花のある生活

花はあまり出てきませんが。

「本の世界」にワクワク

2024-11-16 | 美術館・博物館

たびたびテレビで取り上げられているのを見て「行ってみたい」と思っていた石川県立図書館へ行ってきた。


天気も良くて行楽日和の日だね~。





図書館に到着して中に入ると、円形の館内が目の前に広がり、一面「本の世界」。


テーマごとに置かれた本を眺めて歩いて、興味を引いた本を手に取って読むのが楽しい。


最上階まで上がって下を眺めると、さらに円形の館内の眺望が楽しめるし、本棚と本棚の間にデスクが備えられていて、集中して勉強するスペースが用意されているのがすごい。


館内を周りながら本を読んでいたら、あっという間に時間が過ぎるし、機会があったら、また行ってみようかな。



「ヤマザキマリの世界」展

2024-10-19 | 美術館・博物館
南砺市福光美術館で開催されている「ヤマザキマリの世界」展に行ってきた。

 

福光ゆかりの板画家、棟方志功のファンであるヤマザキマリが、南砺市で開催している「棟方まつり」に合わせて福光美術館で開催することにしたのだそう。

常設展で「棟方志功」「石崎光瑶」を展示中。




ヤマザキマリが「展覧会に寄せて」に載せた文章の中で、
「絵画の勉強のためにフィレンツェに移り住んで40年が経つ。 予測通り、自分が専攻した15世紀北方ルネサンス様式の肖像画の需要は全く無く、 11年間の悪戦苦闘の末、生きていく手段として漫画を描くようになったのは私が28歳の頃だった。 理想や夢を抱くことの残酷さを痛感していた私は、とにかく子供を育てるために粛々と漫画を描き続けてきた。 私から創作や表現に対する奢った考えを一切合切払拭した画家への道の挫折は、今振り返ればかけがえのない大切な経験だったと思う。 

 ~~中略~~ 自分にとって一番大事なのは創作に打ち込むときの集中力とエネルギーであり、その後にかたちとして現れる結果に対して、実はそれほどのこだわりを持ったことがなかった。 ~~中略~~ 漫画がヒットした時も、それに付随する問題で家族を巻き込んで大騒ぎとなり、喜びを噛み締めたり、充足感に浸ったりしたことがなかった。 だから、私だけではなく、そんな私の生き方を知る周りの友人や家族にとっても、今回の展覧会の実現はなかなか信じがたいことだったはずだ。 ~~~ 」


「テルマエ・ロマエ」の作者で、テレビでも多くの番組に出演しているヤマザキマリが「理想と現実」の間で、もがき続けて「生きていく手段」として漫画家になった、というのは驚いた。

一般的には「生きていく手段」として「漫画家への道」を選ぶ人は、そうそういないだろうというところからしても、絵を描くための「技能的な才能」はもちろんのこと、漫画を描くという「手間のかかる作業が苦にならない」というのも、一種の才能なのだろう。

代表作の「テルマエ・ロマエ」誕生のきっかけは、学生時代に留学先でお風呂に浸かれなかった経験から「ストレスが高じて癒されたい気持ちを漫画にした」のだそうだ。






 

「テルマエ・ロマエ」の手描き原稿や漫画原稿の制作過程、ヤマザキマリの出版本が並べられたコーナー、立川志の輔や山下達郎の肖像画の展示、幼少期からの絵日記や手描き絵本なども展示されています。

ヤマザキマリのインタビュー映像が流されていて「エンターテイメントは栄養」という話が印象的だった。






美術館からの帰りにチューリップ公園に立ち寄って、途中で買った「おにぎり弁当」食べてきた。

展望台に上ったら、コキアの紅葉が見事だった。

芸術の秋を満喫出来てよかった。




「パブロフの犬」と「アメとムチ」

2024-10-07 | 心理学
「パブロフの犬」は、条件反射といえば「パブロフの犬」というぐらい有名な心理学用語。

ロシアの生理学者イワン・パブロフが「ベルを鳴らしたら犬にエサを与える」という行動を繰り返したところ、あるときから「犬はベルを鳴らしただけでエサがもらえると思い、よだれを垂らすようになった」という実験をしたところからこの名が付いた。

