よほどセンスがいい人でない限り、事務屋が技術に口を出し過ぎると、間違いを犯す。この類が山本五十六の海軍航空の推進であった。山本は軍人の肩書はあるが、武人ではない。誰の評論であったろうか。山本は海軍次官や大臣といった行政職につくべきであって、連合艦隊司令長官、と言った軍人としての指揮官としては不適格であるといった。いわば軍政畑の資質の人であった。
確かに日露戦争で指を失うという、海上戦闘経験を有している。しかし、その経験も山本の資質を変えることはできなかったのであろう。話を戻すと、ワシントン条約やロンドン条約で対米七割の海軍力が確保できなくなると、山本は対策として航空機による主力艦の漸減作戦を考えた。もちろんこの時の航空のトップは山本ではなかった。
だが積極的に推進し、航空攻撃の虜になっていき、真珠湾攻撃、マレー沖海戦という形で結実したのはまぎれもない事実である。山本なかりせば、この二つの作戦は別な形で行われており、海軍の対米作戦が航空偏重となることもなかったであろう。航空偏重はそれまで培ってきた戦備と訓練の多くを無駄にした。「負けるはずがなかった大東亜戦争」で倉山氏はサッカーの例を挙げて、守って勝つと言う練習と人材を集めたチームが、突如実戦で攻めまくる作戦に監督が切り替えたら、試合にならない、という意味の事を言っているが、正に山本はそれをしたのである。
確かに軍事上の技術革新は必要である。しかし、それまで海軍が対米有利としてきたのは、在来型の主力艦による戦闘であり、航空機の急速な発展に短期間にフォローアップできるポテンシャルもなかった。山本は在米経験から、日米の工業力の比が隔絶しており、航空機の大量生産については、米国が圧倒的に有利であったことは承知していたのである。これに比べ主力艦である戦艦は、短期間で建造できるものではなく、戦前からの準備が必要であるから、日米の差が工業力の差ほどの開きは出ない。
元々、陸上攻撃機を開発して軍艦を攻撃する、という構想は、軍縮条約で不利になった艦艇の比率を潜水艦や航空機で漸減して、対等に近い状態にするための、補助手段であった。しかし、ハワイ、マレー沖海戦で航空機単独での攻撃に成功すると、その後の作戦は航空機単独となることが圧倒的に多くなった。山本は戦前の海軍の戦争準備の方法を覆してしまったのである。つまり山本という軍政屋が軍事技術に大きく介入して指導したために、有利なフィールドで戦わず、不利なフィールドに突入する指導的役割を果たしてしまった、と言わざるを得ない。
米軍ですら航空偏重になったわけではなく、水上艦艇、潜水艦と航空機をバランスよく組み合わせて使っている。米海軍は、建造中止となったモンタナ級や一部のアイオワ級の建造中止にした以外に、対日戦開戦以後、ノースカロライナ級以下10隻の戦艦を実戦配備したのに対して、日本では大和級の2隻だけである。しかも、日本の艦船を最も多く撃沈したのは航空機ではなく、潜水艦であることは、よく知られている。