聖なる書物を読んで

現役JW29年目

エホバの助けを受け入れ、邪悪な天使たちに抵抗する

2019-06-29 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事。

心霊術に関わると、サタンや邪悪な天使たちの影響を受けるから、持ち物も娯楽も含め心霊術関連には一切関わるな、と。

以前はそれを信じて、さわらぬ神にタタリなし、とばかりにあらゆる心霊術関連の物や事から遠ざかろうとして、見るもの聞くもの読むもの持ち物、とにかくすべて注意深く避けていました。包装紙の絵柄まで気にしたりして。ちょっとでも悪霊(邪悪な天使!)に隙を与えまいとして。

昔、まだ自分がエホバの証人じゃなかった頃、公園でママ友に聞いた話ですが・・・その友人はある宗教組織に入っていて、子供たちを護るために教祖様が願掛けしたお守り(お札だったかな?)をそこここに埋めているんだそうな。で、「実はこの公園にも埋めてあるのよ。だから安心して子供を遊ばせられるわ」と。

それを聞いた時は、そのママ友が安心できるなら別にいいか、と思ったぐらいで、それにとらわれることもなく忘れちゃったけど、その後エホバの証人になってからその話を思い出して、なんだかイロイロ気になって、どこに埋めてあるんだろう、うちのそばにも埋めたりしてるのかな、なんて逆にとらわれてた。

何か自分に良くないことが起きると、心霊術に関連したものが近くにあるからじゃないかと疑ったりもしたし。

今思うと、逆の意味で取り憑かれちゃってたなぁと感じます。バカみたいです。

まぁ・・・正直よくわからないです。聖書には、サタンや悪霊が実際に人を苦しめる存在として描かれているし、現代でも実際に悪霊のしわざかもという出来事があったりするし・・・いったいどの程度心霊術に関わるとそういう悪影響を受けるものなのか。

う~ん、でも、真理を擁護すればサタンと悪霊に敵認定されて攻撃され、心霊術に関われば取り憑かれるんじゃ、いずれにしても逃れようがないってことかなw。

今は適当に、心霊術関連であっても、楽しめるものは楽しんでます。映画とかドラマとか受動的なものですけどね。エホバの証人後遺症(いやまだ現役ですが)のせいか、占いやったり(TVで目にする場合を除く)お守り買ったりとかの能動的なことはやりたいとも思わないのでやりませんが・・・

突っ込みではなく、支離滅裂な記事になってしまいましたが、今週はこんな感じで・・・。

死についての真理を支持する

2019-06-22 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事。

1節。死と死後の命についての偽りの教えはサタンのうそである、という聖書的根拠って何だろう?
4節。サタンがある時点で別のうそ(体が死んでも霊の世界で生き続ける)を持ち出した、っていう聖書的根拠は? ある時点っていつ? 
8節。地獄の火の責め苦もサタンのうそである、という聖書的根拠は?
9節。不滅の魂があるというのもサタンのついたもう一つのうそだ、という聖書的根拠は?

これって、聖書にこのことが直接書いてあるんじゃなくて、世の支配者であるサタンが偽りの宗教を用いているという教理からの推論だよね。組織の教理(真理とされていること)と合わないものはみんな、偽りの父サタンの教え(うそ)です、ってことにしてるんだよね。

人間にはもともと、死にたくないっていう感覚があるんだから、死や死後の命を考えたって自然だと思うんだよね・・・人間の考えって、いったいどこまでサタンや悪霊(邪悪な天使だっけw)に支配されてるんだろう? 哲学とかも全部操られてるってことなのかな。そのへん、よくわかんないや。

もしかしたら人間が考え出したこともサタンのうそにされちゃって、サタンとしては「オレじゃねーよ・・・」って思ってるかも。

まぁ組織としては、自分たち以外の宗教を敵とみなしたいわけだから、サタンのせいにしとくのが手っ取り早いんだろうな。信者を従わせるにも好都合なんだろうし。

6節。(死や死者に関して)不必要な恐れや不安から解放されている、ってあるけど・・・代わりにサタンや悪霊(邪悪な天使だってばw)が実在して影響を及ぼしてることやら、大患難だのハルマゲドンだのが来るやらって、不必要な恐れや不安を煽ってるよね。

7節。サタンの難解なうそ、ってあるけど・・・何を指して難解だと? 「あなた方は決して死ぬようなことはありません」って単純明快なうそだよねw。
そういえば似たようなうそ、聞いたことある・・・「現存する万民は決して死することなし」。