パブロフの犬

パブロフの犬~条件反射の実験と人間の条件付け


「古典的条件付け」「レスポンデント条件付け」とも呼ばれていて、動物に芸を仕込むときなどに使われる手法だそうです。


「口の中に食べ物を入れると自然に唾液が出る」というように、外部からの刺激に対して無意識的に反応(反射)するのが「生理的反応」で、「食べ物を見ただけで唾液が出る」といった経験によって後天的に獲得した反応(反射)を「条件反射」と言います。

よく「梅干しを見るとツバが出てくる」というのがありますよね。


また「ストーカーの加害者」や「窃盗症」などの重度の依存症患者の治療にも、この「古典的条件付け」が使われているそうです。



次は、いわゆる「アメとムチ」と言われるもので、心理学では「オペラント条件付け」と呼ばれます。

アメリカの心理学者で行動分析学の創始者であるバラス・スキナーが「スキナー箱」を用いて研究したのが有名。

オペラント条件付け(道具的条件付け)


「オペラント行動」とは、ある環境に対して「自発的な行動」を取ること。 

「オペラント条件付け」とは、行動を起こしたことにより得られた結果(刺激)に対して、その「自発的行動の頻度」が変化する学習の仕組み。 

「自発的な行動そのもの」を、何らかの結果を得るために利用した「道具」と考えるところから「道具的条件付け」とも言われます。


実験では「スキナー箱」という実験装置を使い「レバーを押すとエサが出てくる仕掛けをした箱」に、ネズミを入れます。

たまたま、レバーを押したことで「エサが出てきた」ことに気付いたネズミが、その行動を繰り返すうち「レバーを押せばエサが出てくる」ということを経験する(オペラント行動)。

「レバーを押せば、エサが出る」ことを覚えたネズミは、「エサを求めて『自発的に』レバーを押すようになる」というもので、ネズミが「レバーを押せばエサが出てくる」ことを覚えて、「自発的に」レバーを押すようになったのは「オペラント行動」が強化されたから。


