聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ストレスに対処できるよう兄弟姉妹を助ける

2019-08-31 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事。

なんで、助けるのに「兄弟姉妹を」って限定しちゃうんでしょう。「他の人を」とか「周囲の人を」とか「身近な人を」とかでいいのに。

う~ん・・・この記事、参考になるんかな。自分的には、何の参考にもならなかった。

こんな研究、時間の無駄だ・・・

10月のキャンペーン

2019-08-30 | エホバの証人
このキャンペーンで、組織は若い年代を獲得したいようです。

でもね・・・常日頃、世の人を避けるように、世とは交友を持たないように、と散々教えられ、それを忠実に守ってる熱心な信者(世から見たらズレまくってる迷惑な変人)に、学校や職場や親類に非公式の証言しろったって、そりゃ無理難題だし上手く行くはずない(余計こじれる)、ってことぐらい分からないんでしょうかねぇ・・・

分かっててこんなキャンペーンを打ち出してるのなら、パワハラですよ。

でも組織は、エホバの名のもとに行えば何でも許されると思ってる。信者も、組織のやることはエホバのご意思だと信じてるから、パワハラであることにすら気付かず、何としてでも従おうとする。そうすることが幸せであるかのように喜んで。

これ、傍から見るようになると、薄気味悪い集団だな、と感じます。

いえね、先日、会衆の姉妹たちが様子見に訪ねて来てくださったんですけど・・・その時に初めて、感じたんですよ。この人たち、薄気味悪いな、って。(ちなみに、開拓奉仕ウン十年のベテラン姉妹たちです)

いつものように玄関の外での応対で、始めはいたって普通の、お互いの現状報告的な内容の会話だったんですけどね。最後の方で、このキャンペーンの話が出て、今からすごく楽しみにしてるとか。そこから都市証言やら国際大会やらの話になって・・・もうね、組織礼賛ですよ。

自分は聞いてるだけだったけど、この人たち何かに取り憑かれちゃってるんじゃないか、組織が見せてる夢の中で暮らしてるんじゃないかと・・・関わりあっちゃいけない人たちなんじゃないかと感じたんですよね。

キリストの人格を身に付けて誠実に生きようと努力している、良い人たちではあると思うんです。でも、組織に取り込まれてしまっている。きっと、もうこの人たちは、組織の中でしか生きられないんだろうなぁ・・・と。

愛する仲間だったはずの人たちを薄気味悪く感じた、後味の悪い訪問でした。

ということで、本題とズレちゃいました。

自分は現役JW?

2019-08-28 | エホバの証人
日本支部って、日本の信者一人一人について、どの程度データベース化してるのかな。

べテル家族なんかは、組織のパソコンで名前検索したら、ポンっと写真付きで経歴が全部出て来るようになってそう。短期間のべテル奉仕者とか、通いのべテル奉仕者とかもそうかな。

でも末端信者のことは・・・支部では、どのぐらいの情報がすぐ分かるようになってるんだろう。

所属会衆(移動ごとにすべて)、バプテスマの日付(会場とかも?)、役職(長老とか開拓者とか?)や学校の経歴、現住所(これも移動ごとにすべてかな)などなど・・・・すべてデータベース化されてるのかなぁ。

個人の奉仕報告は、さすがに会衆止まりで支部にまでは上がってないよねぇ・・・

昔は各会衆に、個人の伝道者カードっていうのがあって、引っ越しする時には、書記が引っ越し先の会衆に郵送してくれてたみたいだけど。(自分の20年前の引っ越しの時はそうだった。でも実物は見たことない。見せてもらえるものだったのかな?)

