伊藤之雄氏の「伊藤博文」という大著を読み始めて考えていることがある。伊藤の父は足軽となったものの、元々は農家であった。それが、色々な人間関係で成長し、とりたてられて出世し、ついには日本初の総理大臣となった。小生は出世物語そのものに興味があるわけではない。伊藤が出世したのには、日本の指導者の選択の過程によって選択手法あるいは選択基準がある、ということに気付いたのである。
日本の指導者は、天皇の政治権力の後継となった人々であるが、全て日本人の幸福、もちろんマクロな意味であるが、幸福、ということを絶対基準としていた。小生は戦前の軍人の高官を批判していることが多いが、結局のところ日本の軍人の高官も指導者も国民に劣らず優秀である、と言えるし、何よりも国民全体の幸福を考えていた。
それは隣国支那と比較すればいいであろう。支那における漢民族の指導者に、未だ嘗て民族の幸福を考えたものはいなかった。正確には、そのような人物がいたとしても、結局は指導者に選ばれず排除された、と言えるのである。少し脱線するが話の都合上、漢民族、という言葉について敷衍する。漢民族とはヨーロッパ人という概念とアナロジーがある、というのが小生の結論である。
ヨーロッパ人にも、雑に数えてもラテン系、ゲルマン系、アングロサクソン系などかいて、アルファベットによる言語の文字表記をするのだが、各々言語も相違する。文化も習慣も相違する。それでも日本人と比較すれば、やはり何らかの共通項はある。このようなヨーロッパ人とひとからげに呼ぶように、大陸に住む人々のある範囲に限ったいくつかの民族をまとめて漢民族と呼んでいる、というのである。つまり漢民族はひとつの民族の呼称ではないように、ヨーロッパ人もひとつの民族の呼称ではない。にも関わらずメンタリティーやキリスト教を代表とする共通項はある。
ところがヨーロッパ周辺にも、ロシア系、トルコ系、などの言語文字習慣など、ほとんど完全にヨーロッパとは区別できる人たちがいる。かれらは宗教ばかりではなく、メンタリティーにおいてもヨーロッパ人との共通項はかなり少ない。だからヨーロッパ人とは区別が出来るのである。同様に漢民族の周辺にも、そのような民族はいる。チベット人である。ウイグル人である。モンゴル人である。満洲人である。
支那大陸の王朝には、漢民族以外の満洲人、モンゴル人などに支配された時代があり、漢民族の居住の各地域の広範な自治を許していただけ、漢民族により支配されていた時代より幸福であったと言われている。漢民族と自称している人たちが支配した時代は、漢王朝、すなわち本来の漢民族の王朝の崩壊以後、領域の民を幸せにする指導者がいなかった。日本の指導者が国民を幸せにすることを選抜の条件としていたのに対して、漢民族は指導者とその血族だけの幸福を求めて、凄惨な闘争を繰り返してきたのである。
その典型が、最近では毛沢東である。彼の命令で何千万、いや億単位の民が死んでいったと言われている。それでも毛沢東の周辺は酒池肉林を繰り返していたのである。いや民は毛沢東を強い指導者として選択し、トップにまでし、尊敬し従ったのである。彼らの指導者の選択基準は、投票で指導者を選ぶことになっても変わりはしないだろう。
日本でもアメリカでも同じことである。選択の方法が選挙という手続きを踏んでいるだけで、選択の基準は同じなのである。伊藤博文は選挙で日本初の総理大臣になったわけではない。その後議会制民主主義となり、間接選挙で指導者が選ばれるようになっても変わらないのであろう。前述の「伊藤博文」によって伊藤が上り詰めるまでの過程を分析し、その他の日本の指導者の出世過程をも分析すれば、日本の指導者の選択基準はわかるであろうが、小生にはその力量はない。ただし最終目標は民を幸せにする、ということである、ということだけは言える。