旧約聖書を読み解く1 聖書は「歴史物語」
旧約聖書を読み解く2 ユダヤ教の成立
旧約聖書を読み解く3 本格的な一神教の誕生
前六世紀前半に、バビロニアがアッシリアを滅ぼし、このバビロニアに南王国が滅ぼされます。
またしても「『ヤーヴェ』が国を守らなかった」ということになります。
ですが、ユダヤ民族が「『ヤーヴェ』への崇拝」を捨てることはありませんでした。
「民は生まれながらに罪の状態にある」という、「本格的な一神教」が出来上がっているからです。
南王国の生き残った人々は「捕囚」として連行され、これが「バビロン捕囚」といわれています。
前六世紀後半、バビロニアがペルシアに滅ぼされ「バビロン捕囚」が終わります。
ペルシアの政策により自由になったユダヤ人たちの一部はパレスチナに戻り、一部はバビロンに留まりました。
すでに「ユダヤ人の独立国」はなく、ペルシアの支配の時代です。
このころ、ペルシアの命令により「聖書の編纂」が始まりました。
最初に「モーセ五書」が成立、他の文書がそこに加わるという形で、「聖書」の文書数は増えていきます。
始めの方でも書きましたが「ユダヤ教は、ユダヤ民族だけの民族宗教」です。
ユダヤ教の聖書は「神の言葉」で「律法(法律・掟)」としての権威を持ち、「一字一句も変更できない」とされました。
前四世紀後半、アレキサンダー大王の征服事業により、ペルシアは滅び、プトレマイオス朝エジプト・セレウコス朝シリアのギリシア系の王朝に支配が移ります。
当初ペルシアの命令により作られた「聖書」でしたが、その後も「律法」の権威は揺らぐことなく保ち続けます。
古代、一般の人々の「知恵」の能力は低いものだった、と考えられています。
このころ、ユダヤ民族の間である程度以上の判断ができるのは、王を中心として将軍や役人、宗教指導者の祭司だけでしたが、ときどき民衆の中から傑出した者が現れると「預言者(神から特別な能力を与えられた者)」と言われるようになります。
しかし、時代が進んでいくにしたがって人々の生活が向上していくので、民衆の「知恵」のレベルも上がります。
平和な状態が続き、生活が安定してくると、人々は「自分たちの生活程度の向上」を考えだします。
しかし、ユダヤ民族には民族全体にとって深刻な問題がありました。
それは「民は罪の状態にある」から「神は動かない」 だから「自分たちは救われていない」 「救われていないのならば、救われている状態になりたい」という問題です。
しかし、ユダヤ民族は「『ヤーヴェ』という神」を崇拝し続けるにおいて「神が沈黙している」「人に救いがない」という状態を「正当なもの」とするため、「民は罪の状態にある」とされたので、人間の側にどんな変化があっても「その人々たちが正しい」となる余地がありません。
すべてのユダヤ人が「この問題」に関心を示しているわけではありませんが、「この問題」が未解決なままであることに不満を持つ者たちがいます。
そうした者たちは、自分が納得できる何らかの基準を設けて「自分は救われている」と考える、「神の前での自己正当化」という状態が生じてきます。
その基準というのは、社会において「宗教的に正しい」とされていることを実践すること、「道徳的に正しい生活」を維持すること、俗にいう「信仰」や「敬虔(けいけん)」な態度といわれるものです。
トビト記という文書には、「わたしトビトは、生涯を通じて真理と正義の道を歩み続けた」と、トビトという人が「自分は正しい判断をしている」と語られています。
しかし、彼が自信を持って「真理と正義の道」と語っているのは、俗流の「信仰」や「敬虔」の態度を貫いてきたからで「最終的な審判者」である神を退けて、自分が「最終的な審判者」になってしまっています。
この「神の前での自己正当化の態度」は聖書の他の箇所にも認められ、「ペルシア期以降のユダヤ教の最大の課題」だと論評されています。
この問題を克服するのに聖書の「律法主義」が機能し、例外なく「神の前での自己正当化」を封じ込めるのに有効なものになっているそうです。
