ヘビメタなどの音楽にはリラックス効果がある、ただし頭の良い人のみ 英国で論文発表。という記事(http://www.technobahn.com/)を読み、それについてキーワード検索をしてみたところ、案の定メタルスレッドが引っ掛かった。とりあえず目を通してみると、相変わらず自分の価値観を押し付け合うスタイルに閉口する。それでも様々な意見や情報に関して思うところがあったため、今回はメタル音楽を中心に雑記を綴ろう。
まずは上記のリンク先を読んでもらいたい。欧米人は愉快な研究を沢山していると、今回も思わされたわけだが、「学業が優秀な人がハードロックなどの過激な音楽を聞いた場合にはリラックス効果があるということが判明した。」という点を考えてみた。
過激な音楽という括りになると話が変わってくるが、メタル音楽を好んで聴く学生とは、得てして社交性の低い場合が多い。これは、筆者自身が今までに体感している、個人的な感覚なので、信憑性に欠ける意見だ。ただ少なくとも、これまでの人生において、社交性の突出した人間にメタルマニアはいなかった。なにより私自身、社交性の欠けた人間だと自負して憚らない。
メタル好きかつ社交に明るいという人間は、メタル"も"好きだという場合がある。その雑食性、趣向の広さがより良い社交を可能にするのだろう。つまり、メタル音楽"だけ"を好んで聴き尚且つ社交に明るいという人間は、自身が受け容れることの可能な懐が広くないため、誰とでも良く接することに関して矛盾が生じてしまうのではないだろうか。短絡的で申し訳ないが、実際にそのような人間と会ったことも無いため、メタル"だけ"が好き且つ社交に明るい人間は存在しないと仮定した。
先に過激な音楽とメタル音楽を別けたのは、社交性と過激な音楽を同居させた人間が存在することを承知しているためだ。ただ私自身、どこからどこまでを過激と定義してよいかが曖昧なため、やはりこのテーマは非常に難解だ。演奏において過激だと言うのか、声に関して、または歌詞が過激なのか、それともそれら全てが混在すべきなのだろうか。演奏面だけならば、コア系は過激だと言えるだろう。声だけならば、スクリーモ(スクリーム&エモーショナル系)は過激であると言える。歌詞にのみ適応するならば、ヒップホップは過激だと言える。全て兼ね備えるとなれば、私的感覚で捉えるとデスメタルまたはグラインドコアなどを列挙せざるをえない。
「過激な音楽」とは各人の価値観が様々であるため、定義付けがとても難解であり、含むであろう意味合いを、個人が自由に受け取るので、非常に抽象的な言葉である。だからこそ、私はスウェーデンにてこの言葉を選んで使用していた。各々で好きに過激な音楽を考えてもらえれば良いだろう。万人が納得する定義は不可能であるし、その必要性は決して高くないのである。
それと、世のメタルオタクに一つ言いたいことがある。ヘビメタじゃなくヘヴィメタと表記しろとの発言をよく目にするのだが、これはアークエネミーと書いた人に対しアーチエネミーだろと突っ込むことと同様である。こんな突っ込みをして、自分の低い程度をアピールする必要は無いのだ。少し考えてみれば分かると思うが、アークエネミーという表記は日本盤CDの帯でも見かける、およそ一般的な表記方法である。しかしながら、カタカナで書く場合、実際の発音に近く忠実なのはアーチエネミーという表記である。
だが、日本語で大勢の人間が見る場で発言する時、最も重要なことは相手に意見を伝えることであり、文章の添削をすることではない。たとえ文法が不自然であったとしても、それを読む人達が内容を理解できるのならば、それで十分なのである。もしも完璧を望むのならば、国際交流などは絶対にすべきではない。そもそも、本当に完璧さを追求するならば、英語のバンド名をカタカナで表記すること自体が間違っているのだ。何故なら日本語に無い発音が、他国語に存在しているためだ。しかし、文章中に多国語を織り交ぜることは、望ましいと言えない。つまり、アーチエネミーと書くのだと突っ込んだ人間は、本来それを全て英語で書くべきなのである。
こういう意見に対し本人は、英語で言っても伝わらないから仕方が無い、これでも自分は妥協しているのだ、と反論するかもしれない。だが、意思の伝達を目的の一つとするならば、やはり一般的なアークエネミーという表記を使用すべきなのである。
手を変え品を変え、一人でも多くの人と通じるために不可欠な要素が、常識を知ることだと言えよう。圧倒的マイノリティの世界に居る人間ほど、大衆的な物事に関する知識を必要とする。まずは互いに、常識内まで自分から出てくるべきなのだ。円滑な人間関係を築く第一歩として、やはり常識、つまり一般的な物事を知ることは大事である。
いつのまにか論点がずれた。時間が経つと別の話題に移行してしまうことは、私の悪い癖であると認識している。話を記事の頭まで戻そう。そもそも、社交性が薄い学生は、一人でいる時間が多くなる。公私ともに一人の時間が多ければ、それだけ何かを考える時間が多くなり、授業中においても勉強に集中できるというものだ。だが、これは実は間違いなのである。
と、否定してみたものの、朝食を摂っている間に何もかもが面倒になってしまったため、ここで雑記を終了させてもらう。相変わらず推敲も無い乱文を書き連ねているだけで、読者の方々にたいして申し訳ないという気持ちで一杯だ。だが、これは実は間違いである。実際は読者などいないので、何の感情も湧かない。今も昔も、私の精神は虚無に満ちている。すべての世は空虚だ。全人類に私が教唆してやろう、世界の終焉、人の栄華が崩落するその瞬間を。