今でもその伝道者カードって、所属会衆にあるのかなぁ。それとも全部電子化されてるのかなぁ。(電子化されてたら、まぁ、支部には筒抜けってことだよね)

こういうことって、長老とかにならないとさっぱり分からないよなぁ。聞けば教えてもらえるのかなぁ。

なんでこんなことを考えたかというと、エホバの証人の総数ってどうやって数えてるのかなぁ、と思ったからです。公式HPには、

「神の王国の良い知らせを伝える活動に毎月参加している人だけをエホバの証人として数えています。その中には,バプテスマを受けた証人たちに加えて,バプテスマは受けていないものの,伝道する資格のある人たちも含まれています」
「奉仕年度の終わりには,報告された人数の最も多かった月の伝道者数が国や地域別で確定されます。それらの数字の合計が,全世界のエホバの証人の数になります」
「自分はエホバの証人であると思っている人ではなく,他の人に伝道してその活動の報告を提出する人だけをエホバの証人として数えています」

ってあるんですよね。とすると自分、奉仕報告をゼロで出した月は、エホバの証人として数えられなかったんだなと。じゃ、今月分もゼロ報告する予定なら、自分は今エホバの証人じゃありませんよ~~~って言えるってことかな。どうなんだろ。

・・・というか、伝道しない時点でもうエホバの証人じゃないってことか。あれ? じゃ、バプテスマってなんなんだろね。あれ? なんだか分からなくなってきた。

だってその月も、会衆の中では一応バプテスマを受けた成員であるわけで・・・つまり、決議に参加できる。なのにバプテスマを受けてない伝道者は、エホバの証人としての数には数えられてるのに、決議には参加できない。

・・・う~ん、これは矛盾じゃないのか・・・?

そして、不活発者(確か6ヶ月以上ゼロ報告だったかな)は、数の上ではもはやエホバの証人ではないってことなんだけど、会衆や支部には成員の記録としてまだ残っているんだろうか、という疑問。(排斥者や断絶者も記録としては残ってるんだろうな)

何年か過ぎたら消去されるのかな。記録は残ったままなのかな。う~む。

電子化が進んで情報処理能力が増したことで、こういう記録関連のことって、簡単になるよりは難しくなったような気がする・・・。

とりあえず、組織側としては、奉仕報告ゼロの奴はエホバの証人でもなんでもねぇ、ということなんですかね。

となると自分の今の状況は、現役JWとは言い難いってところでしょうか。

ストレスを感じる時、エホバに頼りましょう

2019-08-24 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事。

これ書いた人、一貫した話ができてませんよね。

2節に、ストレスとなる問題に直面してる例として出て来たジョンとボブとリンダ(ほんとにいるんかいな?)はいったいどうなっちゃったんでしょう?
ストレスを乗り越えられた例として出て来たのは、なんとナンシーとソフィア(しかもこの人はどんなストレスがあったかも分からん)でしたよ。
ジョンとボブとリンダはでっち上げだから、乗り越えられた例には使えなかったんかな・・・と、そんな風に勘繰っちゃいます。

まぁ、例に出て来る兄弟姉妹の話(経験にしろインタビューにしろ)は信用できないので、いつもはすっ飛ばして読んでるんですけどね。この話の進め方はちょっと研究記事としてレベル低過ぎると思ったので、突っ込んでみました。

5節に、エリヤが「ストレスと極度の疲れでいっぱいいっぱいになってしまったのでしょう」ってあるけど・・・「いっぱいいっぱい」って! もう少し、言葉を選べないものかと。
10節にも、「身も心もくたくたになる」って・・・分かり易いのかも知れないけど、小説じゃないんだから。

読み終わっての全体的な感想としては、神をずいぶんと貶めてるなぁと。

これ書いた人は、自分が神にでもなったつもりでいるんでしょうかね。神の思っておられることや考えておられることを分かった風に、まるで自分が神の代弁者ででもあるかのように書いてるけど。

・・・ああ、だからこの組織の神は、懐の小さい神になっちゃうんだな。

10節の「エホバは奉仕を続けるのに必要な力を与えてくださいます」とか、ずいぶんと限定的な表現だよね。この組織はとにかく奉仕奉仕。奉仕を続ける力なら与えて頂けると。そういう神だと。

そして、奉仕に加えて集会集会。孤立するな、集会に交われと。神は集会で力を与えて下さるんだと。

・・・この広大な宇宙を創造された神ですよ。そんなちっちゃい神じゃないと思います。

テモテ②3:16

2019-08-22 | 聖書
テモテ②3:16より
 
新世界訳改訂版 「聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれたもの」
新世界訳旧版 「聖書全体は神の霊感を受けたもの」
田川訳 「書物はすべて神的に霊的なもの」

