花のある生活

花はあまり出てきませんが。

旧約聖書を読み解く3  本格的な一神教の誕生  

2015-05-30 | 読んだ本
旧約聖書を読み解く1  聖書は「歴史物語」

旧約聖書を読み解く2  ユダヤ教の成立



宗教についても「神との対話」の中で、こう書かれています。

~~ 『神』  いいかな、組織的宗教が成功するためには、ひとに宗教が必要だと思わせなければならない。 ひとに何かを信じさせるためには、自分自身への信頼を失わせなければならない。

だから、組織的宗教の第一の仕事は、あなたがたに自分自身への信頼を失わさせることなのだ。

二つ目の仕事は、あなたにはない回答を宗教がもっていると思わせることだ。

そして三つ目、最も大切な仕事は、その回答をあなたがたに何の疑問もなしに受け入れさせることだ。

もし疑問をもてば、あなたがたは考えはじめる! 考えれば、自らの内なる源へと戻っていく。

それでは、宗教は困る。 宗教が与える答えとべつの答えを出すかもしれないから。 だから、宗教はあなたがたに自分自身を疑わせる必要がある。 すなおに考える力を疑わせる必要がある。

宗教の問題は、それがしばしば裏目に出るということだ。 あなたがたが自分を疑わずにいられないとしたら、宗教に与えられた神についての新しい考え方も疑わずにはいられない、そうだろう?

まもなく、あなたがたはわたしの存在すら疑う ―― 皮肉なことに、それまでは疑ったこともなかったのに。 直観を信じて生きていれば、わたしについてあれこれ想像したりせず、わたしの存在をただ直観していただろう!

不可知論を作り出したのは、宗教だ。

宗教がしたことがはっきりと見える者なら、宗教には神はないと思うだろうね! 人びとの心を神への恐怖でいっぱいにしたのは、宗教だから。 かつて、ひとは輝かしい存在として神を心から愛していたのに。 
神の前にぬかずけとひとに命じたのは宗教だ。 かつて、ひとは喜びに満ちて神に手を差し伸べていたのに。 神の怒りへの不安をひとに背負わせたのは宗教だ。 かつて、ひとは負担を軽くしてくださいと神に願っていたのに! 

ひとに肉体や肉体の自然な機能を恥じさせたのは宗教だ。 かつて、ひとはその機能を生命の最大の贈り物として喜んでいたのに! 神に届くためには仲立ちが必要だと教えたのは宗教だ。 かつて、あなたがたは善と真実に生きていたら、神に届くと信じていたのに。 そして、人間に神を崇めよと命じたのは宗教だ。 かつて、人間は崇めずにはいられなかったから、神を崇めていたのに!

宗教はどこへ行っても分裂を創り出す。 それこそ、神の対極だ。 宗教は神とひととを分け、ひととひととを分け、男と女を分ける。 宗教によっては、男性は女性よりも上だ、神は男性より上だというものさえある。 それによって、人類の半分に強制される最大の滑稽な仮装が始まった。

いいかね。 神は男性より上ではないし、男性は女性より上ではない。 それは「ものごとの自然の秩序」ではない。 力をもつもの(つまり男性)が男性崇拝の宗教を創りだしたときに、そう望み、「聖なる書物」の最終版の半分を削除し、残りの半分を男性世界にモデルにあうようねじ曲げただけだ。

現在にいたるまで、女性は劣っている、霊的に二級市民だ、神の世界を教えるには「ふさわしくない」、神の世界を語り人びとを導くにはふさわしくないと主張しているのは、宗教だ。

あなたがたは、いまも子供のように、どちらの性が神によって聖職者と定められているのかと議論している。

いいかね。 あなたがたはすべて聖職者だ。 ひとり残らず、そうなのだ。

神の仕事をするのにとくに「ふさわしい」どんな階層も、どんなひともいない。

だが、あなたがたの多くは、国家と同じだ。 力に飢えている。 力を分けあうのをいやがり、ただ行使しようとする。 そして、同じような神を創りだす。 力に飢えた神だ。 力を分けあうのをいやがり、ただ行使しようとする神だ。 だが、いいかね。 神の最大の天分は、神の力を分けあうということだ。