「きっかけとなる刺激」によって、オペラント行動が強化されることを「正の強化子」「負の強化子」と言います。

正の強化  良い経験をしたことで行動が増える↑

正の罰(弱化)  嫌な経験をしたことで行動が減る↓


負の強化  不快なことを取り除いたことで行動が増える↑

負の罰(弱化)  不快な思いをしたことで行動が減る↓




お手伝いをしたら、ほめられた。(正の強化

さらに、やる気がアップ!(行動が増える↑


ボール遊びをしていたら、窓を割って怒られた。(正の罰

窓にぶつけないように、気を付けて遊ぶことを覚える。(行動が減る↓


道が凍っていて滑りそう。(負の強化

タイヤも履き替えたし、ゆっくり走れば大丈夫!(行動増える↑


お菓子を食べ過ぎて太った。(負の罰

体重が増え過ぎないように食べる量を少なくしよう。(行動が減る↓


「子供のしつけ」のように、相手に「都合のよい行動」をとらせるために行なう場合もありますが、自分自身の行動のために使うこともできます。


他にも、「ハトの迷信行動」という実験があります。

1.「スキナー箱」に、空腹のハトを入れる。

2.ハトの行動とは無関係に15秒間隔で5秒間、エサを与える。

3.ハトは、エサの無い15秒間に「決まった行動」をするようになった。


この実験では8羽のハトで実験し、6羽のハトに「ぐるぐる回る」「頭を上げる」などの独自の行動がみられるようになった。

ハトは「自らの行動によってエサが与えられた」と勘違いし、エサが無い時にも「その行動」を繰り返すことで「エサが得られる」が強化された、というもの。

「直前の行動と結果の間には因果関係は存在していないが、偶然起こった強化によって条件付けが成立し維持された例」とのこと。



問題に対して「試み(行動)」と「失敗(結果)」を繰り返して解決方法を学習する「試行錯誤学習」の実験をした、ソーンダイクの「猫の問題箱」。

人間の行動は、どんなに複雑に見えても「外部からの刺激(S)」に対する「反応(R)」の連合にすぎない、とする理論を提唱した、ワトソンの「S-R理論」。

チンパンジーの実験で、試行錯誤せずに全体の状況を見通すことで瞬時に問題を解決した、ケーラーの「洞察学習」。


心理学は人間の行動を解明しようと、新たな理論を発見してきた結果なんだね。





ゲシュタルトの祈り  フレデリック・パールズ

2024-09-19 | ゲシュタルト療法
ゲシュタルトの祈り  

私は私のために生きる  あなたは、あなたのために生きる

私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない

そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない

私は私  あなたは、あなた

でも偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ

たとえ出会わなくても、それもまた素晴らしいことだ




「ゲシュタルト療法」を創設したフレデリック・パールズは、ゲシュタルト療法の思想を盛り込んだこの詩を、ワークショップで読み上げることを好んだ。


1935年、パールズは妻のローラと精神分析研究所を設立するが、国際精神分析学会でフロイトから冷たくあしらわれ、発表自体も歓迎されなかったため、精神分析から決別。

1942年には精神分析から決別を著した本を出版、この中で自分の考え方を「Cocentration Therapy(集中療法)」と名付け、ここから「ゲシュタルト療法」が生まれた。

1952年、パールズは妻ローラとともに「ニューヨーク・ゲシュタルト療法研究所」を設立、それ以降「ゲシュタルト療法」という名称を用いることとした。

1962年、パールズは世界旅行で途中来日し、東京と京都に訪れる。
特に京都が気に入ったようで、大徳寺に2ヶ月滞在し、座禅を行う。



「ゲシュタルト」というのは、ドイツ語で「形 全体 統合」の意味を表す。

1900年代の始めに、ヴェルトハイマー、ケーラー、コフカらが提唱した「ゲシュタルト心理学」は、一つ一つの部分をつなぎ合わせて物事を知覚するのではなく、全体を「一つのまとまり」として知覚する、というもの。

たとえば「山全体の景色」を見るときには、山の木々の葉っぱの一枚、一枚に注目するのではなく「山全体から空までの周りの風景全体を合わせて見る」というように。


パールズは「ゲシュタルト心理学」の考え方を応用して、「心の問題を抱える個人(クライエント)」が自分の中にある、さまざまな気持ちに「気付く」ことを手助けする「ゲシュタルト療法」を創始しました。


ゲシュタルト療法では「今・ここ(Here and Now)」を重視しています。

パールズは「幼児期の未解決の問題が無意識に心の問題を引き起こしている」と考えましたが、問題は「過去」にあるわけではなく「今・現在の心の中の問題である」と考えました。

すでに過ぎ去った過去は変えられないし、心の中のトラウマは「今・ここ」にあるので、「今・ここから」変えていけることが出来るはず、というもの。

ゲシュタルト療法では、クライエントは未完結になっている問題や悩みを再体験することを通して「自分の心にあいた穴が何であるか(ゲシュタルトが欠けている)」に気付き、それを埋めること(ゲシュタルトの完成)を目指します。



ゲシュタルト療法では、主に10名ほどのグループワークで行われますが、ファシリテーターと特定の参加者が「1:1」でワークを行い、その他の参加者は車座になって、そのワークを見守り、必要に応じてワークに参加します。

ホットシート(エンプティチェア)の場合、クライエントの座ったイスの前に、空のイス(エンプティチェア)を置き、悩みの対象の人物・事柄(自分の別人格を想定するときもある)などをイメージしながら、その対象に向かって自分の言いたいことを話す。

最初は、その対象に怒りや不満をぶつけたりして感情をあらわにしますが、話しているうちに「自分のしたかったこと」や「相手に認めてもらいたかった気持ち」などに気が付いたりして、「自分の抱えている問題の背景」に気付くことが出来ます。

