聖なる書物を読んで

現役JW29年目

荒廃をもたらす嫌悪すべきもの

2019-01-30 | 聖書
マルコ13:14「・・・荒廃をもたらす嫌悪すべきものが立ってはならない所に立っているのを見かけるなら(読者は識別力を働かせなさい)、その時、ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい」(新世界訳)

に関する、田川建三氏の「新約聖書 訳と註 マルコ福音書」p406~が興味深かったので下記引用させていただきます。

 ・・・前2世紀当時ユダヤを支配していたアンティオキアのヘレニズム王朝の王アンティオコス4世(通称エピファネス)が極端に横暴なヘレニズム化政策をとって、ユダヤ教を禁止し、エルサレム神殿にオリュンピアのゼウス像を立てさせた(前168年)。これはユダヤ人にとっては耐え難い屈辱であって、以後この像を「荒廃の忌むべきもの」と呼ぶようになったのである。これがきっかけとなって、マカバイ兄弟を中心とした独立運動が起こり、ついにユダヤがヘレニズム王朝の支配を脱し、独立するにいたった。もちろんマルコは、この過去の事件を記述しているわけではなく、これから起こるであろう出来事を予測して書いているので、類似の出来事がこれからも起こるであろうけれども、その場合には・・・、というのである。・・・(中略。西暦40年頃ローマ皇帝カリグラが自分の像をエルサレム神殿に立てさせようとしたが、ローマで暗殺され実現しなかったこと)・・・当時のユダヤ住民にとっては、もしも無理に実行されれば、ユダヤ人が抵抗運動を起こしただろうし、皇帝の側は大量の軍隊を導入してこれを鎮圧する予定であったから、阿鼻叫喚の巷となったことであろう。英米軍のイラク爆撃、侵略のような事態を想像すればわかる。マルコが7節で「戦争の噂」と言う時(複数形)、当時の世界では戦争の噂ぐらいはいくらでもあっただろうから、ほかにもいろいろの可能性が頭にあっただろうけれども、カリグラのこの件が大きく記憶に残っていたのは間違いない。
 従ってここでマルコが「荒廃の忌むべきものが立ってはならないところに立つのを見たなら」と言う時、カリグラの時のような事件がもしも実際に起こってしまったら、と言っているのである。
 しかしこの文をそう解さず、違う意味に解する神学者も多い。一頃まで流行っていたのが、これは終末の時の大悪魔ないし反キリストの出現を予言したものだ、という説である。・・・(中略)・・・「荒廃の忌むべきもの」という概念は、アンティオコス4世の事件に関してしか用いられない特殊な表現であって、これを終末時の大悪魔を指す意味に用いるなどという用例はまったく知られていない。更におまけに、マルコにはそもそも「終末時の反キリスト」などという概念は出て来ない。21-22節の「偽キリスト」はそれとはまったく異なる概念である。そこでは、戦争や大騒乱の危機に乗じて新興宗教的宣伝にしゃしゃり出る多くの宣伝家を批判している。
 ・・・間違いの根本は、マルコ13章は終末時に起こるべき事柄を予言的に記述している、とはじめから思い込んで解説している点である。しかしマルコはそういう意図でこの章を書いているのではなく、むしろ逆に、戦争その他の災難は終末の前兆などというものではなく、此の世の歴史の中で生じる災難なのだから、そういうことがあっても、そら終末だ、などと騒ぎ立ててはいけない、と警告しているだけである。
 ・・・こちらはものを知らない神学者がそう思い込んでいるだけだが、これは第1次ユダヤ独立戦争の最後のエルサレム崩壊(70年)を頭に置いたものだ(崩壊そのもの、ないしその直前の危機)、という説もある。しかしこちらはますます根拠がない。それなら、何故わざわざアンティオコス4世の事件をはっきり指示する特殊な表現を用いたのか、まったく説明がつかない。70年の時は、神殿に皇帝の像を置こうなどという試みはまったくなされていない。(後略。この14節を根拠にマルコは70年前後に書かれたのだ、と言い張り、14節の解説にあたっては、マルコは70年前後に書かれたのだから14節はその意味に読まれるべきだ、という前提と結論の堂々めぐり)


以上です。この言葉がアンティオコスの事件を表す特殊な表現だなんて、学んだことなかったなぁ。自分も、もうすでに組織の教理をいろいろ刷り込まれちゃってるけど、それを全部取り払わないと、聖書をちゃんと読めないし、素直に理解できないんだろうなぁ、と思った次第です。そして、聖句を組織の資料だけで理解するのは危険なことだと、改めて思いました。

