸をするのは当然である。艦艇燃料の石油依存度が高くなるにつれて、対米開戦を考えたなら当然海軍は、アメリカ以外のどこかからの石油調達対策を考えなければならない。

これは絶対必要な条件のはずである。しかし、海軍がこのことを研究していたという事を、寡聞にして知らない。対米戦の兆候が出ると、突如として蘭印からの石油確保を考えたのである。もちろん蘭印から石油が取れるくらいのことは知っていたのである。にもかかわらず、なぜ海軍が石油調達対策を真面目に研究してこなかったのか。

対米戦が起こるなどとは、本気で考えていなかったからとしか考えられない。海軍は予算獲得のために、対米戦を想定していたのに過ぎない。酸素魚雷にしても、艦艇の過大な兵装にしても、対米戦を考えよ、といわれて海軍技術陣も努力し、日月火水木金金、と言われるほど兵士は必至の努力を重ねていた。訓練により多くの兵士の犠牲も出していた。しかし、海軍の幹部は根柢のところで不真面目であったのである。


陸上要塞は艦隊より強いのか

2015-06-09 14:51:00 | 軍事

 陸上要塞は艦隊より強い、というのは定説のようである。だが、その実例はどこにあったのだろうか。大口径の要塞砲は戦艦の主砲の転用が多いから、口径において同等の艦砲の軍艦で戦うことは可能である。数においても、要塞の砲数は予測できるから、それを上回る艦隊を準備することは可能である。

 照準について、要塞砲は固定されているから、海上のどの位置にいてもそこに打つことができる、というような話を聞いたことがあるが、もしブイなどの固定目標を海上に置いても艦隊が破壊することは可能である。目標のなくなった海面の平面座標をどう設定できるのであろうか。要塞砲で陸上を打つなら、ひとつの固定目標の座標に命中させて、そこからの東西南北の距離が分かれば、座標が特定できるが、固定目標がない海上ではそうはいかない。

 反対に軍艦は移動するから、要塞砲による初弾の修正は困難である。自艦の速力と進路は分かるから、固定された要塞砲の位置があらかじめ分かれば、軍艦による初弾の修正は容易である。素人考えであるが、このように考えると、机上の検討では陸上要塞は艦隊より強いとは思われないのだが。

 余談だが、出典は忘れたが、開戦時点では日米海軍とも戦艦の主砲には、徹甲弾しか搭載していなかったそうである。零式普通弾のような榴散弾あるいは榴弾のようなものは搭載していなかったというのである。従って艦艇に対する攻撃はできても、真珠湾要塞に対する攻撃は困難である。

徹甲弾だけでは砲台を直撃しなければ、破壊は困難である。榴弾効果のあるものも混ぜなければ、有効な攻撃は困難であろう。それより随伴した空母の艦上機を使えばよい。艦戦で制空権を確保して、艦爆で砲台を攻撃する。島嶼攻撃で米海軍が常用した手法である。その間に、戦艦群は湾内の太平洋艦隊を砲撃するのである。この方が、従来、戦艦や空母が訓練や実戦で実施してきたことと乖離もない。ただし、真珠湾の太平洋艦隊を、開戦時点で攻撃すべきであったか否かは別問題である。


侵略された尖閣は安保の対象ではない

2014-12-23 11:40:08 | 軍事

 中国は尖閣周辺に船ばかりではなく、戦闘機を飛ばしてきたことさえあった。これはゆゆしき事態である。ある新聞に、もしこの戦闘機に対して自衛隊機がスクランブルをかけて相対した時に、向こうが領空侵犯だとして警告射撃してくる可能性がある、と書いていた。あり得る話である。国際法上は、領空侵犯で無線等による退去命令に応じない場合は、まず警告のために威嚇射撃する。それでも応じない場合には撃墜してもよいのである。「よい」というよりは撃墜すべきなのである。これらの行為は国内法で決めていなくても、本来実行してもよいのである。軍隊はネガティブリスト式で、禁止条項だけが規定されている。だから、国内法で規定が無ければ、国際慣例から、上述のような領空侵犯機を撃墜してよい。

愚かなことに自衛隊には、無線等での退去命令だけしか許されておらず、わざわざ国際法上正統な射撃を国内法で禁じている。射撃できるのは相手に撃たれて味方に損害が出た時の、正当防衛に相当する場合の行為だけである。中国機から警告射撃を受けると自衛隊機は、その後撃墜されることを恐れて尖閣の領空外に逃げなければならない。

すると中国機は警告射撃により相手を領空から追い出したのだから、日本も尖閣諸島を中国領だと認めたことになる。これが国際法の論理である。新聞に自衛隊も曳光弾による警告射撃を許可するようにする、と報じられた。もしそうだとしても、曳光弾を撃っても相手が領空から退去しない場合、本当に撃墜するつもりがないとわかれば、かえって向こうに反撃の理由を与えてしまうのである。

本論に入ろう。このようなこともひとつの方法であるが、中国はあらゆる方法で実効支配をすることを試みるだろう。例えば民間人を装った人間を、夜間水中からこっそり送り込み滞在させる。すると自衛隊がしなければならないことは、彼らの排除である。すると中国は、自国の領土にいる国民を保護するとして、島に近づく自衛隊の艦艇と航空機を攻撃する。こうした事態に米軍は日本と一緒に中国軍と闘ってくれるのだろうか。答えはノーである。

中国人が尖閣に上陸した時点で、中国は実効支配したことになる。侵略は成功したのである。日本が中国人の上陸を阻止しなかった時点で、侵略は成功したのである。米国は安保条約による米軍の助けは、日本の施政権の及ぶ範囲である、と明言している。逆に言えば中国人が上陸してしまい、施政権が及ばなくなったと判断されれば米軍は日本と共同作戦を行う筈はない。すなわち、侵略された尖閣は安保の対象ではないのである。

もし中国が戦争をする気があるのなら、その何年か前に動員をかけなければならないが、現在その兆候はないと言われている。すなわち戦争をしてまで尖閣を侵略するつもりは、今のところない。だから、今あり得るのは武力行使をしない「平和的」侵略である。