後世キリスト教の「聖書霊感説」の根拠となった聖句の一つ。どの聖句もすべて神の霊によって書かれたのだという。この組織もそう主張している。他の訳も似たり寄ったり。

でも、原文から受ける印象はだいぶ違うようです。

以下、田川建三氏「新約聖書 訳と註」疑似パウロ書簡より引用します。
__________

・・・原文には「霊感」などという語はどこにも見出されない。「神的に霊的な」と訳したのは合成語(theopneustos)で、「神」(theos)と「霊」(puneuma)をくっつけて一語の形容詞にしただけのもの。確かにこの「霊」は「神の霊」を考えているのであろうが、「霊的な書物」というのと(内容が「霊的」であるということ)、「霊感を受けて書かれた書物」というのとでは、だいぶ話が違う。
__________

以上。

「書物」とは、旧約聖書のこと(組織は新約にも当てはめてるけど)だから、この聖句は単に、旧約聖書は神の霊的なことが扱われた内容なんだよ、って言ってるだけなのね。

・・・つまり聖書は、人間が書いた神に関する本、ってこと。組織が主張しているように、社長(神)が秘書(人間)に自分の考えを書かせた本だ、という裏付けにこの聖句は使えないってこと。


たとえ人間が書いた本であっても、自分は、聖書が悪い本だとは思わないです。むしろ、読む価値のある良い本だと思ってます。もしかしたら神が書き手の思考を導いたのかも知れない、とさえ思ったりもします(神が降りて来た!・・なんて良く言うじゃないですかw)。

でも、バランスって大事ですね・・・

宗教とか信仰心とかが絡んでくると、過激になりやすい。見方も偏ってきて都合良く曲解したりもする。この組織のように、教理に合わせた改竄聖書まで作っちゃったりしてね。

なんか上手く文章にできないけど・・・人間って面白いなぁ。(←どういう思考回路でこういう結論になった?w)

神の知識に逆らうすべての推論を覆しましょう

2019-08-17 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事です。

一言で言ってしまえば・・・組織の教え、つまり同性婚やクリスマスや誕生日や輸血や排斥に関する組織の教えを疑うなよ、ってことでしょうかね。

これは聖書の教えでエホバの基準だ、って書いてるけど、これは組織の教え(解釈)ですよ。だから、本当なのか、って疑問が出るんです。

エバはサタンの「本当ですか」に対しては、ちゃんと返答していますよ。疑念を抱かせたのはうその言葉の方でしょ。

それに、「本当なのか」っていう疑問を抱くことはいいことだと思います。で、その疑問に関して、組織からの情報だけでなく、聖書やそれ以外からもいろいろ情報を取り入れて、自分で判断することです。

そうじゃなかったら、盲信になっちゃいます。
まぁ、組織は信者にそれを望んでるんでしょうけど。

同性愛に関しては、聖書では禁じられてると思えるかもしれないけど・・・禁じる律法はイスラエルに与えられたものだし(もう廃された)、パウロはあのとおりの禁欲主義者だったし。淫行ははっきり禁じられてるけど、今でいうところの同性婚が果たして淫行に含まれるのかどうかというと、そんなことはないんじゃないかとも思えたり。

イエスは、神は人間の頑なさを考えて譲歩して下さっている、って言っておられましたよね・・・だから神は、その時々の、その状況にあわせて、これが最善だとこれが幸福だと考える人間の良心を、尊重して下さっているんじゃないかなと思ったりもします。(もちろん自己中はダメです)

そう考えると、同性婚も頭から否定しようとは思えないんですよね。(でも正直、自分には理解できない領域ではあります)

話は変わりますが・・・

良い友を選ぶ、ってよく出てきますけど、これ、すごくイヤな表現です。自己中丸出しの表現です。自分さえ良ければいいのかよ、って言いたくなります。それに、人を良い悪いって裁いていいのかよ、とも言いたくなります。

