「神との対話」を読んでいると、話の背景が「キリスト教」になっているので少々分かりにくいところが出てくる。
著者はアメリカ人だし、キリスト教は「一つの神だけを信仰する一神教」だから。
日本だと「八百万の神(やおよろずのかみ)」といい、山岳信仰や巨木や岩などに、神が宿るといって祀っていたり、仏教に神道、さらには新興宗教なども交じって「多神教の国」なので、一神教がどういうものなのか、なかなかイメージできないんだよね。
それこそ日本ではクリスマスにはパーティーで盛り上がって(クリスマスはキリスト教)、お正月には神社にお参りに行ったりするようなものだから。
キリスト教がモチーフにされているものは、中世の宗教画はもちろんのこと、人気アニメのエヴァンゲリオンにいたるまで、たくさんあるので興味はあるんだけど。
しかし興味あるといっても、いきなり「聖書」を読んでも分からないし、とりあえずNHK「100分で名著」の「旧約聖書」から。
私の場合、信仰心から見ているわけではないので、理解の仕方がちょっと他と違うかもしれませんが…。
1947年以来、死海北西岸クムラン周辺の11の洞窟から800巻以上の写本巻物や断片が発見され、「死海文書」と呼ばれるこの文書群は、最古の「旧約聖書」の写本とされている。
「約」とは、「神と契約する」の意味。
ユダヤ教から受け継いだものを「旧約」、後にキリスト教独自の文書集を加えたのが「新約聖書」。
この「ユダヤ教の聖書」は、トーラー(律法)5書、ネイビーム(予言者)前編6書・後編15書、ケトゥビーム(諸書)13書、の3部に分かれており、500年以上かけて編纂され「ユダヤ民族の歴史が語られている書物」。
しかし、この「ユダヤ教の聖書」は、ただ歴史を語っているだけではなくて「律法」「掟」としての権威があり、これを遵守するもの、と定められている、とのこと。
「ユダヤ教の聖書」は、「ヘブライ語で書かれた39の文書集からなるもの」とされる。
これを「ギリシア語に翻訳」したのが、「七十人訳聖書」で、キリスト教ではこちらが「旧約聖書」と呼ばれます。
第1部トーラー(律法)には、天地創造の神話「創世記」があり、1章~2章始めには「6日間の天地創造」で、
最初に「カオス」「混沌」がある。
神は6日間にわたって世界をつくる。
1日目、光と闇、昼と夜。
2日目、水を上と下に分け、上が空ないし天とされる。
3日目、天の下の水が集められて海になり、乾いたところが地になる。
4日目、太陽と月と星がつくられる。
5日目、水の中の生き物と鳥がつくられる。
6日目、地上の生き物がつくられ、人がつくられる。 人は「神の似姿」とされ、すべての生き物を支配するとされる。
7日目、神は休む。100分で名著から
2章~3章には「天地創造とエデンの園」で、
神が天地をつくったとき、地には草木も生えていなかった。
神は土の人形に命を吹き込んで男をつくると、エデンの園に住まわせ「善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない」と言い渡した。
次に、男のあばら骨から女をつくった。
そして、蛇が「木の実を食べるよう」女をそそのかすと、2人はその実を食べてしまう。
彼らは自分たちが「裸」であることを知り、神の足音を聞いて木々に身を隠した。
その様子から、2人が命令に背いたことを知った神は、男には労働の苦しみ、女には産みの苦しみなどを与え、「命の木の実まで食べられてはならぬ」として、エデンの園から追放した。100分で名著から
ところで、「6日間の天地創造」と「天地創造とエデンの園」では少し話が食い違っています。
世界は一つしかありませんから、神が世界をつくるという行為は、1回であるはずなのに、上の話と下の話では、世界の創造が続けて異なった手順で書かれています。
上の話では、様々なものがつくられてから、最後に人がつくられて、男女の区別はない。
下の話では、地には草木も生えていなかったところに、男をつくり「エデンの園」に住まわせ、それから女をつくった。
それから、聖書は「権威ある書物」で聖書に書かれていることは、すべて真実である。
聖書に、このような「明らかな矛盾」があることは無視されてしまっているようで、話のつじつまを合わせるように「調和的解釈」がなされることが多いらしいです。
このように「明らかに矛盾がある物語が並べられている」ということは、「聖書がどのような書物なのかの重要な特徴を示している」と言えるのだそうです。
では、いったいどう解釈すればいいのでしょう?
