「日米戦争を起こしたのは誰か」と言う本は、フーバー元大統領の回顧録を中心に、ルーズベルトの失政により、ソ連に漁夫の利を得させ、東欧の支配など一連の戦後の悲劇を引き起こしたことなど、多くの有意義な内容がある。しかし、1点だけ看過できない間違いがあるので、それだけを指摘しておく。
「真珠湾攻撃は、戦術的には大成功であったが、戦略的には取り返しのつかぬ超大失敗であった。これを立案実行した山本五十六と、これを承認した東条英機の”愚″は、末永く日本国民の反省の糧とならねばならない。(P170)」(藤井厳喜氏筆)とあるのだ。
真珠湾攻撃の評価はさておく。図上演習ではそれなりの戦果は挙がるものの、攻撃部隊が全滅に等しい被害を受ける結果となって、軍令部内で猛反対が起きたのを、山本五十六が強引に実行したことは良く知られている。しかし、東條は、真珠湾攻撃を実行することすら事前に知らなかった、という説を読んだことがあった。
そこで「東條英機宣誓供述書」で確認することにしたが、書架に見つからない。かなり以前に読んで、各項ごとに自分なりのメモを作っていたが、それも見つからない。そこで平成18年出版の「東條英機歴史の証言」(渡部昇一著)記載の宣誓供述書でチェックすることにした。ページ番号は本書による。
昭和16年12月1日の御前会議で開戦の決定をし(P391)、開戦までの重要事項は(一)開戦実施の準備と(二)これに関する国務の遂行の二つである。ただし「前者は大本営陸海軍統帥部の責任において行われるものであって、」政府は統帥事項には関与できない。「唯統帥の必要上軍事行政の面において措置せることが必要なものがあり」これには陸軍大臣として在任期間における行政上の責任があるが、海軍に関しては陸軍大臣あるいは総理大臣としても関与できない。
日本特有の統帥権独立の制度があり「・・・作戦用兵の計画実施、換言すれば統帥部のことについては行政府は関与出来ず、従って責任も負いませぬ。」これは戦前の日本の統帥制度を知る者には常識であり、東條にはそもそも真珠湾攻撃という海軍の作戦を承認する権限がないのである。だからタイトルは「東條総理は真珠湾攻撃を承認できない」と書くのが正確であろう。
これで間違いの指摘としては十分であろうが、東條はいつ真珠湾攻撃計画を知ったのか。これは供述書の記載では不分明であるが、「開戦の決意を為すことを必要とした・・・之がため開かれたのが十二月一日の御前会議であります。(P378)」とある。
渡部氏によれば東條は陸軍大臣在任中、大本営の会議に列したことは一回もなく、それではまずいというので、昭和19年になってようやく陸相と参謀総長を兼ねた、という。(P394)11月27日の連絡会議でハルノートに対する態度を決め、12月4日の連絡会議で外相から通告文の提示があり、「・・・取扱いに付いては概ね以下のような合意に達したと記憶します。(P396)」とあり、合意の内容が記載されている。
その後に「真珠湾攻撃其の他の攻撃計画及び作戦行動わけても攻撃開始時間は大本営に於ては極秘として一切之を開示しません。・・・私は陸軍大臣として参謀総長より極秘に之を知らされて居りましたが、他の閣僚は知らないのであります。」と書かれている。
東條は参謀総長から、非公式ルートで聞かされたのに過ぎない。従って東條が真珠湾攻撃計画を知ったのは、11月27日~12月4日の間位であろう。既に艦隊は真珠湾に近づいていた。時期から推するに、真珠湾攻撃計画決定はおろか、出撃時点でも何も知らなかったのであろう。権限からも時間的にも、東條が山本の「立案実行を承認した」ということはあり得ない。気になるのは藤井氏が「東條」ではなく「東条」と書いていることである。東條本人が気にする人物かどうかは別として、旧字でないのは変であろう。侮蔑的なにおいがするのである。実は小生も恥ずかしながら昔は「東条」と書いていた。しかし、旧字体が正しいことに気付いてからは「東條」と書いている。
また渡部氏は日本外交史の書を多く著している、岡崎冬彦氏が「戦争の勝負を別とすれば、東條さんは日露戦争の首相桂太郎より偉いだろうという主旨のことを言って」おられたのは卓見である、(P10)と書いている。現代人で東條をここまで評価するのを寡聞にして知らない。小生は日本の昭和史上の人物で、東條英機を昭和天皇の次に尊敬しているから、嬉しい評価である。