使徒たちの活動27,28章

2019-01-28 | 聖書
パウロのローマへの旅。

この27,28章の学びで組織は、パウロが囚人であっても船の中でもローマでも難しい状況の中で伝道した、ということを強調して、信者もパウロに倣って、いついかなる時いかなる状況でも伝道するよう圧力をかける。それによって信者は、追い立てられ脅されているような気持ちになる。(もっと出来る、もっとやらなきゃ神の是認は得られない)

さらに組織は、よりにもよって、犠牲を払ってパウロを歓迎したローマのクリスチャンをピックアップし、巡回監督を歓迎し励ますよう信者に圧力をかける。信者はますます追い立てられ、自己犠牲を強いられる。

これじゃあ、神からの愛を全く感じることができず、神への愛を成長させることもできないままだよ。

それなのにワークブックには、「何らかの限界があるとしても、良い知らせを伝えるために何ができるだろうか」と太字で質問されている。こんなことを真面目に考えてたら、間違いなく病気になる。信者はパウロじゃないんだよ。

さらにワークブックには、巡回監督夫妻を「励まし合う」方法(「励ます」ならわかるけど「励まし合う」って・・・)が4つ書かれている。パウロを歓迎したローマのクリスチャンは、こんな風に方法を学んだから自己犠牲を払ったわけじゃないでしょうに。こんな風に書かれて、それをやらなかったら不従順になるから、また重荷を負わされる(他人の眼や自分の良心によって責められる)。真面目に捉えてたら、間違いなく病気になる。

今回のワークブックは、聖書の内容を詳しく学ぶことをせず、組織のために聖書を都合よく用いる、という意味で際立っていたので、こんなツッコミ記事になってしまいました。

だれに考え方を形作られていますか

2019-01-26 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事。

読んでると頭の中がぐちゃぐちゃになっていく感じ。決めつけと矛盾と押し付け。どこから突っ込んだらいいのか・・・

う~ん・・・組織が信者をマインドコントロールしてる、ということへの反論なんだろうなぁ。でも実際マインドコントロールしてるから、論理が破たんしちゃって訳分からない文章になっちゃってるんだろうなぁ。

流れとしては・・・世の考え方を愚かだと全面否定し、エホバ(つまり組織)の考え方が優れていてためになると一部証拠付けた上で、組織(つまりエホバ)の考え方を述べて、どちらを選ぶかと迫る。エホバを選べば、結果、組織にマインドコントロールされる、という仕組み。

うんざりだ。

ものみの塔研究って聖書の研究じゃないんだな、ってことはよく分かった。

まず1,2節。ペテロの言葉「ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような運命にはならないでしょう」(マタイ16:22)。
他の訳では「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」「とんでもない・・あなたにそんなことが起こってはなりませぬ」などとなってる。
「ご自分を大切になさってください」って、いったいどこから出て来た訳なのか・・・本文には「ペテロに対する言葉から分かるように、イエスはエホバの考え方を受け入れ、世の考え方をきっぱりと退けました」とある。これを言いたいがために、都合良く訳したとしか思えない。
この聖書の文脈で、イエスが「世の考え方をきっぱり退けた」なんて読み取るって、そう教えられてない限りあり得ないと思う。普通に考えれば、人間的にイエスを大切に思う気持ちよりも、神のお考えの方が優先されるんだ、って意味だよね。それと、人間的な考え方は、時にサタンに味方してしまうこともある、ということだよね。世の考え方をきっぱり退けた、とは都合の良い拡大解釈だよ。

最初で、すでにオカシイことになっちゃってるから、もにょもにょした気持ちで読み進めることになる・・・はぁ・・・。

3節も4節も意味が分からない。ここに出てくる「神の考え方」「世の考え方」の定義って何? それが分からないと「自分の考え方」がどっちに属するのかも分からないよ。

5節の脚注は、マインドコントロールの正当化かな。

で、7節の親子の例えは、いわゆる世の親のことだよね?・・とすると世の考え方を肯定してるってことになるよね。矛盾してる。「正直であること、よく勉強したり家の手伝いをしたりすること、人を思いやること」って良いことばっかり例に出してるけど、「誕生日を祝わないこと、集会や伝道に行くこと」などなどエホバの証人の親が子どもに教えてることを、どうしてここで書かないんだろうねぇ。

