戦艦の砲撃術について
「戦艦十二隻」という本がある。その中で旧海軍の黛治夫元大佐と吉田俊雄元中佐が、戦艦の射撃について書いている。その中の、吉田氏の射撃砲に関する記述は意外であった。黛氏も吉田氏も砲術の専門であり、吉田氏は後述のサマール沖海戦で、大和の副砲長をしていたというのである。
戦艦が射撃をするには、発令所にある射撃盤という大型の計算機があって、入力するデータは、目標までの距離、目標の進路、速力、自艦の速力などである。これによって、射撃諸元を計算して、指揮所と各砲塔に電気信号として送信する。(P124)
ところが、敵艦の進路、速力は極めて重要な要素であるにもかかわらず、自艦上から測定する装置はまったくない、というのである(P130)というのには驚いた。その前段で、30kmの距離で敵艦が30ktで走っているとすれば、弾着までに900m動いていると、書いているのである。方向も分からないのだから、この誤差はさらに拡大する。
進路と速力を補正するのには、飛行機の観測によるか、周囲の状況から推定するしかなかったというのである。推定とは、目視により構造物の向きで進路を、艦首や艦尾の白波の立ち方で、速力を判断する、と言うことである。日本海軍が零戦の滞空時間を恐ろしく長く取って、観測機を援護しようと考えたのは至極妥当なことであった。
ところが、栗田艦隊は比島沖海戦の際に、早期に艦隊の全観測機を陸上基地に帰してしまった。吉田氏は、サマール沖海戦の際に大和は初弾から命中弾を与えて敵空母を撃沈した、と書くが(P135)、事実は、大和も長門も一発の命中弾も与えていない。スコールや敵駆逐艦の煙幕展張の妨害にあっているが、観測機があれば、支障なかったであろうし、そもそも護衛空母を正規空母と見誤ることもなかったであろう。
ここで疑問に思うのは、米海軍の射撃方法である。米海軍のMk37射撃指揮装置は対水上、対空兼用であり5in両用砲用のものである。対空射撃では日本の九四式高射装置に比べ、格段の高成績を挙げている。対空用で精度を上げるには、飛行機の進路や速度も知らなければならないから、当然Mk37はこれらのデータをレーダー以外の何かで得ていたはずである。戦艦霧島の撃沈はレーダー射撃によったと書いてある資料があるが、米軍とて当時、レーダーは補助手段であって、厳密な意味でのレーダー射撃はできなかった。
古本であるが丸スペシャル「砲熕兵器」によればMk37の計算機は、目標距離11,000mでの射撃データ計算時間は10秒であったとされている。例えば、飛行機の位置の何箇所かのデータから、飛行機の針路や速度を計算し、砲弾の到達時点での飛行機の位置を計算していたのであろう。アナログコンピュータであるにしても、10秒は長いが、これは観測データ入力から計算機の出力の間に人間が介在していることが原因ではあるまいか。
遥かに高速であり、三次元の動きをする飛行機で、このようなことが可能であれば、鈍足かつ二次元の動きしかしない、艦艇ではより容易であったろう。そう考えるのはMk37が対水上用も兼ねているからである。とすれば、5in用のMk37ばかりではなく、同時期の戦艦の主砲用の射撃指揮装置も同様に、敵艦の進路と速度も得ることができていたのに違いない。もしそうならば日米の戦艦の主砲の命中率には大きな差が出る。特に初弾においては甚だしいであろう。
戦艦十二隻の中で黛氏は、米海軍の砲術進歩の調査を命じられて、昭和九年に渡米留学し、昭和十一年七月に帰朝したとしている。この間に米退役軍人から得た「一九三四年度米海軍砲術年報」を分析すると、米海軍の大口径砲の命中率は日本の約三分の一であった。その原因は散布界の過大にあることは間違いない(P239)としている。これは、この時点での日米の射撃指揮装置自体に優劣はなく、命中率の差は主砲の散布界の大小だけによる、ということになる。軍艦の射撃訓練は、固定目標ではなく、艦艇で標的を曳航していたのである。ということは、この当時米海軍でも、計算機で敵艦の針路や速力を得てはいなかったということであろう。
ところで「砲熕兵器」によれば、Mk37は昭和十一年に開発が開始され、昭和十四年に実用化の目途がついたとされる。黛氏が米国から帰ったころ開発が開始されていたのだから、その後日米関係が悪化の一途を辿ったことを考え合わせると、それ以後の米国の砲撃術の情報は入ってこなかったのであろう。従って、Mk37と九四式高射装置の差と同様の差が、日米の戦艦の主砲の射撃指揮装置にもあったとしても不思議ではない、というのが小生の今のところの結論である。
小生は昭和五十二年刊行の黛氏の「艦砲射撃の歴史」という本を入手した。これにも昭和十一年ころまでの日米の戦艦や重巡の大口径砲の射撃についての記述がある。昭和十五年ころのデータについては、戦艦に関しては、米国のものは無いようで、読む限り海自の元海将から最近(多分昭和五〇年ころ)米海軍当局から入手した米重巡の20cm主砲のものしかないようである。(P306)つまり黛氏の米海軍の戦艦の主砲の砲術についての知識は、昭和十一以降は全く欠落しているということになる。昭和十一年以降に改良がなされていたとしても、分からないのである。
艦砲射撃の歴史は、実はほとんど読んでいないので、今後読み解けるものがあるかもしれないが、このような訳で多くは期待できないと思う。日米戦の新戦艦のノースカロライナ級、サウスダコタ級、アイオワ級と大和級の主砲の射撃指揮装置の相違について知りたいと思う所以である。
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