前二世紀初め、エジプトのアレキサンドリアで「聖書のギリシア語訳(七十人訳聖書)」が作られ、ヘブライ語で書かれたものとは別に、独立した権威をもつようになります。
前二世紀半ば、パレスチナのユダヤ民族は「ハスモン朝」という独立国家を作ります。
前一世紀、ローマが支配を拡大し「ハスモン朝」も滅亡。
パレスチナは、ローマ側に属することになりました。
バビロン捕囚以後、パレスチナ以外の地域にもユダヤ人が増え、バビロンがあったメソポタミア以外にもエジプト、ギリシア、ローマにも「ユダヤ人の共同体」ができました。
ユダヤ教は「ユダヤ民族の民族宗教」なので、ユダヤ教を信仰する者は「ユダヤ人」であり、信仰を捨てるならば、「ユダヤ人ではない」とされる一方、ユダヤ人以外から「ユダヤ教徒(改宗者)」になった、「非ユダヤ人出身のユダヤ人(プロリゼット)」が、かなりの人数いたそうです。
そして「ユダヤ人」たちは「シナゴーク」という、ユダヤ教の「集会所」を各地に作り、「シナゴーク」を中心に活動していました。
週一回、「安息日」に行われる集会では、聖書が朗読され「ラビ」と呼ばれる先生が聖書の解説をしたりします。
ですから、「ユダヤ人」たちが広い範囲に散らばって生活していても、「聖書」についての知識を共有することができました。
ユダヤ民族は、基本的にアブラハムの子孫「十二部族出身者」で構成されていますが、勢力拡大に伴い「プロリゼット」も増えていきます。
「プロリゼット」は「十二部族出身者」よりも一段低く位置づけられていましたが、世代を重ねるにつれて混じり合い、誰が「プロリゼットの子孫」か分からなくなっていきます。
しかし、ユダヤ民族の民族宗教であるユダヤ教は「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」の区別は意義あるもの、とされています。
…次に続く。
「ユダヤ民族」の定義が、血縁関係の一族だけに限らず「ユダヤ教を崇拝する者」としているところが、カギなんですね。
旧約聖書を読み解く2 ユダヤ教の成立
旧約聖書を読み解く3 本格的な一神教の誕生
前六世紀前半に、バビロニアがアッシリアを滅ぼし、このバビロニアに南王国が滅ぼされます。
またしても「『ヤーヴェ』が国を守らなかった」ということになります。
ですが、ユダヤ民族が「『ヤーヴェ』への崇拝」を捨てることはありませんでした。
「民は生まれながらに罪の状態にある」という、「本格的な一神教」が出来上がっているからです。
南王国の生き残った人々は「捕囚」として連行され、これが「バビロン捕囚」といわれています。
前六世紀後半、バビロニアがペルシアに滅ぼされ「バビロン捕囚」が終わります。
ペルシアの政策により自由になったユダヤ人たちの一部はパレスチナに戻り、一部はバビロンに留まりました。
すでに「ユダヤ人の独立国」はなく、ペルシアの支配の時代です。
このころ、ペルシアの命令により「聖書の編纂」が始まりました。
最初に「モーセ五書」が成立、他の文書がそこに加わるという形で、「聖書」の文書数は増えていきます。
始めの方でも書きましたが「ユダヤ教は、ユダヤ民族だけの民族宗教」です。
ユダヤ教の聖書は「神の言葉」で「律法(法律・掟)」としての権威を持ち、「一字一句も変更できない」とされました。
前四世紀後半、アレキサンダー大王の征服事業により、ペルシアは滅び、プトレマイオス朝エジプト・セレウコス朝シリアのギリシア系の王朝に支配が移ります。
当初ペルシアの命令により作られた「聖書」でしたが、その後も「律法」の権威は揺らぐことなく保ち続けます。
古代、一般の人々の「知恵」の能力は低いものだった、と考えられています。
このころ、ユダヤ民族の間である程度以上の判断ができるのは、王を中心として将軍や役人、宗教指導者の祭司だけでしたが、ときどき民衆の中から傑出した者が現れると「預言者(神から特別な能力を与えられた者)」と言われるようになります。