13節。「エホバはご自分の考え方をわたしたちに押しつけたりはされません。忠実で思慮深い奴隷も長老たちもそうです」とある。
え~っと・・・この記事がもう押しつけになってるんですけどね。よくもまぁいけしゃあしゃあと書けるよね、こんなこと。次の副見出しで書くことが押し付けだって分かってるから、先に自己弁護しとこうって感じかな。

14~19節は読む価値ありません。すべて良心に基づいて決めるべきことです。読むと良心が歪みます。マインドコントロールされます。

他にも突っ込みたいとこいっぱいあるんだけど、あり過ぎて上手く文章に出来そうもないので、このくらいにしておきます・・・最後に一言、この研究記事は最悪です。

2018年次総会 話と発表(追記あり)

2019-01-25 | エホバの証人
1月のブロードキャスティングに続く、2018/10/6に行なわれた年次総会の第2部から。

●「まさにこれだ!」(モリス氏)
ダニエル11:40「終わりの時に南の王は彼(北の王)と押し合う」という聖句を考慮した結果、北の王は『ロシアとそれを支持する国々』であるとはっきり言える。
テサ①5:3「平和だ安全だ」(大患難の始まり)については、2004・2月の「聖書預言は多くの場合、成就してから、あるいは成就の途上でなければ十分理解できない」という点を思いに留め、判断はエホバが用いておられる経路に委ねる。忠実な奴隷が聖霊に動かされて語る時がエホバのご意志に沿った理解だから、エホバの方法に従う。

ダニエルの聖句の理解に関しては、いつものようにアメリカ中心(統治体中心)の考え方だなぁと。この組織が理解するとなると、そうなるのも仕方ないんだろうな。自分たち中心で、自分たちだけが神の組織だと考えてるんだから。
まぁ、今まで分からなかった「北の王」が今回はっきりしたので、今後またこっそりと変わってしまわないように、覚えておきたいと思います。

「平和だ安全だ」に関しては以前にも書いたけど、何か特別な状態のことを言ってるのではなくて、こうして毎日を普通に生活してることを言っているだけだと自分は思ってる(イエスはノアの日と同じと言われた。ノアの日も暴虐で満ちていたけど、その中で人々は普通に生活していた)。エホバの日は突然に夜の盗人のように来る。

聖句に関して、判断することも理解することも禁じられて、忠実な奴隷の言うことだけを聞くように仕向けられて。それがエホバの方法だと信じ込まされて。・・・・自分で何にも考えなくなったら一人前のエホバの証人(組織のロボット)になれるってことかなw。


(追記)・・上記部分は第2部の最後の話でした。下記は最初からです。

●OPI(世界本部の広報オフィスの略)からの報告。
OPIは、統治体からの割り当てを受け、調整者委員会からの指示のもとに、報道機関や有識者、政府高官に接して、(エホバの証人が不当な扱いを受けている国などで)エホバの証人の正確な情報を伝える。背教者や反対者が歪んだ情報を広めるので。

一人一人の兄弟姉妹たちの、日頃のりっぱな振る舞いが必要らしい。誰が政府高官になるかわからないからだそうだ。下心を持って親切を行なえ、ってことかしらん?

●2018年の災害に関する報告。
兄弟たちの50万人が被害に遭い、22人が死亡し、84人が重傷を負った。「兄弟たちから示される愛こそ、エホバがあなたを忘れていない証拠」だと。で、「相並んで奮闘する(フィリピ1:27)」ために、①世界的な業への寄付。2018は救援費用が跳ね上がった。過去年間5~8億円だったのが36億円になったそうだ。②救援に参加する。

世界的な業に寄付しても、救援に使われるかどうか分からないからしない。

●発表。
①JW・ORGとJWライブラリ・アプリのアップデート。6ヶ月以内。
JW・ORGでブロードキャスティングもオンラインライブラリも使えるようになる、とか、アプリでワォッチタワーライブラリも使えるようになるとかなんとか・・・・・違ってたらすみません。
②ギレアデ卒業生の宣教者で5年以上FMF(野外の宣教者)として奉仕した人?がSKEに出席できるとかなんとか・・・・・違ってたらすみません。

