日本に憲法九条がなかったらベトナム戦争への戦闘に参加しなければならなかったという論者がいる。だが、それ以前に日本はベトナム戦争の戦闘に参加すべきであったか、ということを考えるのが先決である。たとえ、軍事同盟を結んでいようと、いまいと、同盟国が自分の国益の選択として始めた戦争に対して、戦闘に参加するか否かは日本が判断すべきであって、憲法を理由にしなければ参戦を断れない、という発想自体がおかしいのである。現に日独伊三国同盟においても、日本は第二次大戦勃発3の際に参戦していない。
ベトナム戦争とは何か。それは戦後再植民地化のために戦ったフランスを、アメリカが引き継いだのではない。ドミノ理論によりベトナムの共産化が東南アジアの共産化につながることを防止するためである。日本が支那事変を戦ったのも、ある部分で反共の戦いである。ドイツと手を組んだのも当初は反共のためである。日本は一直線とは言えないまでも、アジアの防共のために戦ったのである。それを理解できなかった米国は、結果として共産中国を成立させてしまった。
アメリカが日本の邪魔をしなければ、アジアの防共はありえたのである。アメリカは日本を倒したために共産主義の威力と本質を知り、ベトナムに飛び火した共産主義を阻止しなければならない羽目に陥った。つまり米国は日本の役割を肩代わりしなければならなくなったのである。米国がアジアにおける日本の役割の貫徹を阻止したために、ベトナムで戦う羽目になった。日本が支那におけるゲリラ戦に苦しんだと同様に、米国もベトナムで苦しんで敗北し、厭戦になったという相似性はよく指摘される通りである。
それ以上に両国の戦いにおける政治的意味は類似していた。ある意味で日本の代わりに米国はベトナムで戦ったと言えるのだが、日本の邪魔をしなければベトナム戦争はなかったのだから、既に支那で犠牲を払った日本が直接参戦する義理はないのである。つまり、アメリカは過去の間違いのつけを、ベトナムで払わされたのである。
だが日米戦争なかりせば、アジアの独立はなかったのだから、日本としてはアメリカのベトナム共産主義との戦いに、消極的協力をするのもおかしな話しではない。その意味で沖縄基地を利用させるなど後方支援をしたのは正当である。すなわち日本のベトナム戦争に対する態度は、結果論ではあるが正しかったのである。
ちなみに、基地の提供などの後方支援は、集団的自衛権の発動であり、日本は戦闘に参加していなかっただけで、国際法上は戦争当事国である。すなわち中立国ではなかったのである。だから、北ベトナムが日本を攻撃する権利はあった。ただ、物理的にできなかったし、する必要もなかった。日本との戦いはべ平連などの日本人反戦活動家を利用することで、事足りていたのである。
共産主義を標榜しているとは言っても、中国もベトナムも単なる独裁国家、正確にはファシズム国家であって、共産主義国家ではない。中国の覇権主義的行動は、統一された支那政権の伝統的行動であって、共産主義とは関係がない。その意味で日本に代わってアジアでのプレゼンスを得た米国が、日本に変わって中国と対峙するのは当然である。
米国がアジアにおけるプレゼンスを維持する実力と意志を日本が阻止して、自らアジアの安定を維持する覚悟がない以上、日本は米国を支援して中国と対峙して、中国の侵略からアジアの安定を保つ役割を補完しなければならない立場にある。現在では日本が独力でアジアの保全をすることができないというのは、精神衛生上有難い話ではないが、大東亜戦争で証明されてしまった、日本の国力や地理的な縦深性のなさから、米国の協力者となってアジアの保全を図るというのは、日本の縦深性の不足を米国に補完してもらえるという意味では有利であるともいえる。
結果論ではあるが、戦前の日本のように、アジアで孤独に悩むということはなくなった。アジアでは、中国やタイ以外にいくつもの独立国ができ、中国の伝統的覇権主義的行動に悩まされているのである。その意味で支那事変と大東亜戦争を戦ったということは、現在の日本にとって有意義であった。その結果を現在の日本が有効に活用できず、共産中国に翻弄されているというのも、大東亜戦争の負の遺産である。だが両者を総合すれば、日本は戦前に比べ有利になったと言える。それを利用するのが今後の日本の役割である。
いつの日にかロシアは覇権国家として再生する。そのときにロシアと支那とは、現在とは異なり両立しえないことは、歴史の教えるところである。そのときに支那は分裂しているかもしれない。分裂した支那をその状態のまま保全することが、支那各民族の幸福であり、周辺諸国の幸福でもある。その幸福のためにやはり米国と日本は、協力して支那と対峙すべきである。
日本は米国と異なり地理的にアジアに存在し、アジア唯一の正常な国民国家であるという戦前からの立場が不変である以上、米国は日本の協力が不可欠である。大東亜戦争を戦った米国はその事実を教訓として知っていなければならない。知らなければ日本は教えなければならない。ロシアが復活する日まで日本と米国は協力して支那と対峙して、アジアを保全しなければならないのも両国の義務である。
