夕方のTV番組でやれ住宅Gメンやらが登場して、「あれはどーだ、これじゃあれだ」なんて煽っていますが、そのせいか些細な事でもTVでやってただなんだってすぐ欠陥だなんだって言う。
じゃあ、欠陥住宅ってどこからだろう?どんなに気を使っていても些細なミスはしてしまうし、昨日書いたように20年後に出てくる欠陥(欠陥なのか?)もある。
自分が思うに、それをどうしたか(建てた所がどういう対処をしたか)によって欠陥住宅だったり無かったりするように思う。
仮に基礎にクラックが入っていたとしよう。(ヤバいヤバくないに関わらず)
表面だけにせよ、全面にせよそれをしっかりと説明し直すべき物は直す。業者がどっちにせよ認めるってことだと思います。
もとを正せば、良い業者を(安いとか言う事を聞くからとか工務店の私利私欲の為じゃない「良い」です)しっかりと選び、しっかりとした仕事内容を伝える義務が元請け(工務店やハウスメーカー)にはあると思います。
その突きつけられた問題に逃げ回ったり、詳しく説明もせず「問題ない!」と良いはったりするから不信感を抱かれ「欠陥住宅」になるのではないのか?そう思います。
少なからずうちの会社でも些細な問題から(お客さんにとっては大きな問題ですね)大きな問題もある。でも逃げないようにしています。信頼は時間がかかりますが、不信感は一気に広がるからです。
直しに行くときでもしっかりと説明をして不安を出来るだけ無くし、直すべき事は直す。
「なんだただのクレーマーじゃねーか」と思ってもしっかりと説明する。時には紙に書いたり状態を見せてあげたり。
そうすれば欠陥住宅は無くなると思うんですよね。どうでしょう?
例えば同じ仕事内容でうちが100万で出来る所を違う所は300万だとします。
これは欠陥でしょうか?いえタダのぼったくりですが、悪い事ではないんですね、法的には。
それをいい加減な仕事をしてならば100万でも300万でも欠陥住宅扱いでしょう。
この場合の欠陥とは見積もり上にある仕事をしなかったり、用途に必要の無い耐震金具を付けたり。いわばお客さんに対して「ダマす」事だと思います。「ダマす」事が欠陥。
どっちにせよ「仕事をする人の心」が重要、上手い下手は置いといてしっかりと「心のある仕事」をするしないが欠陥住宅の境目なんでしょうね。
STOP 欠陥住宅。
じゃあ、欠陥住宅ってどこからだろう?どんなに気を使っていても些細なミスはしてしまうし、昨日書いたように20年後に出てくる欠陥(欠陥なのか?)もある。
自分が思うに、それをどうしたか(建てた所がどういう対処をしたか)によって欠陥住宅だったり無かったりするように思う。
仮に基礎にクラックが入っていたとしよう。(ヤバいヤバくないに関わらず)
表面だけにせよ、全面にせよそれをしっかりと説明し直すべき物は直す。業者がどっちにせよ認めるってことだと思います。
もとを正せば、良い業者を(安いとか言う事を聞くからとか工務店の私利私欲の為じゃない「良い」です)しっかりと選び、しっかりとした仕事内容を伝える義務が元請け(工務店やハウスメーカー)にはあると思います。
その突きつけられた問題に逃げ回ったり、詳しく説明もせず「問題ない!」と良いはったりするから不信感を抱かれ「欠陥住宅」になるのではないのか?そう思います。
少なからずうちの会社でも些細な問題から(お客さんにとっては大きな問題ですね)大きな問題もある。でも逃げないようにしています。信頼は時間がかかりますが、不信感は一気に広がるからです。
直しに行くときでもしっかりと説明をして不安を出来るだけ無くし、直すべき事は直す。
「なんだただのクレーマーじゃねーか」と思ってもしっかりと説明する。時には紙に書いたり状態を見せてあげたり。
そうすれば欠陥住宅は無くなると思うんですよね。どうでしょう?
例えば同じ仕事内容でうちが100万で出来る所を違う所は300万だとします。
これは欠陥でしょうか?いえタダのぼったくりですが、悪い事ではないんですね、法的には。
それをいい加減な仕事をしてならば100万でも300万でも欠陥住宅扱いでしょう。
この場合の欠陥とは見積もり上にある仕事をしなかったり、用途に必要の無い耐震金具を付けたり。いわばお客さんに対して「ダマす」事だと思います。「ダマす」事が欠陥。
どっちにせよ「仕事をする人の心」が重要、上手い下手は置いといてしっかりと「心のある仕事」をするしないが欠陥住宅の境目なんでしょうね。
STOP 欠陥住宅。