②に関しては、組織は、特権者階級を作ることに一生懸命頑張ってますねw。

●「わたしたちは教える者でなければならない」(クック氏)
新しい、学校のツール。28pの「教える」(読むことと教えることに励む)の冊子。各課のビデオも出る。

シンプルだから多くの翻訳で出せると言ってたけど、出版物がどんどん減って行く。

使徒たちの活動26章

2019-01-23 | 聖書
1~23節。パウロはアグリッパ王に話す。パリサイ人であったこと、父祖になされた約束の希望に関して裁かれていること、イエスに敵対していたこと、イエスの顕現、啓示に背かなかったこと、神の助けを得て宣べ伝えてきたこと、それは預言者やモーセが述べた通り、キリストが苦しみを受け死人の中から最初に復活して光を告げること、など。

この部分は9章や22章を参照しながら読むと興味深い。
特にここでは、アナニアに関連したことが省かれ、アナニアがイエスから聞いた言葉を、パウロは少し補充して、顕現したイエスから聞いた言葉として述べている。

今回は新世界訳と他の訳との比較が主です。

3節。新世界訳「精通した方」。他の訳では「よく知り抜いておられるかた」「もっともよく通じておいで」「みなよくご存じ」「よく御存じの方」など。
「精通する」っていう言い方が、エホバの証人独特でイヤだなぁ・・・

同節。新世界訳「辛抱して」。他の訳では「寛大なお心で」「忍耐をもって」「寛容に」など。
「辛抱強さ」を霊の実の一つとしてるエホバの証人らしい訳だけど、これもイヤだなぁ・・・

5節。新世界訳「崇拝方式」。他の訳は「宗教」「宗教信仰」など。
「崇拝方式」っていう言葉(7節の「神聖な奉仕」)も、エホバの証人独特でイヤだなぁ・・・

8節。新世界訳「なぜあなた方の間では、神が死人をよみがえらせるということが、信じられないこととされるのでしょうか」。
他の訳もほぼ同じ意味なんだけど、田川訳が興味深い。「もしも神が死人たちを甦らせるのであれば、皆様方がそれをどうして不信仰だなどと批判することがありましょうか」となってる。
パウロは、この文の前に父祖たちの約束の希望について語っていて、この後に復活したイエスの顕現を語るのだから、田川訳の方がしっくりくるかなぁ。新世界訳だと、唐突に相手を非難してるように感じるもんなぁ。

11節。新世界訳「変節を迫り」。他の訳は「無理やり神をけがす言葉を言わせようとし」「み名を汚すことを強い」「イエスを冒とくするように強制し」「冒瀆を犯すように強い」など。
「変節」とは、信念・主義・主張などを変えること、とある。パウロが、イエスへの信仰を捨てさせようとしていたのか、神を冒涜させて捕まえようとしていたのか、全然違う意味になるよね。こんな言葉を使ってたなんて、今回初めて気が付いた。新世界訳、恐るべしw。   

12節。新世界訳「ぱっと光る」(9:3,22:6)。他の訳は「照らす」「輝く」など。
新世界訳は言い方がほんと独特だなぁ。

14節。新世界訳「突き棒を蹴りつづける」。他の訳「とげの付いた棒をける」「尖り棒を蹴とばす」など。
ギリシャの格言らしい。自分を傷付けるだけの愚かな反抗、と言った意味。
パウロは迫害することで自分を傷付け(罪を重ね)ていた。

18節。新世界訳「相続財産」。他の訳で近いのが「(神の国の)相続」「恵みの分け前」。他は「(聖別された人々に)加わる」「(聖化された者の)中に加わる」「きよめられた人たちの)仲間に入れていただく」など。
「(相続)財産」って、なんだか貪欲なイメージ・・・さすが統治体。

19節。新世界訳「わたしは天からのこの光景に背かず」。他の訳もほぼ同じ。田川訳「この天的な顕現に私が従わないなどということはありえないので」。

20節。新世界訳「音信を伝える」。他の訳「告げる」「説き勧める」「伝える」など。
「音信」って言い方も独特。イヤねぇ・・・


24~32節。フェストはパウロに、博識がお前を狂わせている、と叫ぶ。パウロは、狂っていない、真理と節度ある言葉を話している、片隅で行なわれたのではないから王もご存知のはず、と述べ、預言者を信じておられますよね、と迫る。アグリッパ王は、クリスチャンにしようとしている(がそうはいかないぞ)、と述べ、パウロは、すべての者が自分のようになるよう願っている、と答える。立ち去りながらアグリッパ王はフェストに、上訴していなければ釈放されただろう、と。