8節。エジプトの災いとか、カナンの虐殺とか・・・旧約の神はかなり残忍だよなぁとは思う・・・

10節。「地獄の火の責め苦がどんなものかを体験させれば、異端者は死ぬ前に改心し、地獄に落ちずに済むと信じる人がいたようです」と責めてますけど・・・これ、完全忌避によって排斥者や断絶者が改心するかもしれない、っていう組織の考えと同じですよねぇ。
「神様がお子さんを天使にするために取り去られたんですよ」と言うのと、「完全忌避することが神の愛ですよ」って言うのと、どちらが神を貶め人を苦しめ悲しませているでしょうかねぇ。
「呪いやたたりを受けないようにするために、先祖をなだめようとする」のって、ハルマゲドンで永遠に滅ぼされないために、集会や奉仕に行って(エホバ=組織に従って)エホバをなだめようとするのと変わらない気がする。
自分たちのやってること、完全に棚に上げてますよねぇ。

12節。聖書に反する習慣に関しては、すべて良心で良いと思います。信じてないんだから、やろうがやるまいがどっちでもいいと思います。大事なのは、14節にあるように、他の人の感情を不必要に害さないようにすること、愛や思いやりや敬意を示すことだと思います。

13節。出版物と長老はやめときましょう。祈りと聖書と良心で十分です。

結局、イヤだなぁと思うのは、神にどう思われるかじゃなくて、組織に兄弟姉妹にどう思われるかを気にしなきゃいけない、ってことです。これって、世からじゃなく、信者から組織からの圧力ですよ。常に監視の目を意識しないといけないという。自由はどこにあるんでしょう。

目が疲れたので今週はこのへんで・・・

イエスに倣い穏やかな思いを保つ

2019-06-16 | ものみの塔
今日のものみの塔研究記事。

ずいぶん久しぶりの更新になってしまいました。このところ、あんまり書く気力が出なくて。

ワークブックの方も、聖書通読も、見てはいるんですけど・・・なんというか、自分の考えと組織の教理との隔たりがだんだん広がってきてしまっていて、もう突っ込む気にもなれなくなってきているというか・・・組織への興味がホントに薄れて来たなぁと思う今日この頃です。

これ、改訂版がきっかけですね、たぶん。こんなお子ちゃま聖書をクソ真面目に学ぼうなんて気にはなれませんよ・・・(言葉が悪くてすみません)。でもって、こんな聖書を推奨するキリスト教組織に心底嫌気がさしたんだと思います。

だったら、こんな組織やめちゃえよ、って話なんですが・・・先月の奉仕報告もゼロで出したんですけど、何の音沙汰もなく。

まぁ・・・6節「自分にできることを道理にかなった範囲で行なったあとは、問題をエホバにゆだねることができる」ということなので、そうしようかなとw。(組織の神に信仰なんてないけど、創造者であり全能者である神は信じてます)

では、記事への突っ込みです。

4節。「自分の死の記念式を制定した時」
イエスは死の記念式なんぞ制定してない、というのが今の自分の考えです。

で、イエスが最後の日に頻繁に祈ったのは、穏やかな思いを保っていられなかったからですよね。平静でいられなかったからですよね。この書き方だと、イエスは常に穏やかで平静だったみたいに勘違いさせられるなぁ。
聖書の訳し方にもよるんでしょうけど、イエスってそんなにいつも穏やかな人だったとは思えないんですよね・・・怒ったり、叱りつけたり、ちゃぶ台返しもしてるしw。
でも、神に祈ることは穏やかな思いでいる助けになると、自分も思います。

6節。「イエスに従う人は皆、サタンから攻撃されるので、信仰を必要としています」
よくわからないけど、なんか変。まぁ、信仰は大盾に例えられてるから、攻撃をかわすものなんでしょうけど・・・こう書かれると、ストレスとなる問題ってすべてサタンのせいみたいに感じさせられる。
サタンのせいであって自分が悪いわけではない、って考えるようになるのも問題だよね。楽だけど。

あと、上にも書いたけど、エホバにゆだねる、って、かなり都合の良い教理ですよね。結局、問題解決のために最低限のことしかしなくなる、そんな気もします。楽だけどw。
どうするのが良いかわからない時とか、あわてないで待ったほうがいい時とか、いろいろ状況があるので一概には言えないですけど。

8~10節。「イエスは熱心に伝道した」
これって単純に、何かに没頭してれば問題を忘れられるってことじゃないんですかね。別に伝道じゃなくても、仕事でも趣味でも勉強でもなんでもいいんじゃないかと思ったのは自分だけかしらん?
それに、イエスは別に、穏やかな思いを保つために伝道したわけじゃないだろうし・・・なんかこれ、伝道強要するために無理やりこじつけてる感がひどくて、わけわかんないよ。

