「メサイア」とは「メシア(救世主)」という意味。
「救世主」といえば、イエス・キリストのようなイメージですが、そこに「コンプレックス」と付いています。
「コンプレックス」とは、「劣等感」や「嫉妬感情」「承認欲求」などを含めた「ネガティブ感情」の総称。
「メサイア・コンプレックス」とは、自身の「コンプレックス感情」から、強迫観念的に他人に親切な行動をすることで「自分が救われたい」と思っている人のことを指す。
「メサイア・コンプレックス」と思われる人の傾向は、
・「人類を救済する」「世の中を変える」などと、やたらスケールの大きいことばかりを言いたがる。
・「人々を助けたい」という割には、家族などの「身近な人間関係」は、どうでもいいと思っている。
・「大変そうな人」「困っている人」を見ると、自分がしなくていいことにも罪悪感を覚える。
・身近にある「小さな幸せ」に感謝できないのに、「大きな幸せ」を与えることにこだわる。
例えば、新興宗教などは「自分が救われたくて」宗教団体に救いを求めて行くのでしょうし、意外なところでは看護職や介護職のような「人の世話をする職業」に就く人など。
「体の不自由な人を助けたい」と思う気持ちは素晴らしいのですが、自分が必要とされることで「周りの評価」を得ようとしていると「自分の思った展開」にならない時に辛くなったり、苦しくなったりするのではないかと思いますが。
他にも「普通の人間では価値が無い」と思い込み、本人は「良いこと」をしているつもりでも周りが迷惑していることに気づかなかったり、わざわざ自分から問題行動を起こしてでも賞賛を得ようとします。
無理に「人助け」しようと思わなくても、まずは小さなことでも自分を大切にすることから始めた方がいいのですね。
逆に裏表なく「グループ全体のため」を思って動く人もいるわけですが、その組織の「チームワーク」の在り方によっては、組織の中に「グループ全体のために動く人」がいることはあまり喜ばれないこともあるようです。
「よく気が利く行動をする人」がチームの中や、自分の周囲にいると、チーム全体の基準を上げてしまい「特に何もしない自分が悪く見えてしまうから」というもの。
ある実験で「自分以外の他の学生4人とゲームをする」ことを求められるのだが、実際には「他の学生4人」は実在しておらず「コンピューターのプログラム」とゲームをすることになります。
ゲームの内容は5人のゲーム参加者一人ずつに、1ラウンドごとにポイントが付与される。
この付与されたポイントは自分の手元に残してもいいし、チームの共有財産として提供してもいい。
チームに差し出した場合「ポイントは額面の2倍になる」と伝えられ、それから他の4人が供出したポイントのうち「4分の1までは引き出して自分のポイントとして貯めてもいい」と説明される。
ただし、チームの共有財産としてポイントを残しておくことでチーム全体にボーナスポイントが付く可能性が増すので、引き出すポイントは4分の1未満にすることが推奨される。
ゲームが終了した時点で、参加者はそれぞれ貯めたポイントを商品券に交換できる。
この実験の目的は「ズルい振る舞いをする参加者」に対して予想される社会的排除の研究として計画されたもので、欲張ってポイントをもらったり、まったく受け取らなかったりするプレイヤーは、対照実験のために用意されている。
ゲーム終了後、実験の参加者に「どのプレイヤーと再びゲームをしたいか」を尋ねられると、ほとんどの参加者は、欲張りなプレイヤーとはゲームをしたくないと答えた。
これは予想通りの結果だったが、意外だったのが「ほとんどポイントを引き出さなかったプレイヤーともゲームをしたくない」と答えた参加者が多数いたことだった。
その理由を聞いてみると「あの人がいると自分が悪く見えるから」とか「裏でルール違反をしているのでは」など、欲の無いプレイヤーには「何か裏の目的があるのでは?」と不信感を感じる人が多かったとみられる。
欲張りな人も嫌だし、欲の無い人も「裏がありそうで怪しい」というのは本当に難しい世の中ですね。
あなたも「メサイア・コンプレックス」?
自己肯定感の低さから生まれるやさしさ。「メサイヤコンプレックス」を知っていますか?