24節。「!」こんなマークは当時なかったでしょ。

他にも突っ込みたいところいっぱいあるけど、もう疲れたのであと1つだけ。

28節。新世界訳「あなたはわずかの間に、わたしを説得してクリスチャンにならせようとしている」。
他の訳「少し説いただけで」「いとも簡単に・・説き伏せて」「短い時間で・・説き伏せて」「僅かな(言葉)をもって・・説得している」など。
そう簡単にはいかないぞ、という反語的な意味合い。わずかな時間なのか、わずかな言葉なのか、わずかな労力なのか、わずかな何なのか・・・限定はできないみたい。

使徒たちの活動25章

2019-01-22 | 聖書
1~5節。フェリクスの後を継いだフェストは、まずエルサレムへ(ユダヤ人へのご機嫌伺い?)。祭司長や主立った人々は、2年経ってもパウロを殺害しようと企んでおり、フェストに、パウロをエルサレムに送ってくれるよう願う。フェストは、すぐにカエサレアに帰るので一緒に来て訴えよ、と彼らに言う。

フェストは16節で「弁明の機会を与えられないうちに、好意の処置としてその人を引き渡してしまうのはローマの人のやり方ではない」と言っているので、祭司長たちがパウロを待ち伏せして殺そうとしているのを、見破っていたのかもしれないなぁ。
3節の「好意の処置として」って分かり辛い表現だけど、他の訳では「特別の計らいをもって」「特例(で)」「よく計らって(くれるように)」など。
16節の「好意の処置として・・引き渡す」は、他の訳では単に「引き渡す」「くれてやる」など。

6~7節。フェストは彼らとカエサレアへ戻り、翌日には裁きの座に着く。彼らはパウロの回りに立って、多くの罪状を並べ立てるが立証できない。

「多くの罪状」の内容は、8節でパウロが弁明してる「律法、神殿、カエサル」に対するものだったのだろう。

8~12節。パウロは「何の罪も犯していません」と言う。フェストは「ユダヤ人の歓心を買おうとして」、エルサレムへ上ってわたしの裁きを受けたいか、と尋ねる。パウロは、わたしはカエサルの裁きの座の前に立っている、ご存知のように何も悪いことはしていないのだから、わたしをユダヤ人たちに引き渡すことはできない、カエサルに上訴する、と言い、フェストは受け入れる。

フェストもフェリクス同様(24:27)「ユダヤ人の歓心を買う」ために、パウロが無罪と分かっていても結審しなかった。あとあと面倒だと思ったからだろう。フェストがパウロに、エルサレムへ行くかどうか尋ねたのは、エルサレムへ連れて行けばユダヤ人たちは喜ぶし、たとえパウロが殺されても、自分には被害が及ばないで決着がつくだろうということで、政治家にありがちな自己保身かな。パウロも、フェストの立場を考慮して上訴したのかもしれないいな。

パウロが上訴したのは、組織が言うように「良い知らせ(「良いたより」じゃなくなったのかな?w)を擁護するため」じゃないよね。自分が殺されないために、当然の権利を用いただけだよね。ローマに行くことは、パウロ自身の願い(19:21)でもあったし、神のご意志(23:11)でもあったし。(この時の皇帝はネロ。64年のローマの大火の前に、パウロはローマの弟子たちを強めることができただろう)

そんなこんなで、同胞であるユダヤ人に殺されそうになってるパウロは、ローマ人の軍司令官やフェリクスやフェストによって、法に則って命を守られた。

組織は、当局者の前でどのように弁明するか備えておくように、なんて脅すようなこと言うけど、パウロは「罪を犯していない」ということを事実通り弁明しただけ。その通りだから告発者は証拠をあげられなかった(イエスも同じ)。(ちなみに、アグリッパ王はすでにユダヤ教に詳しい人だったから、ユダヤ人の群衆に話したのと同じように、自分がイエスを信じるに至った経験を話した。これは弁明とは違う)

13~27節。アグリッパ王とベルニケがフェストを訪問(就任の儀礼訪問)。フェストはパウロの件を持ち出す。アグリッパ王がパウロの話を聞きたいとのことで、翌日、アグリッパ王とベルニケの前にパウロが連れ出される。フェストは、パウロに罪を見いだせなかったこと、パウロは上訴したが、主(カエサル)へ書き送る訴因を得られるかと彼らの前に連れ出したことなど話す。