これは世界を創造する際に、「人と地上の生き物(植物を含めて)の、どちらを先につくったのか」また「男女同時につくられたのか、それとも別々なのか」は、「それほど重要なことではない」「確定的な真実はない」ということを示すために「意図的に異なる話」がされている。
「聖書の権威」を否定することはできないが、「聖書に書かれていることはすべて真実、といった単純な立場を否定するべきだ」というメッセージが聖書の冒頭で示されている、ということなんだそうです。
ちなみに「生命の起源」については、「神との対話」の中では、このように語られています。
~~ 『神』 わたしはあなたがたの素晴らしい身体が永遠にもつように創った! そして、最初の人間たちは文字どおり苦痛のない身体のなかで、いま死と呼ばれているものへの不安もなしに、生きていた。
あなたがたの細胞が記憶している最初の人類は、神話のなかでアダムとイヴと呼ばれている。 もちろん、最初の人類は二人だけではなく、もっとたくさんいた。
はじめ、あなたがたの素晴らしい魂は、物質的な身体のなかで、相対的な世界で得られる経験を通して、真の自己を知る機会を得ることになっていた。 それは、何度も説明したとおりだ。
そこで物質をつくるために、猛スピードの振動(考えのかたち)の速度が落された。―― そうやって創られた物質のなかには、あなたがたが物質的な身体と呼ぶものも含まれている。
生命は、あなたがたが何十億年と呼ぶ一瞬のあいだに、一連の段階を通って発達した。 そして、聖なる瞬間がやってきて、あなたがたは海という生命の水から陸地へ上がり、今のようなかたちをとるようになった。
『著者』 それじゃ、進化論者は正しいんですね!
~中略~
『神』 息子よ、進化論者は正しくない。 わたしはすべてを―― 何もかもを―― 一瞬のうちに創った。 聖なる一瞬に―― 天地創造論者の言うように。 そして……あなたがたの言う歳月でいえば、何十億年もかかって進化の過程をたどってきた。 進化論者が主張するように。
彼らはどちらも「正しい」。 聖なる一瞬/何十億年、どんな違いがあるのか? 生命の問題については、解くことができない大きな謎もあると素直に思うことはできないのか? どうして、謎を聖なるものとしておけないのか? どうして、聖なるものは聖なるものとして、そっとしておけないのか?
『著者』 きっと、わたしたちはみな、飽くことのない知識欲の持ち主なんでしょうね。
『神』 だが、あなたは「もう知っているではないか!」 今、「話した」ばかりではないか!