「利他的な人」は嫌われる
「救世主」といえば、イエス・キリストのようなイメージですが、そこに「コンプレックス」と付いています。
「コンプレックス」とは、「劣等感」や「嫉妬感情」「承認欲求」などを含めた「ネガティブ感情」の総称。
「メサイア・コンプレックス」とは、自身の「コンプレックス感情」から、強迫観念的に他人に親切な行動をすることで「自分が救われたい」と思っている人のことを指す。
「メサイア・コンプレックス」と思われる人の傾向は、
・「人類を救済する」「世の中を変える」などと、やたらスケールの大きいことばかりを言いたがる。
・「人々を助けたい」という割には、家族などの「身近な人間関係」は、どうでもいいと思っている。
・「大変そうな人」「困っている人」を見ると、自分がしなくていいことにも罪悪感を覚える。
・身近にある「小さな幸せ」に感謝できないのに、「大きな幸せ」を与えることにこだわる。
例えば、新興宗教などは「自分が救われたくて」宗教団体に救いを求めて行くのでしょうし、意外なところでは看護職や介護職のような「人の世話をする職業」に就く人など。
「体の不自由な人を助けたい」と思う気持ちは素晴らしいのですが、自分が必要とされることで「周りの評価」を得ようとしていると「自分の思った展開」にならない時に辛くなったり、苦しくなったりするのではないかと思いますが。
他にも「普通の人間では価値が無い」と思い込み、本人は「良いこと」をしているつもりでも周りが迷惑していることに気づかなかったり、わざわざ自分から問題行動を起こしてでも賞賛を得ようとします。
無理に「人助け」しようと思わなくても、まずは小さなことでも自分を大切にすることから始めた方がいいのですね。
逆に裏表なく「グループ全体のため」を思って動く人もいるわけですが、その組織の「チームワーク」の在り方によっては、組織の中に「グループ全体のために動く人」がいることはあまり喜ばれないこともあるようです。
「よく気が利く行動をする人」がチームの中や、自分の周囲にいると、チーム全体の基準を上げてしまい「特に何もしない自分が悪く見えてしまうから」というもの。
ある実験で「自分以外の他の学生4人とゲームをする」ことを求められるのだが、実際には「他の学生4人」は実在しておらず「コンピューターのプログラム」とゲームをすることになります。
ゲームの内容は5人のゲーム参加者一人ずつに、1ラウンドごとにポイントが付与される。
この付与されたポイントは自分の手元に残してもいいし、チームの共有財産として提供してもいい。
チームに差し出した場合「ポイントは額面の2倍になる」と伝えられ、それから他の4人が供出したポイントのうち「4分の1までは引き出して自分のポイントとして貯めてもいい」と説明される。
ただし、チームの共有財産としてポイントを残しておくことでチーム全体にボーナスポイントが付く可能性が増すので、引き出すポイントは4分の1未満にすることが推奨される。
ゲームが終了した時点で、参加者はそれぞれ貯めたポイントを商品券に交換できる。
この実験の目的は「ズルい振る舞いをする参加者」に対して予想される社会的排除の研究として計画されたもので、欲張ってポイントをもらったり、まったく受け取らなかったりするプレイヤーは、対照実験のために用意されている。
ゲーム終了後、実験の参加者に「どのプレイヤーと再びゲームをしたいか」を尋ねられると、ほとんどの参加者は、欲張りなプレイヤーとはゲームをしたくないと答えた。
これは予想通りの結果だったが、意外だったのが「ほとんどポイントを引き出さなかったプレイヤーともゲームをしたくない」と答えた参加者が多数いたことだった。
その理由を聞いてみると「あの人がいると自分が悪く見えるから」とか「裏でルール違反をしているのでは」など、欲の無いプレイヤーには「何か裏の目的があるのでは?」と不信感を感じる人が多かったとみられる。
欲張りな人も嫌だし、欲の無い人も「裏がありそうで怪しい」というのは本当に難しい世の中ですね。
あなたも「メサイア・コンプレックス」?
自己肯定感の低さから生まれるやさしさ。「メサイヤコンプレックス」を知っていますか?
「利他的な人」は嫌われる