このアグリッパ王は、代々ユダヤを治めているヘロデ家のアグリッパ2世。父のアグリッパ1世は、使徒ヤコブを剣で殺し、神の天使に撃たれ虫に食われたように息絶えた。父のおじのアンテパスは、バプテストのヨハネを殺した。その父(アグリッパ2世の曽祖父)がヘロデ大王で、幼子だったイエスを殺そうとした。
ヘロデ家は、元はイドマヤ人つまりエドム人で、名目上のユダヤ人(割礼を受けていた)。

19節。フェストは「神に対する自分たちの崇拝(他の訳では「自分たちの宗教」)に関し、また、死んだ者なのに、生きているとパウロが主張しつづけるイエスという人物に関して、ある種の論争があるだけ」と。

宗教に関する論争は政治家にとってはメンドクサイだけ。なのに「法的に確立する」なんて息巻いてる組織は、厄介な存在でしかない。世から離れていなさい、と信者に強制するのなら、ご自分たちもそうなさってください。訴訟に勝ったなんて威張ってないで。

26節。ここでカエサルに使われてる「主」(キュリオス)という言葉。クリスチャンはイエス(もしくは神)を証しする時に用いていた。ローマ人にとっての我が主はネロ、クリスチャンにとっての我が主はイエス(神)だったわけだから、ネロがクリスチャンを迫害したのも、こうしたことが背景にあったんだろうなぁ。

エホバを信頼し、生き続ける

2019-01-18 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

ハバクク書から慰めを得る、というのがこの記事の目的のようですが・・・結局言いたいことは、問題があっても①エホバに祈り②エホバの言葉と組織の指示に注意を払い③辛抱強くエホバを待つ、といういつもの内容です。(エホバと組織が同列です・・・そのうち組織が上になりそう)

もっと、ハバクク書そのものを掘り下げて学べるのかと思ったのに、相変わらず残念な記事でした。

2節の質問には「ハバククについてどんなことが分かっていますか」とある。
本文には名前の意味と、不安や疑問を抱いてエホバに質問し、エホバは質問に答えた、としか書かれてない。もっと情報出して欲しいよね。そうすれば、なんでハバククが不安や疑問を持ったのか、よく分かるのに。

名前の意味に関しては、「『熱烈な抱擁』という意味があるようです」となってる。・・・え?「熱烈な抱擁」(洞察にも霊感にもこう書いてある)って意味じゃないかもしれないの? 子どもたちとふざけて「ハバクク~」って言いながら抱き付いたりしてたのになぁ・・・なんだかなぁ・・・かもしれないことを根拠にして、エホバが抱擁してくださるだのエホバにしっかり付くだのと書かれてもねぇ・・・説得力無し。

4節に「ハバククは非常に難しい時代に生活していました」とある。
だからもっと具体的に書いてよ。
洞察には「エホヤキム(ファラオ・ネコが王座につけた)の治世中の早い時期に、恐らくはネブカドネザルがBC625年にカルケミシュでエジプト軍を打ち破る前に預言を行なっていた」とある。とすると、ユダにはエジプトの後ろ盾があったわけだから、バビロンに滅ぼされると言われて、ビックリしたんじゃないかなとか想像できる。
他の資料では「ヨシアの宗教改革も空しく、エジプトとバビロンの狭間で、政府の高官たちがそれぞれの思いや利得で、バビロンに従属したりエジプトに従属したり、反旗を翻したりと、王のリーダーシップは希薄となり、神の統治にも信頼することのない現実の中でハバククは神に叫んだ」(web「牧師の書斎」より)とある。こういう情報を書いてくれれば、偶像崇拝に陥ったユダの絶望的な状況がよくわかって、ハバククの思いがどれほど切実だったかも理解できる。

せっかくハバクク書を学んでいるのに、2章5~20を飛ばしてしまうのはなぜ。
この部分には、「定めの時」「終わり」、に関することが書かれてる。災いとなるのは何か、どうなるか。
そして3章1~15も飛ばしてしまう。ご自分の民を救うため、神が行動してくださることが描かれているのに。

組織はいつも、自分たちが主張したい部分だけを取り上げ、聖書(著者)が伝えようとしていることをそのまま書こうとはしない。だから、聖書に関して偏った知識しか得られないんだよね・・・。ほんと残念。

最後に・・・
これは曲解かもしれませんが、祈りでエホバに不満や疑問をぶつけてもいいんだな、ということが今回の記事で得られた良い点(?)でした。組織への不満や疑問を、どんどんぶつけていこうと思います。・・・答えは得られるのかな。