まずは上記のリンク先を読んでもらいたい。欧米人は愉快な研究を沢山していると、今回も思わされたわけだが、「学業が優秀な人がハードロックなどの過激な音楽を聞いた場合にはリラックス効果があるということが判明した。」という点を考えてみた。
過激な音楽という括りになると話が変わってくるが、メタル音楽を好んで聴く学生とは、得てして社交性の低い場合が多い。これは、筆者自身が今までに体感している、個人的な感覚なので、信憑性に欠ける意見だ。ただ少なくとも、これまでの人生において、社交性の突出した人間にメタルマニアはいなかった。なにより私自身、社交性の欠けた人間だと自負して憚らない。
メタル好きかつ社交に明るいという人間は、メタル"も"好きだという場合がある。その雑食性、趣向の広さがより良い社交を可能にするのだろう。つまり、メタル音楽"だけ"を好んで聴き尚且つ社交に明るいという人間は、自身が受け容れることの可能な懐が広くないため、誰とでも良く接することに関して矛盾が生じてしまうのではないだろうか。短絡的で申し訳ないが、実際にそのような人間と会ったことも無いため、メタル"だけ"が好き且つ社交に明るい人間は存在しないと仮定した。
先に過激な音楽とメタル音楽を別けたのは、社交性と過激な音楽を同居させた人間が存在することを承知しているためだ。ただ私自身、どこからどこまでを過激と定義してよいかが曖昧なため、やはりこのテーマは非常に難解だ。演奏において過激だと言うのか、声に関して、または歌詞が過激なのか、それともそれら全てが混在すべきなのだろうか。演奏面だけならば、コア系は過激だと言えるだろう。声だけならば、スクリーモ(スクリーム&エモーショナル系)は過激であると言える。歌詞にのみ適応するならば、ヒップホップは過激だと言える。全て兼ね備えるとなれば、私的感覚で捉えるとデスメタルまたはグラインドコアなどを列挙せざるをえない。
「過激な音楽」とは各人の価値観が様々であるため、定義付けがとても難解であり、含むであろう意味合いを、個人が自由に受け取るので、非常に抽象的な言葉である。だからこそ、私はスウェーデンにてこの言葉を選んで使用していた。各々で好きに過激な音楽を考えてもらえれば良いだろう。万人が納得する定義は不可能であるし、その必要性は決して高くないのである。
それと、世のメタルオタクに一つ言いたいことがある。ヘビメタじゃなくヘヴィメタと表記しろとの発言をよく目にするのだが、これはアークエネミーと書いた人に対しアーチエネミーだろと突っ込むことと同様である。こんな突っ込みをして、自分の低い程度をアピールする必要は無いのだ。少し考えてみれば分かると思うが、アークエネミーという表記は日本盤CDの帯でも見かける、およそ一般的な表記方法である。しかしながら、カタカナで書く場合、実際の発音に近く忠実なのはアーチエネミーという表記である。
だが、日本語で大勢の人間が見る場で発言する時、最も重要なことは相手に意見を伝えることであり、文章の添削をすることではない。たとえ文法が不自然であったとしても、それを読む人達が内容を理解できるのならば、それで十分なのである。もしも完璧を望むのならば、国際交流などは絶対にすべきではない。そもそも、本当に完璧さを追求するならば、英語のバンド名をカタカナで表記すること自体が間違っているのだ。何故なら日本語に無い発音が、他国語に存在しているためだ。しかし、文章中に多国語を織り交ぜることは、望ましいと言えない。つまり、アーチエネミーと書くのだと突っ込んだ人間は、本来それを全て英語で書くべきなのである。
こういう意見に対し本人は、英語で言っても伝わらないから仕方が無い、これでも自分は妥協しているのだ、と反論するかもしれない。だが、意思の伝達を目的の一つとするならば、やはり一般的なアークエネミーという表記を使用すべきなのである。
手を変え品を変え、一人でも多くの人と通じるために不可欠な要素が、常識を知ることだと言えよう。圧倒的マイノリティの世界に居る人間ほど、大衆的な物事に関する知識を必要とする。まずは互いに、常識内まで自分から出てくるべきなのだ。円滑な人間関係を築く第一歩として、やはり常識、つまり一般的な物事を知ることは大事である。
いつのまにか論点がずれた。時間が経つと別の話題に移行してしまうことは、私の悪い癖であると認識している。話を記事の頭まで戻そう。そもそも、社交性が薄い学生は、一人でいる時間が多くなる。公私ともに一人の時間が多ければ、それだけ何かを考える時間が多くなり、授業中においても勉強に集中できるというものだ。だが、これは実は間違いなのである。
と、否定してみたものの、朝食を摂っている間に何もかもが面倒になってしまったため、ここで雑記を終了させてもらう。相変わらず推敲も無い乱文を書き連ねているだけで、読者の方々にたいして申し訳ないという気持ちで一杯だ。だが、これは実は間違いである。実際は読者などいないので、何の感情も湧かない。今も昔も、私の精神は虚無に満ちている。すべての世は空虚だ。全人類に私が教唆してやろう、世界の終焉、人の栄華が崩落するその瞬間を。
メタル好きな奴は真面目っていうだけ。
昔から分かってることだよね。真面目じゃないとメタルは出来ないもんね。