それでもあなたは本当の「真実」ではなく、「自分が理解できる真実」を知りたがる。
だから、あなたがたの目は開かれない。 あなたがたは、すでに真実を知っていると思っている! 真実がどのようなものか、もう理解していると思っている。 そこで、見聞きし、読んだことで、自分が理解できるパラダイムに当てはまることには同意し、当てはまらないことは受け付けない。 それが学ぶことだと思っている。 それで、教えに対して心を開いていると思っている。 しかし、自分にわかる真実以外は受け付けないのでは、教えに対して心を開いているとは言えない。
したがって、この本は一部のひとからは冒涜だと―― 悪魔の仕業だと―― 言われるだろう…。 ~~「神との対話」1巻
「エデンの楽園」の話は有名ですが、「6日間の天地創造」の方は、全然知らなかったわ。
だから、一週間が7日なんですかね。
7日目「神は休む」で休日もあるし・・・。
長くなったので、次に続きます。
著者はアメリカ人だし、キリスト教は「一つの神だけを信仰する一神教」だから。
日本だと「八百万の神(やおよろずのかみ)」といい、山岳信仰や巨木や岩などに、神が宿るといって祀っていたり、仏教に神道、さらには新興宗教なども交じって「多神教の国」なので、一神教がどういうものなのか、なかなかイメージできないんだよね。
それこそ日本ではクリスマスにはパーティーで盛り上がって(クリスマスはキリスト教)、お正月には神社にお参りに行ったりするようなものだから。
キリスト教がモチーフにされているものは、中世の宗教画はもちろんのこと、人気アニメのエヴァンゲリオンにいたるまで、たくさんあるので興味はあるんだけど。
しかし興味あるといっても、いきなり「聖書」を読んでも分からないし、とりあえずNHK「100分で名著」の「旧約聖書」から。
私の場合、信仰心から見ているわけではないので、理解の仕方がちょっと他と違うかもしれませんが…。
1947年以来、死海北西岸クムラン周辺の11の洞窟から800巻以上の写本巻物や断片が発見され、「死海文書」と呼ばれるこの文書群は、最古の「旧約聖書」の写本とされている。
「約」とは、「神と契約する」の意味。
ユダヤ教から受け継いだものを「旧約」、後にキリスト教独自の文書集を加えたのが「新約聖書」。
この「ユダヤ教の聖書」は、トーラー(律法)5書、ネイビーム(予言者)前編6書・後編15書、ケトゥビーム(諸書)13書、の3部に分かれており、500年以上かけて編纂され「ユダヤ民族の歴史が語られている書物」。
しかし、この「ユダヤ教の聖書」は、ただ歴史を語っているだけではなくて「律法」「掟」としての権威があり、これを遵守するもの、と定められている、とのこと。
「ユダヤ教の聖書」は、「ヘブライ語で書かれた39の文書集からなるもの」とされる。
これを「ギリシア語に翻訳」したのが、「七十人訳聖書」で、キリスト教ではこちらが「旧約聖書」と呼ばれます。
第1部トーラー(律法)には、天地創造の神話「創世記」があり、1章~2章始めには「6日間の天地創造」で、
最初に「カオス」「混沌」がある。
神は6日間にわたって世界をつくる。
1日目、光と闇、昼と夜。
2日目、水を上と下に分け、上が空ないし天とされる。
3日目、天の下の水が集められて海になり、乾いたところが地になる。
4日目、太陽と月と星がつくられる。
5日目、水の中の生き物と鳥がつくられる。
6日目、地上の生き物がつくられ、人がつくられる。 人は「神の似姿」とされ、すべての生き物を支配するとされる。
7日目、神は休む。100分で名著から
2章~3章には「天地創造とエデンの園」で、
神が天地をつくったとき、地には草木も生えていなかった。
神は土の人形に命を吹き込んで男をつくると、エデンの園に住まわせ「善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない」と言い渡した。
次に、男のあばら骨から女をつくった。
そして、蛇が「木の実を食べるよう」女をそそのかすと、2人はその実を食べてしまう。
彼らは自分たちが「裸」であることを知り、神の足音を聞いて木々に身を隠した。
その様子から、2人が命令に背いたことを知った神は、男には労働の苦しみ、女には産みの苦しみなどを与え、「命の木の実まで食べられてはならぬ」として、エデンの園から追放した。100分で名著から
ところで、「6日間の天地創造」と「天地創造とエデンの園」では少し話が食い違っています。
世界は一つしかありませんから、神が世界をつくるという行為は、1回であるはずなのに、上の話と下の話では、世界の創造が続けて異なった手順で書かれています。
上の話では、様々なものがつくられてから、最後に人がつくられて、男女の区別はない。
下の話では、地には草木も生えていなかったところに、男をつくり「エデンの園」に住まわせ、それから女をつくった。
それから、聖書は「権威ある書物」で聖書に書かれていることは、すべて真実である。
聖書に、このような「明らかな矛盾」があることは無視されてしまっているようで、話のつじつまを合わせるように「調和的解釈」がなされることが多いらしいです。
このように「明らかに矛盾がある物語が並べられている」ということは、「聖書がどのような書物なのかの重要な特徴を示している」と言えるのだそうです。
では、いったいどう解釈すればいいのでしょう?