しかし、時代が進んでいくにしたがって人々の生活が向上していくので、民衆の「知恵」のレベルも上がります。
平和な状態が続き、生活が安定してくると、人々は「自分たちの生活程度の向上」を考えだします。
しかし、ユダヤ民族には民族全体にとって深刻な問題がありました。
それは「民は罪の状態にある」から「神は動かない」 だから「自分たちは救われていない」 「救われていないのならば、救われている状態になりたい」という問題です。
しかし、ユダヤ民族は「『ヤーヴェ』という神」を崇拝し続けるにおいて「神が沈黙している」「人に救いがない」という状態を「正当なもの」とするため、「民は罪の状態にある」とされたので、人間の側にどんな変化があっても「その人々たちが正しい」となる余地がありません。
すべてのユダヤ人が「この問題」に関心を示しているわけではありませんが、「この問題」が未解決なままであることに不満を持つ者たちがいます。
そうした者たちは、自分が納得できる何らかの基準を設けて「自分は救われている」と考える、「神の前での自己正当化」という状態が生じてきます。
その基準というのは、社会において「宗教的に正しい」とされていることを実践すること、「道徳的に正しい生活」を維持すること、俗にいう「信仰」や「敬虔(けいけん)」な態度といわれるものです。
トビト記という文書には、「わたしトビトは、生涯を通じて真理と正義の道を歩み続けた」と、トビトという人が「自分は正しい判断をしている」と語られています。
しかし、彼が自信を持って「真理と正義の道」と語っているのは、俗流の「信仰」や「敬虔」の態度を貫いてきたからで「最終的な審判者」である神を退けて、自分が「最終的な審判者」になってしまっています。
この「神の前での自己正当化の態度」は聖書の他の箇所にも認められ、「ペルシア期以降のユダヤ教の最大の課題」だと論評されています。
この問題を克服するのに聖書の「律法主義」が機能し、例外なく「神の前での自己正当化」を封じ込めるのに有効なものになっているそうです。
前二世紀初め、エジプトのアレキサンドリアで「聖書のギリシア語訳(七十人訳聖書)」が作られ、ヘブライ語で書かれたものとは別に、独立した権威をもつようになります。
前二世紀半ば、パレスチナのユダヤ民族は「ハスモン朝」という独立国家を作ります。
前一世紀、ローマが支配を拡大し「ハスモン朝」も滅亡。
パレスチナは、ローマ側に属することになりました。
バビロン捕囚以後、パレスチナ以外の地域にもユダヤ人が増え、バビロンがあったメソポタミア以外にもエジプト、ギリシア、ローマにも「ユダヤ人の共同体」ができました。
ユダヤ教は「ユダヤ民族の民族宗教」なので、ユダヤ教を信仰する者は「ユダヤ人」であり、信仰を捨てるならば、「ユダヤ人ではない」とされる一方、ユダヤ人以外から「ユダヤ教徒(改宗者)」になった、「非ユダヤ人出身のユダヤ人(プロリゼット)」が、かなりの人数いたそうです。
そして「ユダヤ人」たちは「シナゴーク」という、ユダヤ教の「集会所」を各地に作り、「シナゴーク」を中心に活動していました。
週一回、「安息日」に行われる集会では、聖書が朗読され「ラビ」と呼ばれる先生が聖書の解説をしたりします。
ですから、「ユダヤ人」たちが広い範囲に散らばって生活していても、「聖書」についての知識を共有することができました。
ユダヤ民族は、基本的にアブラハムの子孫「十二部族出身者」で構成されていますが、勢力拡大に伴い「プロリゼット」も増えていきます。
「プロリゼット」は「十二部族出身者」よりも一段低く位置づけられていましたが、世代を重ねるにつれて混じり合い、誰が「プロリゼットの子孫」か分からなくなっていきます。
しかし、ユダヤ民族の民族宗教であるユダヤ教は「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」の区別は意義あるもの、とされています。
…次に続く。
「ユダヤ民族」の定義が、血縁関係の一族だけに限らず「ユダヤ教を崇拝する者」としているところが、カギなんですね。