花のある生活

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旧約聖書を読み解く5  「ユダヤ民族だけの神」から「全世界の神」  

2015-06-07 | 読んだ本
旧約聖書を読み解く1  聖書は「歴史物語」

旧約聖書を読み解く2  ユダヤ教の成立

旧約聖書を読み解く3  本格的な一神教の誕生

旧約聖書を読み解く4  神の沈黙


ところが、今度は「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」の区別に意味がない、とする傾向が出てきます。

創世記には「人間の創造」の話が出てきますが、「男」と「女」をつくったと書かれているだけで、「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」の区別があるとは書かれていません。

しかし、ユダヤ民族の民族宗教であるユダヤ教では「神(ヤーヴェ)は、ユダヤ民族だけを守る神」であり、「ユダヤ民族は神(ヤーヴェ)だけを崇拝する」という、一神教の立場です。


ですから、神にとって価値があるのは「ユダヤ民族だけ」のはずですが、創世記ではそうなっていません。

ただ単に「神」が「人」をつくって、その「人」を「神」が祝福した、ことになっています。

「自分たちの国」があるうちは、「自分たちの国を守ってくれるか」が最大の関心事だったのですが、支配者の下で「自分たちの神を崇拝しながら生活する」という状態が続くようになると、「自分たちが置かれている屈辱的な状態を、どのようにして受け入れるか」が問題になります。


ユダヤ教は「本格的な一神教」の枠組みが出来上がっているので、救いがない状態でも「神は義である」。

そして、支配者として栄えているのは「非ユダヤ人」たちです。

そこで、ユダヤ民族は「神は『ユダヤ民族』だけでなく、『全人類』を支配している」 「非ユダヤ人」が政治的に優位にあるのは「― 神の奥深い意図によるものだ ―」と考えます。

「神が世界をつくった」のだから、「神は全世界の神」であり、「神は民族主義的」であり、「普遍主義的」でもある、だから「非ユダヤ人も神の祝福の対象になる」と。


前三~前二世紀には「黙示思想」と呼ばれる立場が出てきます。

神が「全世界の神」として認識されるようになったこと、「本格的な一神教」における「罪」の考え方が浸透して長く経ったことから、「神の活動の可能性」について思索がなされるようになります。

「この世」は、神によってつくられた世界。

しかし「この世」は、悪の状態にある。

よって、滅ぼされてしかるべき。

「この世の終わり」「終末」は、間近に迫っている。

神は「この世」を滅ぼす。

そして神は、新しい「来るべき世」を創造する。




「終末」「新しい来るべき世」の出現、というのは、「未来の様子」を神が示したので、それを報告する、という体裁になっているのが「黙示文学」。

「黙示思想」に熱心な者は「一部の者だけが救われる」という可能性に希望を託します。

未来に希望を託し、「終末」が早く実現するのを待ち望む ―― と。



それから、この「黙示思想」において新しいのは「神が一方的に動く」とされていること。

この状況の中で「人間はどうすれば救われるのか?」といったことに関心が集中し、俗流の「信仰」や「敬虔(けいけん)」その他、さまざまな「人間的試み」がなされてきました。

しかし、それらはすべて無駄で「神が一方的に『この世』を滅ぼす」とされています。


「『人間側の努力』で救いが得られるのではないか?」という、ユダヤ教での最後の真剣な試みが「エッセネ派」によるものです。

「エッセネ派」は、荒野の修行者たちで、町や村での文明の暮らしから離れ、死海のほとりで厳しい修行生活を試みます。

しかし、どんなに厳しく敬虔な生活を実行しても、結局「人が何をしても、救いは得られない」という結論に至った、と考えられるそうです。


ユダヤ教では、これ以降、無理な修行生活のようなことを試みません。

前一世紀末には、「エッセネ派の結論」ともいうべき、こうした理解がユダヤ民族全体に浸透したと考えられます。

そして、聖書では「人は何をしても救われない」「神が動くのを待つしかない」ということになった、とされています。


旧約聖書の話は、ここまで。


後一世紀前半、ユダヤ教徒としてイエスが生まれ、布教活動を始めます。

イエスは「身分や階級にとらわれず、神はすべての者を救う」と説いてまわり、当時のユダヤ教の主流「ファリサイ派」を批判したため、イエスは十字架にかけられ処刑。

処刑から三日後、「イエスが復活した」「イエスは救世主だ」と、イエスの弟子たちが布教活動を始めます。

後一世紀末、ユダヤ教から、キリスト教が分裂。


六世紀ごろ、ムハンマドが、キリスト教の天使「ガブリエル」から啓示を受けて、宗教活動を始めます。

七世紀、キリスト教から、イスラム教が分裂。


そして、現代までに至るわけです。



「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」は、全部「同じ神(ヤーヴェ)」を崇拝していることになるんですね。

創世記のモーゼの十戒では「神の名前をみだりに唱えない」とあるので、ユダヤ教では「アドナイ(主)」、イスラム教では「アッラー(神)」と呼ぶそうです。

名前の呼び方も諸説あり、ここでは「ヤーヴェ」と書いていますが、「ヤハウェ」「エホバ」とも読むそうです。


「神との友情」の中では、 

~~ 『神』  「神(God)」という言葉を書いてはいけない、「G-D」と書くべきだという者もある。 また、わたしの名前を口にするのはいいが、正しい名前でなくてはいけない、間違った名前を口にするのは冒瀆(ぼうとく)だという者もある。

だが、エホヴァと呼ぼうが、ヤーウェ、ゴッド、アラーと呼ぼうが、チャーリーと呼ぼうが、わたしはわたしとして変わりなく存在するし、間違った名前で呼ばれたからといって、あなたがたを愛するのをやめたりもしない。

だから、わたしを何と呼ぶかで争うのはやめればいい。 ~~「神との友情(上)」

と、書かれていたりもします。



さて、ここまで長くなりましたが、旧約聖書についての、まとめ。


聖書は「ユダヤ民族の歴史が語られている書物」。

しかし、「歴史物語」として見ると、聖書には別の解釈がなされた「2つの系統の物語」が存在します。

創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記・ヨシュア記・士師記・サムエル記(上下)・列王記(上下)は「申命記的歴史」と呼ばれています。

ここでは出来事が語られて、一定の善悪基準の判断がなされ、この善悪基準は「申命記」に記されている「掟集」に典型的に見られるものです。

この「申命記的掟」は前七世紀後半に編纂されたとし、「神の前で民がどのような態度を取るべきか」を示されています。


歴代誌(上下)・エズラ記・ネヘミヤ記は「歴代誌的歴史」と呼ばれています。

ここでは「理想化された歴史」が語られます。

前四世紀後半、ギリシア支配の最初の頃に成立したと考えられており、アダムから始まりダビデまでは、ほとんど系図だけで、北王国の物語もありません。

「旧約聖書」というのは、千年以上にわたり、様々な時代の預言者が伝えた「神の言葉」の記録や、神と人との関係から、人が置かれている条件についての思索の書、儀式の言葉、詩、時代小説風に書かれたもの…などを積み重ねて、「人間の理解の及ばないものになっている書物」ということらしい。


それから、聖書がこれだけ理解不能なくらいに複雑極まりないものになっているのは、民が様々な経験をし、いろんな立場を尊重するために、「一方的な見方を押し付け、過激な思想に陥らないようにするため」だったのかな、と思うのですが。

結果的には、たくさんの「宗派」に分裂してしまい、それぞれが「自分の正しさ」を主張して、争いを引き起こしたりしていますが。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3つの宗教の背景は、こんなに複雑な土台があるんですね~。





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