支那と日米の対峙の目標はアジアの保全ばかりではない。支那大陸における健全な国民国家の成立である。支那大陸において未だかつて健全な国民国家が成立した経験はない。たが中国系住民が居る台湾において、かなりその目標が達成しつつあることは、適切な国家規模ならば、大陸にも健全な国民国家が成立しえることを証明している。また皮肉なことに、植民地化の間に英国が教えた「民主化」という言葉を覚えた香港人が、支那政府と対峙する形成を見せているのも、支那における光明のひとつである。
健全な国民国家の成立を阻んでいるのは、規模の問題と民族の錯綜と大陸における覇権志向の原因ともいえる統一願望である。統一願望は統一が成ったとしても、チベット侵略のように、更なる統一を求めて拡大する。これが覇権志向である。支那においては日本と異なり、古来支配者と被支配者は厳然と区別されている。
支配者は自らの幸福のために統一と拡大を望む。そして大部分の被支配者は抑圧と収奪の犠牲となる。この不幸の連鎖を断ち切るには、各民族が分立して独立する、支那の分裂しかない。分裂は適正規模の国民国家の成立と、類似民族の国内共存による安定である。
支那は漢民族と呼ばれる多数民族が支配しているとされる。しかし漢民族というのはフィクションである。それが証拠に漢民族といえども北京語、広東語、福建語など全く異なる言語を話していることはよく知られている。
互いに通じない異言語を話すものが同一民族であろうはずがない。異言語とはいえ英語のルーツは古ドイツ語である。そのような意味における近親性さえ、中国における各言語間には少ないと考えられる。支那は古来外来民族による支配を繰り返してきた。その外来民族が自らの王朝が滅んだ後にも、大陸の各地にまとまって定住した。
そのグループが上記の北京、広東、福建などの異なる言語を話すのである。すなわち古来の外来民族の象徴が、相違する各言語である。すなわち北京語と広東語を話すものは民族のルーツは異なる。別項で説明するが、北京語を母語として話すのは実は満州族であるというように(満洲化した、いわゆる漢民族も含む)。
支那人が血族しか信用しないというのはこの異民族性による。血族すなわち、確実に同一民族と保証された人しか信用しないのである。それは大陸が常に外来民族の侵略支配と定住を繰り返した、モザイクのような地域であったためである。血族すなわち同一民族、つまり同一言語のグループだけで国家を構成するようになれば、この不幸は解消する。
この分裂が始まったとき、日米は協力して分裂を支援しなければならない。そのためには米国人に支那大陸の本質はヨーロッパのように、異民族が各地に固まって定住しているモザイクのような地域であり、統一は住民に不幸しかもたらさない、ということを理解させることである。そして統一志向が覇権志向の原因であり、アジアの不安定化の原因であるということを理解させなければならない。外部から干渉あるいは支援などをせずに、内乱を放置することかも知れない。日米ともに、混乱の平定を目的として支援した結果が、毛沢東の統一という最悪の結果をもたらしたからである。
この際に潜在的な危険がある。それは米国がハワイ併合以来、中国に野心を持ってきたことである。現在の中国に対しては軍事力のみならず、地理と人口の縦深性により戦い難いために、経済的権益の追求だけに止めているが、分裂した国民国家となった中国に対しては、米国は本来の野心をもたげることなしとしない、と考えなければならないであろう。
そのときかつてのロシア帝国がそうであったように、復活したロシアも中国を狙うであろう。このときアジアの安定のために、何らかの形で戦うのが日本の役割である。アジアの安定なくしては日本の平和はない。
もう一つは米国の抜きがたい有色人種への蔑視である。そのことに日本はペリー来航以来悩まされてきた。排日移民法、戦時中の日系人隔離、東京大空襲や原爆投下など市民への無差別大量殺害などである。すなわち日本人に対する欧米人、従って米国人には表面上現在はなりを潜めているが、絶対的な人種偏見がある。そのことを日本人は絶対に忘れてはならない。米国は日本が対等な同盟関係を求めた場合、その偏見が妨害するであろう。
小林よしのりや西部邁の反米論は感情論である。米国が日本になした仕打ちは前述のようであって、両氏の言うことは事実として正しい。米軍が人道的な軍隊などではなく、南方や沖縄、本土において民間人の殺戮と暴行を行ったのは事実である。しかしその故に同盟が出来ないという結論を下すから感情論だというのである。確かに同盟できないとは直接は言っていないように思う。しかし二人の主張を総合すると、同盟できないと考えていると結論するしかない。
欧米人も究極において日本人と異なり暴力的である。だがロシア人や支那人と異なり表面上はルールを確立して秩序を保っている。文明を装っているのである。彼らがギリシアローマ文明の後継ではなく、ゲルマン、ノルマンの蛮族の出身で、倦むことなく争いを繰り返したのは遠い昔の話ではない。二千年の歴史の経過で暫時文明化した日本列島と異なる。