使徒たちの活動24章

2019-01-17 | 聖書
大祭司アナニアたちは、弁士テルトロを伴ってカエサレアへ来る。
フェリクスの前で、テルトロはパウロを訴える。ほうぼうで騒動を起こしている(ローマの平和を乱している)こと、ナザレ人一派で神殿を汚そうとしたことなど。
パウロの弁明。彼らの訴えには証拠がないこと、彼らが派と呼ぶ道に従って、同じ信仰(律法と預言者)と希望(義者と不義者との復活)を持っていること、アジアから来たユダヤ人やサンヘドリンのあなた方が証拠を述べるべきことなど。
フェリクスは裁判を延期(証拠も無く有罪にできないし、無罪にすればユダヤ人の反感を買う)し、パウロを(仲間の世話を受けられる緩さで)留置する。
フェリクスは妻ドルシラと共にパウロの話を聞く。パウロが義と自制と来たるべき裁きについて話すと、フェリクスは恐れる。フェリクスはパウロが金を払う(釈放のための賄賂)と期待し、しばしば話し合う。
2年経ってフェストがフェリクスの後を継ぐ。

この2年間拘留中に、ルカが資料を集めて福音書を書いたというのが保守派の見解。エホバの組織もこれを支持してる。こういうところは保守派なんだよね。聖書の学術的研究には批判的だもんなぁ・・・まぁそういうことをすると、聖書が神の聖霊によって書かれた本だ、という確信が崩れることが分かっているからだろう。でもそういう研究してる人たちの方が、はるかに聖書の内容に精通してる。写本の単語一つ一つを分析してたり、語句の用い方や、文章の作り方の特徴なども分析して、著者について、また著者の意図を正確に理解するよう努力してる。

ネット使っていろいろ調べてると、エホバの証人って聖書をよく学んでいて詳しいって自画自賛してるけど、それはとんでもない思い違いだと分かる。組織が教えたい教理を、同じような聖句を使って同じように学んでるだけ。集会以外に聖書通読をしてるエホバの証人なんて、ほとんどいないんじゃないだろうか。

組織は一応、通読を勧めてはいるけど、一方では信仰を業(宣教、もてなし、交わり、会衆の仕事、集会参加など)で示すように強制して、通読の時間を取れないようにしてる。結局、組織の教え(主に集会、最近はライブラリアプリ)に付いて行く形でしか聖書を学べないようにしてる。もっと信者一人一人が聖書通読(短期間で何度も)するようになれば、組織がどんなにオカシイか自ずと分かると思う。組織はそうなって欲しくないから、なすべきことを常にいっぱいに持ちましょう、とか言ってごまかしてるんだよね。

話がずれたので戻します・・・

14節。新世界訳の「神に神聖な奉仕をささげている」。他の訳では「神に仕える」「神を礼拝する」など。

神に対して「仕える」ことや「奉仕する」ことを表す語を、「神聖な奉仕をささげる」とバカノヒトツオボエ的に訳すから、2重の変な訳になる。いったい神以外のだれに神聖な奉仕をささげるんだろう?・・・ねぇ。あるいは、神に神聖じゃない奉仕をささげる人もいるってことかな?・・・ww。

16節。新世界訳の「・・わたしは、神にも人にもとがを犯していないとの自覚を持てるよう、絶えず励んでいるのです」。他の訳では「わたしは・・神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています」「・・私自身も、神と人々に対して絶えずやましくない良心を持つよう努めております」「・・私自身も神に対し、また人間たちに対して、咎められるところのない意識を持とうといつも切磋琢磨しているのです」など。

この聖句、とてもいい聖句だと思うのに、この組織ではあまり用いられない。ひとつ前の聖句(義者と不義者の復活がある)はよく用いられるのにね。23:1のパウロがサンヘドリンに最初に述べた「わたしはこの日に至るまで、神のみ前で全く汚れない良心を抱いて行動してきました」と共に、パウロの生き方を表すいい聖句だと思う。でも、オンラインライブラリの聖句索引で調べてみると、23:1は引用なし、24:16も2件(1件は良心を訓練する記事)しかない。なんでだろ?
たぶん、良心に従ってもらっちゃ困るんだろうな。良心がおかしいと思っても、組織に従ってもらわないと困るから。組織は個人の良心を使えなくしたいんだろう。だから、この聖句を用いないんだろうな。組織の聖句の使い方って、ほんと偏ってる。