自分の心の問題の背景をハッキリと認識することが出来れば、問題の解決に向けた行動をとることも可能だと言います。


他にも「ボディワーク」「ファンタジートリップ」「ドリームワーク」「実験」などがあります。



次の詩はパールズの弟子、ウォルター・タブスがパールズの死後、発表したものだそうです。


パールズを超えて

私は私のことをする  あなたはあなたのことをする

もしそれだけならば、お互いの絆も、私たち自身も失うことになる

私がこの世に存在するのは、あなたの期待に応えるためではない

しかし、私がこの世に存在するのは、あなたが、かけがえのない存在であることを認めるためであり、

そして、私も、あなたから、かけがえのない存在だと認めてもらうためである

お互いの心がふれあったときに初めて、私たちは本当の自分になれる

私たちの心のふれあいが失われてしまえば、私たちは自分を完全に見失ってしまう

私と、あなたとの出会いは、偶然ではない

積極的に求めるから、あなたと出会い、心がふれあう

心のふれあいは、成り行きまかせではない、自分から求めていったところにある

すべての始まりは私に委ねられていて、そして、一人では完結しない

本当のことはすべて、私と、あなたとのふれあいの中にあるものだから




「ゲシュタルトの祈り」ジョイセフ事務局長 鈴木良一によるコラム

ゲシュタルトの祈り

ゲシュタルト療法

フォーカシング・ゲシュタルト療法




ロートレックとベル・エポック PARISー1900年

2024-08-31 | 美術館・博物館
高岡市美術館で開催されている「ロートレックとベル・エポック PARISー1900年 ドガ、マネ、ミュシャらの美しき時代」に行ってきた。


1900年、フランスのパリでは五輪と万博が同時に開かれていた。

1900年前後、芸術文化も花開いて後に「ベル・エポック(美しき時代)」と呼ばれるようになる。

 


1864年、ロートレックは南仏アルビの貴族の家に生まれた。

パリに出て絵を学び、挿絵作家をしながら新しい表現方法のリトグラフ(石板画)にも興味を持つ。

色鮮やかな石板画のポスターは最新の広告媒体で、街中に掲示されると描いた作家の名前も知られるようになった。

ロートレックは身体にハンディを抱えていたが、鋭い観察眼と的確な描写で、他の作家が描こうとしないような個性を強調した絵を描いた。

1889年モンマルトにオープンした、ダンスホール「ムーラン・ルージュ」に通い、さまざまな階層の人たちが集まり宴を楽しむ様子を観察することで、2年後、代表作となったポスター「ムーラン・ルージュ ラ・グーリュ」を制作。

この作品によって、ポスター画家として注目されることとなる。

晩年は飲酒癖が過ぎて幻覚症状まで出るようになり、精神病院に入院、36歳で生涯を閉じる。



 

 

 

 

 



「ベル・エポック(美しき時代)」は、1900年前後の15年ほどの間と言われています。

印刷技術が発達して色鮮やかなポスターが登場したことにより、それらをコレクションする人たちも現れ始めた。

ポスターはサイズが大きく部屋に飾るには少々不便だったため、サイズが小さく文字も入っていない装飾版画が好まれ、定期的に発行される作品集が何種類も登場した。

複数の人気作家の作品が手軽にコレクションできるとあって人気を博した。

美術品を収集できるのは裕福な一部の人たちだけだったのが、装飾版画が普及したことによって、誰もが気軽に作品を楽しんだり、コレクションしたりできるようになったのも「ベル・エポック」と呼ばれている所以なのだそう。



このパリ万国博覧会で民間人初の日本の事務次官長として抜擢されたのが、高岡市出身の林忠正だった。

フランスからの要請を受けて、著名な社寺や個人収集家から381件もの日本の古美術品が集められ展示された。

日本美術の普及に尽力していた林にとっても集大成になる大規模な展示会だった。

1901年(明治34年)、これだけの美術品が集まる機会は貴重だったため国内でも展示されることとなり、帝室博物館にて展覧会が開催された。


ミュシャは、よく観に行くので行ってきたんだけど、この時代のいろんな作家の作品を観ることが出来て楽しかったわ。