聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ヤコブ3:17

2019-10-08 | 聖書
すみません・・・昨日のフィリピの聖句の前に、今週のワークブックで扱われるヤコブ3:17の訳文比べをしたくなりました。

ワークブックにある「神の知恵を持つ人」という表現が気になっちゃって。新世界訳改訂版では「天からの知恵を持つ人は・・・」となっているのでこういう表現になってるんですね。

以前の新世界訳では「上からの知恵は・・・」と訳されてたところです。

調べてみると、口語訳も新改訳も田川訳も「上からの知恵は・・・」で、新共同訳は「上から出た知恵は・・・」となっている。

「知恵は~」と「知恵を持つ人は~」。これじゃ、主語が違っちゃってる。「を持つ人」は完全に付け足し。

分裂や争いをもたらす地的な知恵(自分の知恵を誇る利己心)とは異なり、天からの知恵とはこういうもの(清く平和を求め・・・差別をせず、偽善的でない)であるから、それを行動で示していくように、と諭し励ます文脈。

だいたい「神の知恵を持つ人」なんているわけないし、そんな人になれるわけないです。そうなるべく努力はできるだろうけど。もしそうなれるんだったら、イエスの贖いなんて必要ないでしょ・・・

関連して、3:15も「そのような知恵」じゃなく「そのような人の知恵」になってる。地的な知恵だと戒めるところ。

こんな風に、人を分け隔てる表現を用いながら、「平和を求め」「差別をせず」なんて諭されても説得力ありません。

改訂版を読む気がしないのは、こういう後味の悪い表現が多いからだと思います。

で、こんな訳を使ってるから、ものみの塔記事も後味の悪いものになる・・・昨日の「愛の豊かな人」っていう表現もそう。「良い人」「悪い人」「愛の豊かな人」「愛の無い人」エトセトラエトセトラ。

こういう表現って潜在意識の中ではぐくまれて、あの人はこういう人だ、って決めつけて人を裁くようになっていくんじゃないかと思うんですよね。

考え過ぎかな。

愛の豊かな人になりましょう

2019-10-07 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

なんかね・・・週を追うごとに読むに堪えなくなってきています。これ読んで励まされる人、いるんかな? これ読んで、聖書ってなんて価値のある本なんだと思える人、いるんかな?

・・・まず、例として出されてる内容が酷過ぎ。

掃除を真面目にしていないように見える兄弟がいたら、いらいら云々の前に、ちゃんと掃除するように促すのが愛なんじゃないのかな。これ、子どもにもこう教えるの? あの兄弟は掃除さぼってるけど、年配の姉妹を親切に手助けする良い所がある兄弟だから、いいんだよ・・・って? なんか変じゃない?

非常に保守的な信仰を持ってる人の信仰を妨げないために、映画を見に行くのをやめる、ってことで無私の愛を表わしたって?? 良心に関して何にも学んでない人たちじゃあるまいし。そんなことで信仰を妨げられるほうもオカシイし、そんなことが無私の愛ってのも、オカシイでしょ??

アルコール依存だった研究生がバプテスマを受けた後、食事会に招いて「もうクリスチャンになったんだから、エホバが聖なる力で助けてくださるよ・・・・・」って言ってお酒を勧める兄弟なんて、いるの?? そんな兄弟がいること自体、間違ってないか???

もうね、こんな記事書かれる方がよっぽど信仰の妨げになるよね。

もしかして、研究記事書いてる人たちって、ずーっとこの組織(特にべテル)にいるせいで一般常識が無さ過ぎるんじゃなかろうか、と思ってしまいます。(もちろん一般常識の方がはるかに優れているという意味ですw)

でも、一番突っ込みたいのは、主題の聖句になっているフィリピ1:9~11です。

副見出しにもなっている「愛の豊かな人」も「より重要なこと」も「人の信仰を妨げてはならない」も「正しい実を豊かに結び続ける」も、組織の教えに沿った改竄もしくは意訳です。

時間があったら、次回、他の聖書との比較記事を書きたいなと思ってます・・・

趣味(昌磨くん)

2019-10-06 | 趣味
趣味のフィギュアースケート観戦です。

ジャパンオープンとカーニバルオンアイス、見ました。

昌磨くんの今年のフリー初披露と、シーユーアゲインとショート少し。
フリー、良かったです。力強さと滑らかさの中に透明感と浄化されるような清らかさとがあって。
ショーの方も無理なく楽しんでる感じで。

今年はコーチ不在、一人で頑張るとのことで、どんな様子なのかなぁと思っていましたが、この感じだと大丈夫のようですね~

点数はイマイチ(ジャンプが決まらなかったから・・・)だったけど、以前のような悲壮感が無く、自分のスケートを思いっきり滑れてるように感じました。一人でやるのは、昌磨くんに合ってるのかな。オタクなゲーマー気質だしw。

高志郎くんもシニアに上がって、これからどんどん伸びていきそうです。今年の活躍が楽しみですね。

それにしても、トゥルソワちゃんは驚異です。女子で4回転何回も飛んで・・・。これからしばらく、女子はロシアの独壇場になりそうな予感。ザギトワちゃんも貫録の演技。

男子は、ジュニアグランプリのファイナルに鍵山くんと佐藤くんが出場決まったので楽しみです。彼らがシニアに上がって来るころ、男子スケート界はどうなっているかな。

忌避って

2019-10-04 | エホバの証人
昨日、買い物の途中、会衆の一人の姉妹(私服だったから奉仕中じゃない)を見かけて、こちらから近寄って挨拶したんだけど、彼女の方はこちらと目も合わさず挨拶もそこそこに行ってしまった。