楠正成の糞尿をかけて敵軍を撃退したなどという、おおらかな話しが讃えられる世界と、十字軍とイスラムの攻防のように、巨大兵器を開発して戦闘を繰り返す文明とは世界が異なる。近代においても同一民族でありながら、米英の独立戦争を戦った。国内でも南北戦争という殺戮を繰り返し、北軍は南軍に無条件降伏を要求し、講和による和平を選択させなかった、過酷な人たちである。
しかし、ともかくも彼らは和解し、米英は断ち難い同盟国となり、米国民は南北ともに対外戦争に協力できている。日本にした米国の仕打ちを忘れてはならない。だがそれ故に同盟が出来ないとしたら米英の同盟もなく、南北対立によって米国の統一もなかったはずである。
これらの同盟と異なるのは前述のように、日米には人種偏見という抜きがたい溝があることである。しかし、多民族国家である米国にとって人種偏見は、自らにも向けられた刃であることを自覚しているはずである。それゆえ日本は人種偏見がなきがごとく、米国に対応することができるのである。
日米戦争を戦ったのは必ずしも米国にも反感を残したのではない。米海軍には日本海海戦に勝った東郷平八郎に対する伝統的憧憬がある。日本海海戦は最初の近代的海戦であった。米海軍の将帥はアドミラル・トーゴーの海軍と戦うと奮い立った者が多いという。大東亜戦争で敗れはしたものの、彼らはカミカゼ攻撃の恐ろしさを知っている。いざとなったときの日本に対する畏怖はある。
英米人には伝統的に良く戦った相手に対する尊敬というものがある。その点は日本人と共通している。それは個人から組織にまで及ぶことがある。そして相手が人種偏見の対象となる人種であっても、よく戦った相手には例外的に敬意を払う。例えば黒人であっても人種偏見にめげず勉学して弁護士や政治家となり、白人と対等以上の仕事をしている者に対しては名誉白人として、白人と同一の居住区に住めるし、対等に喧嘩をしながら仕事が出来る。
日本人が米国人の人種偏見を打破して対等の同盟ができるとしたら、その原資は明治以来の日本が苛烈な戦争を戦い抜いたことである。その極限がカミカゼである。西洋人は日本人と異なり、数百年の戦いを続けてきた戦争巧者であり、勝利に向けてはハード、ソフト共に天才的な努力と才能を発揮することは、日本人の及ぶところではない。その努力の結果は年々進歩している。
だが日本人が古里のために生命を惜しまない精神を潜在させていることを知る限り、対等の関係が成り立ちうる。だが日本にも朝日新聞のような、一部のマスコミのように、生命どころかカネの欲しさと脅しに屈して、故国を支那に売っても恥じない者たちが増えている。彼らは支那人からも心底では、侮蔑される存在なのだが、現実には大きな日本の脅威である。
米国はある意味、「長い歴史を持つ」中国には憧れのようなものを持っていると推察される。それが戦前、中国を支援したのはひとつの原因である。それは中国が文明発祥の地とされるのに対してわずか二百年しかないというコンプレックスであろう。ところが現実の中国はみじめな後進国であるということが、ますます支援を動機付ける。日本に対する蔑視と中国に対する憧れが近年に至っても、クリントン政権のように時々日米関係を阻害している。
日本には古来支那大陸との葛藤があった。これに幕末以来、ロシアと米国が参加して日本を悩ませた。隣国朝鮮は常にその間にあって日和見をする自主性のない存在であった。このパターンは現在でも生きている。それが日中二千年の歴史が教えるものである。
日本人は中国四千年の歴史という、フィクションを忘れなければならない。中国の歴史は支那大陸という地域の歴史であって、連続した民族の歴史ではない。漢民族というものはいない。支那は飢餓と戦乱により民族の血統が何回も断絶した地域である。長江文明の支那人は黄河文明の支那人ではない。黄河文明の支那人は秦漢の支那人ではない。
秦漢の支那人も隋唐の支那人は宋の支那人ではない。宋の支那人は元の支那人ではない。元の支那人は明の支那人ではない。明の支那人は清の支那人ではない。清の支那人は中共の支那人ではない。これらの漢には風俗、文明、言語、血統のほとんどが必ず断絶して不連続である。異民族が漢化されたのではない。支那の住民が異民族に滅亡あるいは同化されたのである。支那のひとつの文明はひとつの王朝限りで終わっている。現代支那の歴史は1949年の中華人民共和国から始まった、百年にも満たないものである。
だから漢民族の四千年の歴史はない。日本人は戦前の日本人が持っていたような、文明の先達としての中国に対する憧憬を捨てるべきである。支那の現実をみつめて考えを改めた内田良平を見習うべきであって、支那に憧れて助けようとして殺された松井石根を見習うべきではない。冷徹に支那大陸の覇権争いとして捉えて対処するべきである。それが大陸の住民個人個人の幸福を達成するゆえんである。