13節。「自分は完全でしたが、不完全な友の支えを感謝しました」
間違ってないんだろうけど、こういう書き方もなんかイヤだ。イエスが不完全な友を見下してるみたいに感じる。こういう言葉選びによって、イエスの人格を引き下げようと印象操作してるのかな。

14節。「良い友は、エホバに忠実であり続けるよう助けてくれます」
いやいや、どんな時にも愛し続けてくれて苦難の時にも兄弟のように助けてくれるのが真の友じゃなかったっけ? あれ? 良い友と真の友は違うのかな? 組織にとって都合の「良い友」のことですかねw。(←わざとらしい嫌味です)

「良い友を作る最善の方法は、自分が良い友になることです」
これは納得です。でも会衆に限定するのは良くないです。良い影響を与えてくれる人、助けになってくれる人、会衆外にもいっぱいいますよ!

ということで、つたない突っ込みでした。

あなたは宣教を十分に行なっていますか

2019-06-08 | ものみの塔
今週のものみの塔研究記事。

これだけネットが普及し、欲しければだれでも聖書が手に入る今の日本で、そもそも宣教をする必要が本当にあるのかどうかが疑問です。

この終わりの日(終わりの時代、になったんだっけ?)には、この業は天使が率先してるわけだし。

永遠の命のために正しく整えられた人(改訂版では、永遠の命を得るための正しい態度を持つ人)は、エホバが引き寄せられるわけだし。

そうじゃない人は、ネット見て眉をひそめるだろうしw。

宣教がもろ刃の剣みたいになっちゃってて、宣教することでエホバの証人についてネットで調べられて敬遠される原因になっちゃってる気もします。

でも組織としては信者を獲得するため、あるいは繋ぎ止めておくため(もしくは服従させるため)に、宣教を強調せざるを得ないというジレンマ。

もう宣教奉仕には出ない自分には、今回もどうでもいい記事ではあるんですが・・・いくつか突っ込みます。

5節。ギター弾きの例え。
なんかピンとこないと思ったら、これ、末端信者にとっては例えになってないですよ。宣教(ギター)ではお金もらえませんもん。宣教を生活の糧にしちゃダメですよねぇ・・・所詮、寄付で生活してる人が考える例えなんて、こんなもんです。

9節。パウロの模範。
パウロは独身で、イエスから直接任命されたにもかかわらず、生計を立てるための仕事をしていた時は、安息日ごとにしか宣教してなかったんですよ。これを模範にするなら、家族の頭は生計を立てるためにきちんと働き、休日は家族のために用いるべきなんじゃないかなと。

13節。生活をシンプルに。
信者の生活に口出ししてないで、まずは、世界本部をもっともっとシンプルにしていただきたい。あれが自分の宗教の総本山です、なんて、胸張って言えないですよ。いったいいくらかかったんだか・・・もし今、自分が学んであの世界本部見せられたら、めっちゃ引きますね~~~信者になってなかったと思います。
だいたい、真面目な信者は、もうこれ以上無理だって言うくらいシンプルな生活してますよ。そういう信者に感情移入することもないんでしょうね、これ書いた人は。鬼だね。

16節。奉仕の進歩。
この組織は、適材適所、という言葉の意味をもっと良く考える必要があると思います。営業が苦手な人だっているんです。個々の才能の違いを無視して、同じような兵隊になるよう訓練しようとしたって、上手く行くはずないですよ。

ガラテア (3)

2019-06-05 | 聖書
昨日の記事、長くなったので分けました。

6:16
「神のイスラエル」。この言葉、新約で出て来るのはここだけ。
普通はキリスト教会のこと(この組織では霊的イスラエルつまり14万4千人の油そそがれた者たち・・・油そそがれたっていう言葉も使わなくなったんでしたっけ・・・選ばれた者たち?)であると解釈されてるけど、パウロがユダヤ人以外をイスラエルと呼ぶことはありえない、と田川氏は書いている。

なので田川訳では「この基準の側に並ぶ者すべてに平安が、また憐みがあるように。そして神のイスラエルにも。」となっている。
改訂版は「この指針に従ってきちんと歩む人すべてに、つまり神のイスラエルに、平和が与えられ、憐みが示されますように。」

田川訳では、「並ぶ者」と「神のイスラエル」が別物であることがわかるように訳されている。パウロは自身の民族であるユダヤ人のことを(クリスチャンであろうとなかろうと)いつも気にかけていた人。だから、こう付け加えたのだろうと。

写本がいろいろ違ってたり、言葉の意味の取り方や構文の解釈の仕方が幾通りもあったりする場合、どう訳すかを考えた時、田川氏は、作者の考え方や思想や言葉の使い方などを考慮した上で訳されている。
組織は、まず教理ありきで意訳している。だから、こういう違いがあちこちに出て来る。

