花のある生活

花はあまり出てきませんが。

ロートレックとベル・エポック PARISー1900年

2024-08-31 | 美術館・博物館
高岡市美術館で開催されている「ロートレックとベル・エポック PARISー1900年 ドガ、マネ、ミュシャらの美しき時代」に行ってきた。


1900年、フランスのパリでは五輪と万博が同時に開かれていた。

1900年前後、芸術文化も花開いて後に「ベル・エポック(美しき時代)」と呼ばれるようになる。

 


1864年、ロートレックは南仏アルビの貴族の家に生まれた。

パリに出て絵を学び、挿絵作家をしながら新しい表現方法のリトグラフ(石板画)にも興味を持つ。

色鮮やかな石板画のポスターは最新の広告媒体で、街中に掲示されると描いた作家の名前も知られるようになった。

ロートレックは身体にハンディを抱えていたが、鋭い観察眼と的確な描写で、他の作家が描こうとしないような個性を強調した絵を描いた。

1889年モンマルトにオープンした、ダンスホール「ムーラン・ルージュ」に通い、さまざまな階層の人たちが集まり宴を楽しむ様子を観察することで、2年後、代表作となったポスター「ムーラン・ルージュ ラ・グーリュ」を制作。

この作品によって、ポスター画家として注目されることとなる。

晩年は飲酒癖が過ぎて幻覚症状まで出るようになり、精神病院に入院、36歳で生涯を閉じる。



 

 

 

 

 



「ベル・エポック(美しき時代)」は、1900年前後の15年ほどの間と言われています。

印刷技術が発達して色鮮やかなポスターが登場したことにより、それらをコレクションする人たちも現れ始めた。

ポスターはサイズが大きく部屋に飾るには少々不便だったため、サイズが小さく文字も入っていない装飾版画が好まれ、定期的に発行される作品集が何種類も登場した。

複数の人気作家の作品が手軽にコレクションできるとあって人気を博した。

美術品を収集できるのは裕福な一部の人たちだけだったのが、装飾版画が普及したことによって、誰もが気軽に作品を楽しんだり、コレクションしたりできるようになったのも「ベル・エポック」と呼ばれている所以なのだそう。



このパリ万国博覧会で民間人初の日本の事務次官長として抜擢されたのが、高岡市出身の林忠正だった。

フランスからの要請を受けて、著名な社寺や個人収集家から381件もの日本の古美術品が集められ展示された。

日本美術の普及に尽力していた林にとっても集大成になる大規模な展示会だった。

1901年(明治34年)、これだけの美術品が集まる機会は貴重だったため国内でも展示されることとなり、帝室博物館にて展覧会が開催された。


ミュシャは、よく観に行くので行ってきたんだけど、この時代のいろんな作家の作品を観ることが出来て楽しかったわ。




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