著者の二人とも、多くの保守の論客と同じく、日本文明の中心を皇室だとしている。それを敷衍した書である。いつものように論述を素直になぞっていくのではなく、興味のある指摘を散漫ではあるが取り上げることにする。
皇室の祭事は、現代日本では宗教に絡むと考えられるものは、皇室の私的行事とされている。一方で、現在は歴史的に見て皇室の祭事をきちんと行っている方であろう。江戸時代には長くにわたって、多くの祭事が廃絶されていた。それを孝明天皇の二代前の光格天皇が積極的に復興され、古い形式に復活された(P72)。時期から言うと幕末に近づきつつある時代であったから、何かしら危機感のようなものがあったのであろう。
同様に今上天皇陛下は橿原神宮その他に御親拝するなど、祭祀に極めて熱心に取り組まれており、これは陛下が日本の現状に強い危機感を持たれているのではないか(P73)、というのである。これは中国などの東アジア情勢に対する危機感と言うものもあろうが、最大のものは、皇室の安泰に対する危機感ではなかろうか。皇室が安泰であれば、対外的危機は日本は乗り越えてきたのである。
日本国憲法は国民主権をうたっている。しかし、ヨーロッパでイギリスやデンマークなど、王室をいただく国の憲法は、「国民主権」ではないというのである(P109)。イギリスは議会と王室が国家主権を分かち合っており、両者の合意により主権行使がなされる。デンマークでは、「行政権は国王に属する」とされている。国民主権と言うのは、そもそも皇室の存在とは矛盾するのである。国民主権の概念を強引に持ち込んだのは、GHQではなく、ソ連がGHQを通して入れさせたものである(P110)。
我々の世代と異なり、このことの重要性に気づいていた当時の国会議員は「国民の至高の意志」などと言葉を変えるよう抵抗したが、結局GHQに押し切られてしまった、というのである。このことはノー天気に国民主権と喜んでいる多くの日本人がいかに不見識かの象徴である。日本人はお仕着せの思想を自らのものと信じてやまないほど洗脳されたのである。
日本人は洗脳されたばかりではない。当時の指導層自身は愚かと知りつつ、占領軍に迎合した。その典型が憲法学者で最高裁の長官になった横田喜三郎である(P118)。彼は昭和二十四年に「天皇制」という本を書き「天皇制は封建的な遺制で、民主化が始まった日本とは相容れない。いずれ廃止されるべきである」という意味の事を書いた。ところが、その後勲一等を受けている。昭和天皇に頭を下げたのである。なんと横田は東京の古本屋を回って「天皇制」の本を全部買い集め、世間の目に触れないようにする、という恥ずべきことを行ったと言うのだ。戦前の教育を受けた人間にしてこの体たらくである。まして現代のエリート層にはこの手の人間が増えている。