使徒たちの活動23章

2019-01-15 | 聖書
パウロはサンヘドリンで弁明する。夜、パウロに主が現れる。40人以上のユダヤ人たちがパウロ殺害を誓い、陰謀を巡らす。それを甥がパウロに告げ、軍司令官に告げる。パウロは兵士の警護のもと、軍司令官の手紙と共に、カエサレアのフェリクスのもとに送られ、告訴人の到着まで、ヘロデの宮殿内で監視される。

今回は11節についてだけ。
「主は彼のそばに立ってこう言われた『勇気を出しなさい! あなたは、わたしに関する事柄についてエルサレムで徹底的な証しをしてきたが、それと同じようにローマでも証しをしなければならない』。」

最初にツッコミを。パウロはエルサレムで「徹底的な証し」なんてしてない。年長者たちに報告して、捕まって群衆に対して話し、サンヘドリンで弁明(とは言っても復活論争を起こ)しただけ。
他の訳では「証しした」「力強く証しした」「強く証言しぬいた」など。新世界訳は状況を考えず、とにかく「証し」となれば「徹底的に」をつけるという、繰り返しによる洗脳をねらってるかのような訳し方。

パウロの回心後に、主(幻)が現れた記述は3度目。1度目は第二回宣教旅行で、アジアでの宣教を許さずマケドニアへ渡るように、2度目も第二回宣教旅行のコリントで、ご自分の民がたくさんいるからそこに留まるように(1年半留まった)、そして今回ローマで証しするように、と。第三回宣教旅行のときは、主の霊はパウロのエルサレム行きを止めようとしていた(?)ようにも思える。
パウロはユダヤ人への証しにすごくこだわっていたのかもしれないけど、やっぱり異邦人への使徒だったんだなぁと思う。(例えばコリントで、パウロはユダヤ人に対して衣を振り払ったけど、アポロはユダヤ人を論駁した)
聖霊はいつもパウロを異邦人へと導こうとしているように思える。そしてローマでも、パウロが果たした役目は大きかった。

最終的にキリスト教は、ローマの国教になって世界中に広まった。

でもそれは、イエスの教えから離れてしまったキリスト教で。それでもイエスのことが伝わればよかったのかなぁ・・・

さて。
エホバの組織は、この背教したキリスト教が大いなるバビロンの主要部分で、真のクリスチャンが2世紀始まった頃にはそれに捉えられて、1919年だかに解放されたのなんだのと言ってる。大いなるバビロンとか1919年とか、この組織の独自の聖書解釈って、なんだかすごく表面的で的外れ(しかも悪霊的)だよね。

わたしはあなたの真理によって歩みます

2019-01-12 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事。

1節に、返品理由として、期待外れ、欠陥品、気に入らない、とある。
真理(組織の教理)から離れる理由も同じ。それがまがい物の真理だったから。返品がきく(払った犠牲が返ってくる)といいんだけどね・・・

3節に、「真理の価値を見失い、売ってしまった人がいます」とある。
真理だと思って手に入れたものの、そうじゃなかったから売っちゃった人もいます。が正解。

5節には、「聖句についての新しい理解を受け入れられなかった人」「背教者や反対者の教えを受け入れた人」とある。
新しい理解どころか古い理解でさえ間違いだったと気付いたり、背教者や反対者の教えの方が正しいと気付くこともある。この場合は、真理を自分の意志で売ったのではなく、自分の意志で新たに真理を手に入れる、ということになる。

7節には、「エホバの言葉すべてを受け入れなければならない」とある。
「エホバの言葉」じゃなく「組織の言葉(規則)」をすべて受け入れなければならない。が正解。8節~12節まではその「組織の言葉(規則)」を受け入れることについて書かれてるから、全く読む価値なし。特に12節の、聖書に反する慣行、祝祭日については、起源など調べる必要なし! それぞれの場所で、それがどんな意味で行なわれているものなのか、一般常識で判断すればいいこと。

14節。聖書を学び続けることや、聖書によって矯正されることは、大事な事だと思います。

15節。「真理の帯」は「真理のベルト」に変わったのかな。これも新しい理解?w

16節。「真理を教えるためにベストを尽くす」とある。これも大事だと思うけど、組織が言うところの真理は真理じゃない、と自分は思っているので、今はもうそれを教えたいとは思いません。

17節。組織が言うところの真理なんて無くたって、神との親しい関係を築くことはできる。というか、神は自分が生まれる前から親しい関係を築いてくださってる。イエスを信じるっていうのは、そのことに気付くことも含まれるんじゃないかと思う。