あなたがたも、わたしのようになることだね。

『著者』  でも、わたしたちはあなたのようになれませんよ! それじゃあ、冒涜(ぼうとく)です。

『神』  そうしたことを教える方が、冒涜だよ。 いいかね。 あなたがたは、神をかたどって、神に似せて創られた。 あなたがたは、その運命を実現するためにここに来た…。 ~~「神との対話」2巻


『神』が「宗教組織」を批判しているところが驚きですが。

「神」という概念が出てきた最初の方が純粋に神を崇めていた、ということですかね。



旧約聖書に戻ります。

前八世紀後半、アッシリアの侵攻によって、北王国が滅ぼされてしまい、南王国のほうは何とか存続します。

「国が滅びる」ということは、「神が国を守らなかった」ことを意味しています。


しかし、「北王国」は滅びましたが「南王国」は存続しています。

ここからユダヤ民族の態度は、「ヤーヴェを見捨てる者」と「ヤーヴェに忠実でありつづける者」の2つに分かれました。

「ヤーヴェを見捨てた者たち」は、ユダヤ民族ではなくなります。

「ヤーヴェに忠実であり続ける者たち」は、北王国から逃げてきた人々を含め「ヤーヴェ主義」の人たちです。

南王国に残ったユダヤ民族たちは、北王国の滅亡を目の当たりにして「ヤーヴェ」が必ずしも民を守るわけではないことを見せつけられても、なお「ヤーヴェに忠実であり続ける者たち」ばかり、ということになりました。


ここでいう「一神教」が「人が神を選ぶことができる」ことを前提にしているものなら、それは「普通の一神教」です。

ここから生じたのは「人が神を選ぶことはできない」、ユダヤ民族であるならば「『ヤーヴェだけを神とする』という立場を捨てることはあり得ない」という驚くべきものでした。

これを「本格的な一神教」といいます。


南王国の人々は、「ヤーヴェだけを神とする」という立場を守り続けるうえで、ある問題に突き当たります。

それは「ヤーヴェは必ずしも民を守らない神だ」ということが、「北王国の滅亡」という事実で示されていることです。

「頼りにできない神」を自分たちの神とすることは基本的に不可能です。

しかし、南王国の人々は「ヤーヴェ主義者」なので「ヤーヴェを捨てない者たち」です。


「『頼りにできない神』を自分たちの神とすることはできない」と「ユダヤ民族は、ヤーヴェだけを自分たちの神とする」が、対立しています。

ここで、神学的な「民は生まれながらに罪の状態にある」という概念が生まれました。

つまり「頼りにできない、ダメな神」と考えるのではなく、「民の方がダメなのだ」というものです。


北王国が滅んだ(守らなかった)のは、神が悪いのではなく、民の方が悪いから。

だから「神が動かない(守らない)と考える」ことです。




一般に「罪」というと、罪を犯す、過ちを犯す、というように「悪いことをした」「問題を起こした」ことを言いますが、
ここでいう「罪」というのは「神の義を確保」するために、神の態度を正当化して「民は罪の状態にある」とするのです。

「神と民は『契約』を結んでいる」との概念から「神は義」であり、「民は罪の状態にある」とされることで、ここから神が民に何もしないことが正当化され、「民は神に何も期待できない」ということになりました…。



この辺りのユダヤ民族の「神への論理」が驚きです。

普通に考えたら、その「神への崇拝」をやめると思うけど、「ユダヤ民族ならば、この神を崇拝する」、さらには「神が国を守らなかったのは、民の方が悪いから」などという論理に行きつくのは、ちょっと考え付かないなあ。


次に続きます。




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