あれ? もしかして自分、要注意人物にされちゃってるのかな?・・・なんて主人と話してたところ。

今日、買い物の帰りに、奉仕中の二人の姉妹に声をかけられて。久し振りだったのでお互い笑顔で少し立ち話して。

ああ、要注意人物にされてはいなかったんだなと一安心。

逆に・・・あれ? もしかして昨日会った姉妹が、自分の知らない間に姉妹じゃなくなっちゃったのかしら?・・・なんて思っちゃいました。

面倒臭いよね。忌避の取り決めなんてあるせいで、こっちもいろいろ気を遣っちゃうよ。(ちなみに、忌避とは、単に無視するんじゃなくて対象を憎み嫌うことも含んでる言葉)

ホント、なんなんだろうねぇ、挨拶もしない忌避の取り決めって。キリスト教の精神どころか、人間の最低限の道徳ですらないでしょうに。

この取り決めが強調されるようになったのって、いつくらいからかな? 放蕩息子のビデオのころから? それまではこんなに、家族でも忌避するようになんて強調されてなかったような気が・・・(ちなみに88年4/15の塔記事p26~31に忌避のこと書いてあるけど、家族としての愛情は続くとある。忌避されてる人が法律に訴えて組織に損害賠償を求めることはできない、っていう判決例も載ってる)

で、変な話、バプテスマを受けないで離れて行った子たちとは普通に連絡取りあえるけど、バプテスマ後に離れてたら連絡も出来ないから、うちの子たちはバプテスマ受けてなくて良かった~、ってなことにもなったりという・・・変な理屈だけど、親からしたら切実だよね。

ホント、この教理は受け入れられない。へそが文句言う。

・・・ところで、今日お会いしたお二人の姉妹の年齢は、合計しておよそ150歳。今キャンペーン中だから若い人たちにコンタクトカードを渡すの、と張り切っておられる様子。お二人とも穏やかなイイ笑顔でした。

上層部は腐っていて、聖書も教理もはてな?だけど、騙されてるとは思っていない個々の証人たちは、生き甲斐を持って生き生きとしているんだから、これはこれでアリなんだろうな、と思いました。

自分にはもう無理だけど。

フィリピ3:14

2019-10-01 | 聖書
フィリピ3:14の聖句が、今週の研究記事の1節に引用されてます。

「ゴールを目指してひたすら走(り)」とあったので・・・ん? ゴールを目指して? ゴールなんて言葉あったっけ? と思い、訳の比較をしてみました。

新世界訳「神からキリスト・イエスを通して天に招かれるという賞を得られるよう、ゴールを目指してひたすら走っています」
口語訳 「目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」
新共同訳「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」
新改訳 「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」
田川訳 「目標へと向かっているのである。キリスト・イエスにおける神の上方への招きという賞を目指して」

どうやら「目標」という語を「ゴール」に置き換えたみたいですね。「賞」を「栄冠」と訳した新改訳も独特だなぁと思いますが(ちなみに「賞」と訳されてる語は競技における賞品を示す語)・・・新世界訳は独特過ぎちゃってます。どう考えても「目標」という語には「ゴール」という意味はないでしょう。完全に意訳です。(改訂版じゃない新世界訳は「ゴール」じゃなく「目標」でした)

あと余談ですが、新世界訳の「天に招かれる」という訳し方も、自分たちが主語になってて特権意識丸出しな感じでイヤですね。ここは神が主語でしょうに・・・

パウロはエラそうな表現もいっぱいあるけど、自分や人間ではなくて常に神中心の考え方の人。人間が自らの行動によって神からの賞を勝ち取るなんていう考え方はしない。神が与えてくださる賞は人間がどうこうできるようなそんな軽いもんじゃなく、ただ神のご意思ご親切による恵み。

だからといって人間の側が何もしなくていいというわけではないので、どういう思いや姿勢でいる必要があるか、あるいはどんな行動をとる必要があるかを、くどくどと書いてしまうわけで。そうなると自己矛盾が生じて。パウロもそのあたり、どうしようもなかったんだろうなぁ・・・

さて、この「ゴール」という語、今週の研究記事の中になんと・・・10回も出てきました!(あ、写真のキャプチャーにも1個あったw)
「ゴールを目指して」「ゴールを意識して」「ゴールに到達」などなど。(ゴール!ゴーール!ゴ~~~~~ル!!・・・ってサッカーかっw)

二つの世代の新解釈によって終わりが先延ばしになってしまったものだから、信者たちになんとか終わりを意識させようとサブリミナル効果でも狙ってるのかなw。

以前だったら書かれていたであろう「もうすぐゴール」とか「ゴールは間近」とかいう直接的な言葉はなく。(おそらく書き手も終わりが近いなんて書けないんでしょうね)
ゴールを意識させるんなら、すぐそこだとか目前だとかいう方が断然いいのに。

で、終わりが近いと思わせる部分としては、17節に「最後の直線コースを全力で駆ける走者のように」と、あくまで全力疾走の例えとして出て来ただけでした。

でも、この「ゴール」という言葉と、ただ単に例えとして出て来た部分だけを頼りに、自分たちが今いるのは最後の直線コースなんだ、よ~し全力でゴールするぞ~、と勘違いしちゃう信者が多いんだろうなぁ・・・組織もそう思わせるのが目的なんだろうな。


では、また。