さらに、良い友=集会で見つける、ってのも狭い考えです。しかも、霊性の高い人(実際は、見た目で組織に貢献してる人)を、って(←今回の記事にはなかったけど)。これ、ホントにイヤだった。家柄や肩書きで判断してるのと変わらないじゃん、って思って。

まぁ自分にとってはね、友を「選ぶ」なんて贅沢な話ですよ。友になってくれるんなら、誰でもウェルカムですw。

フィレモン

2019-08-15 | 聖書
久し振りの更新です。暑さにうだってます・・

さて、フィレモン書。フィリピ書と同時期、パウロによってローマ拘留中に書かれたもの。

オネシモはフィレモンの家からの逃亡奴隷で、ローマのパウロのもとでクリスチャンになった。パウロは引き続きオネシモを自分のもとに置いておきたかったけど、フィレモンの同意なしにそうしたくなかったので、フィレモンに手紙を書いて、オネシモに持たせてフィレモンのもとに送り返した。・・・と解説されている。

でも本文には、オネシモが逃亡奴隷だったとは一言も書いてない。

単にフィレモンが何かの用事でオネシモを、ローマで拘留されているパウロに遣わしただけで、それをパウロが、奴隷が一人いたら助かるからフィレモンに断りなく自分に仕えさせていたんだけど、オネシモを送り返してくれと言われたんで、しょうがないからフィレモンに手紙を書いた、とも読める。

どう解釈するかで、パウロという人の人物像がまったく変わってくる。


以下、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡②より。
__________

・・・まったく違う目で読み直してみよう。オネーシモスがフィレモンさんのところからパウロのもとにやって来た。奴隷である。しかもフィレモンとパウロは知人、ある程度親しい知人である。それならこれは、フィレモンさんが何かの用事を託してパウロのもとに遣わしたのか、あるいはむしろ、ローマに用事があってオネーシモスを派遣し、ついでにパウロさんに挨拶してこい、と言ったのか。それでオネーシモスがパウロのもとに来た。
しかしパウロにとっては、彼はまことに有用な召使であった。それで、パウロはいい気になって、オネーシモスを自分の召使として使い続けた。もちろんこれは、当時の奴隷社会の基本からして、主人の許可なしであれば、やってはいけないことである。
フィレモンさんの方は、オネーシモスがちっとも帰ってこないものだから(ないしオネーシモスがパウロのところで召使をやっているという噂が伝わってきたので)、そういうことを続けないで、早く送り返してくれ、と手紙を出した。
パウロはこの手紙にむかついたのだが、主人に言われたのなら仕方がないから、送り返すことにした。しかし本当のところ、せっかくの便利な召使である。一応送り返すがまた私のところへもどしてくれ、と頼みたいのだが、さすがにそれでは図々しすぎるから、そこまで露骨に言うことはできない。だから彼はいろいろとなぞをかける。見えすいたなぞであるけれども。
「あなたは私が言っている以上のことをしてくれるだろう」、本当はあなたの許可なしに自分のやりたいようにしたかったのだが、しかしあなたのほうから「自発的に」申し出てくれるのを待つことにした、「私はあなたに命じることができるのだが、敢えて命じることはすまい」、「私の感情を安んじさせてほしい」。
更に、お前は俺につべこべ言える立場じゃないだろ、と脅しをかける。等々ほかにもいろいろ。

(以上、読みやすく改行させていただきました)
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従来のキリスト教神学者による解釈は、この組織の解釈よりももっとパウロ様様なかんじで、オネシモは主人の金を盗んだという冤罪まできせられちゃっている。で、主人のもとに帰りたがらないのをパウロが説得した、とか。この手紙でオネシモを奴隷から解放するようにフィレモンに頼んでる、とか。

たぶんこの書が正典に入れられた時点でもう、こういう解釈が出来上がっていたんだろうなぁ。

結局、どんな話でも、解釈の仕方によっては、愛と信仰の話にでっち上げることができちゃうってことなのかなw。・・・なんだかな。

なんだかいつも、なんだかな、で終わってるような気がする、今日この頃・・・・・・・でした。