どちらを好むかは人それぞれだろうけど、訳し方として正しいのは田川氏の方だと思う。

まぁ、この部分を見るだけでも、組織が説教材料として引用するなら、改訂版の方がずっと使いやすいだろうなと思われるw。

上にも少し書いたけど、改訂版では「油そそがれた」という言葉が「選ばれた」もしくは「(エホバが)選んだ」という言葉になっているんですね~~ちょっとびっくりです。
これも意訳ですよね。油をそそぐって、選ばれること以外にもいろんな意味を含んでいると思うんですよ・・・モーセ時代からの儀式ですもんねぇ(人だけじゃなく物にも油そそぎしてますし)・・・そのまま訳した方がいいよねぇ・・・

今後、選ばれた者たち、という言葉が使われる度に、潜在的にクリスチャン内の格差も増し加わっていくんでしょう。これも一種のマインド・コントロール。ヤダヤダ・・・

ガラテア (2)

2019-06-04 | 聖書
4:22~31
24節の、新世界訳での「象徴的な劇」ですが、改訂版では「別の意味」と訳されてます。
田川訳では「アレゴリーとして説明すると」となっています。

26節の、新世界訳での「上なるエルサレム」(田川訳も)は、改訂版では「上にあるエルサレム」。ということは、これも改訂版のほうの言い方に変わるんでしょうね・・・めんどくさ・・・

この部分は、パウロが、旧約時代の出来事をアレゴリー化して解釈しようとしてる(ハガル=旧約 サラ=新約)、ということ。
でも、サラに適用しようとしたイザヤの聖句(54:1)は、良く考えるとサラには全く当てはまっていません。パウロの旧約引用の仕方は、滅茶苦茶なことも多いです。(なんとなくそれらしいけどw)

27節の、新世界訳「うまずめ」田川訳「石女(うまずめ)」を、改訂版では「不妊の女」と訳してます。
差別用語を気にしたのかもしれないけど(あるいはもう死語だからかな?)、聖書にそういう用語が書いてあるんだから、どんな書物かを知らせる意味でも、そのまま訳すべきだと思う。

29節に、イシュマエルがイサクをからかった(弾圧した)、とあるけど、これはサラを正当化するためにラビたちの考えが入り込んだのでは、とも言われている。イシュマエルとイサクは一緒に遊んでいただけで、それを見たサラが二人の異邦人を追い出した、というだけの話なのだと。
それを、パウロはラビたちの伝承に詳しかったから、こんな風に解釈したんだろうな。

この組織は、いわゆる油そそがれた人たちとほかの羊を差別(区別では決してない)して、ほかの羊を蚊帳の外に置くことが多いので、ほかの羊である自分には、聖書の言葉が遠く感じることが多かったです。この部分もそう。
でも、パウロはそんな差別をしたりしてないんです。組織は、当時のクリスチャンは皆油注がれてたからだ、とか言うでしょうけどね。聖書が神からの手紙であるのなら、そんなん、納得できませんよ。
結局それって、一般民衆から聖書を取り上げた中世の宗教指導者と同じ精神ですよね。彼らを通してでなければ、神に近づけないと。そして、聖書を自分で読んで理解し、組織に疑問を呈する者を、異端者扱いして排除する。完全忌避なんて精神的拷問に等しいですよ・・・で、霊的に死んだ者とされる・・・
組織に都合の良い改訂版聖書を与えて、それ以外は聖書じゃないと排除するのもそう。
なんだかなぁ・・・

気を取り直して。

6:4
以前も書いたけど、田川訳は分かり易いです。「それぞれが自分の業を自分で検証すべきである。その時には、誇れるのは自分に対してだけであって、他に対して誇ることはできないだろう」。

簡単に言えば、偉そうに自慢するんじゃないよ、大したことやってないんだから、ってことかなw。新世界訳だと(改訂版も同じ)、他と比べてじゃなく自分ができたことを喜べよ、って感じだけど。
訳でこんなに違っちゃうんだね。

6:12,14
新世界訳(改訂版も同じ)「苦しみの杭」、田川訳は「十字架」。

ギリシャ語のスタウロスは、棒、杭、を表わす語だけど、後に、ローマの磔に用いられた木のことをスタウロスと言うようになった、とのことです。両手を打ち付けたので、十字かT字だったと考えるのが普通。
この組織が拘るように、この語は棒を意味するから、磔も棒だったなんてことはまずないでしょうね・・・なので、十字架で良いと、自分は思います。

6:16
「神のイスラエル」。新約で出て来るのはここだけ。パウロがユダヤ人以外をイスラエルと呼ぶことはありえない、と田川氏は書いている。