これは世界を創造する際に、「人と地上の生き物(植物を含めて)の、どちらを先につくったのか」また「男女同時につくられたのか、それとも別々なのか」は、「それほど重要なことではない」「確定的な真実はない」ということを示すために「意図的に異なる話」がされている。
「聖書の権威」を否定することはできないが、「聖書に書かれていることはすべて真実、といった単純な立場を否定するべきだ」というメッセージが聖書の冒頭で示されている、ということなんだそうです。
ちなみに「生命の起源」については、「神との対話」の中では、このように語られています。
~~ 『神』 わたしはあなたがたの素晴らしい身体が永遠にもつように創った! そして、最初の人間たちは文字どおり苦痛のない身体のなかで、いま死と呼ばれているものへの不安もなしに、生きていた。
あなたがたの細胞が記憶している最初の人類は、神話のなかでアダムとイヴと呼ばれている。 もちろん、最初の人類は二人だけではなく、もっとたくさんいた。
はじめ、あなたがたの素晴らしい魂は、物質的な身体のなかで、相対的な世界で得られる経験を通して、真の自己を知る機会を得ることになっていた。 それは、何度も説明したとおりだ。
そこで物質をつくるために、猛スピードの振動(考えのかたち)の速度が落された。―― そうやって創られた物質のなかには、あなたがたが物質的な身体と呼ぶものも含まれている。
生命は、あなたがたが何十億年と呼ぶ一瞬のあいだに、一連の段階を通って発達した。 そして、聖なる瞬間がやってきて、あなたがたは海という生命の水から陸地へ上がり、今のようなかたちをとるようになった。
『著者』 それじゃ、進化論者は正しいんですね!
~中略~
『神』 息子よ、進化論者は正しくない。 わたしはすべてを―― 何もかもを―― 一瞬のうちに創った。 聖なる一瞬に―― 天地創造論者の言うように。 そして……あなたがたの言う歳月でいえば、何十億年もかかって進化の過程をたどってきた。 進化論者が主張するように。
彼らはどちらも「正しい」。 聖なる一瞬/何十億年、どんな違いがあるのか? 生命の問題については、解くことができない大きな謎もあると素直に思うことはできないのか? どうして、謎を聖なるものとしておけないのか? どうして、聖なるものは聖なるものとして、そっとしておけないのか?
『著者』 きっと、わたしたちはみな、飽くことのない知識欲の持ち主なんでしょうね。
『神』 だが、あなたは「もう知っているではないか!」 今、「話した」ばかりではないか!
それでもあなたは本当の「真実」ではなく、「自分が理解できる真実」を知りたがる。
だから、あなたがたの目は開かれない。 あなたがたは、すでに真実を知っていると思っている! 真実がどのようなものか、もう理解していると思っている。 そこで、見聞きし、読んだことで、自分が理解できるパラダイムに当てはまることには同意し、当てはまらないことは受け付けない。 それが学ぶことだと思っている。 それで、教えに対して心を開いていると思っている。 しかし、自分にわかる真実以外は受け付けないのでは、教えに対して心を開いているとは言えない。
したがって、この本は一部のひとからは冒涜だと―― 悪魔の仕業だと―― 言われるだろう…。 ~~「神との対話」1巻
「エデンの楽園」の話は有名ですが、「6日間の天地創造」の方は、全然知らなかったわ。
だから、一週間が7日なんですかね。
7日目「神は休む」で休日もあるし・・・。
長くなったので、次に続きます。