聖なる書物を読んで

現役JW29年目

霊の実

2018-07-26 | 聖書
ガラテア5章22~23節。
「霊の実は、愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、信仰、温和、自制です」

 平和⇒平安
●辛抱強さ⇒寛容
 親切⇒慈愛、仁慈(なさけ)
 善良⇒善意
●信仰⇒忠実、真実、誠実、忠信
●温和⇒柔和
 自制⇒節制

色々な訳を見てみると興味深い。
特に、黒丸●の訳語は、新世界訳独特。

温和と柔和は、ぎり受け入れられるとして。

辛抱強さと寛容では、随分と意味が違う。

信仰に至っては、全く意味が変わってしまっている。
いったいどこから、信仰という訳語が出てきたんだろう?

信仰を抱いて祈る者に、神は聖霊を与えてくださるのであって、
聖霊が信仰という実を生み出すわけじゃないと、自分は思うんだけど。

ものみの塔や洞察で、いくら言葉の意味を補ったとしても、
聖書を読んだ時に受ける印象が違ったら、訳としては、なし、でしょ。

さて、この霊の実。
前の節で書かれている、肉の「業」は、行ない、であるのに対して、
この、神の聖霊の実は、「実」なので、自然と生み出されるもの。

ヨハネ15章でイエスが語った言葉を思い出させる。

ぶどうの木(耕作者はエホバ神)であるイエスに結びついているなら、
実を結ぶ枝になれる、という話。

この霊の実に、人は惹かれて集まって来るんだろうと思う。

ネフィリム

2018-07-25 | 聖書
人が地に増え始めると、神の子らは、人の娘たちを妻にめとっていく。
生まれた子たちが、ネフィリム。

このことが始まったのは、ノアの時代よりかなり前なのかも。

「女の胤によって頭を砕かれる」という神の裁きを受けたサタンが、
その胤を無くそうと試みたことが考えられるから。

「わたしの霊が人に対していつまでも働くことはない。彼はやはり肉であるから」
という神の言葉は、ネフィリムに当てはまるのかもしれない。
そうすると、「したがってその日数は百二十年となる」と続くので、
ネフィリムは、当時としては短命だったのかも。

異種間の交配で生まれた動物は、短命だったり、生殖力がなかったりするらしいから、
あながち間違ってないかも。

それでも、ノアの時代になる頃には、力ある者たち、名ある人々となっていて、
地を損ない、暴虐で満たしていた。
彼らの父である神の子たちの影響も、多々あったと思う。

神の子たちには、性別が無いけど、あえて言うなら男性だろう。
たぶん、エバがアダムのあばら骨から創造された時には、
アダムが羨ましい~~~オレも女欲しい~~~と思ったかもしれない。
これは余談だけど。

そんなこんなで、めちゃくちゃになっちゃった地。
エホバ神は、大洪水でネフィリム共々悪を一掃して、地を清められた。
罪を犯した神の子たちは、タルタロスに投げ込まれて、
もう二度と、こうした悪さができないようにされた。

神の子たちは、地球に対して、人間に対して、なんでこんなに興味津々なんだろう?

預言書

2018-07-24 | 聖書
イザヤからマラキまでの預言書。
内容はよく分からないけど、好きだ。

エホバ神が、人々をどれほど愛してくださっているか、
どれほど救いたい、助けたいと思っておられるかが、
痛いほど伝わってくる。

滅びの預言は、救いの預言でもある。

旧約聖書の神は、戦いが好きな残忍な神だって言われるけど、
預言書を読むと、そうは思えない。

祭司の王国

2018-07-23 | エホバの証人
イスラエル人は、イエスを王にしようとした。
つまり、その時までは、天での命の希望はなかった。
だから、イエス以前の人たちは(バプテストのヨハネも)地上に復活する。

もしもイスラエル人がイエスを受け入れてたら・・・

祭司の王国は、そのまま地上にあったんだろうか。
それまでに生存したイスラエル人は、
地上に復活してすべて祭司の王国の一員になったんだろうか。
だとしたら、14万4千人なんて少な過ぎる数だ。
それとも、その中から14万4千人を選ぶのかな・・

イスラエル人は、どう思っていたんだろう。
アブラハムの胤によって地のすべての民が祝福される、という約束。
自分たちは、いずれ祭司の王国として全地を支配すると思ってたのかな。

イエスの贖い、復活、預言の成就。
これがなければ、聖書(神の言葉)は成り立たない。
今でこそ聖書全巻がそろってるからわかることだけど。

イエスは天で、神の王国の王となられた。
そして、ご自分と共に王また祭司として仕える者たちを、
イスラエル人だけでなく、諸国の人々からも選ばれ、天へ招待する。

そう、天への希望が差しのべられた。
イスラエル人に対応するとしたら、14万4千人どころの数じゃないと思う。
逆に、14万4千人という実数だったら、たぶん1世紀で集め終わってる。

この、天の神の王国。
最初から決まっていたことなんだけど・・
当時のイスラエル人には分かっていなかっただろう。

イエスの死と復活を受け入れるには、かなりの考えの変化が求められたことだろう。
だから、聖霊がそそがれて、すべてを明らかにされる必要があった。

今は、その意味では聖霊がそそがれる必要はもうない。
まぁ・・黙示録とかよく分かんないから、時が来ればまた、
解き明かしのための聖霊がそそがれることは、あるかもしれない。

でも・・統治体には期待できないだろうな。
啓示の本、なかったことになりそうだし。
都合よく組織に当てはめることができたのも、前世紀まで。

イエスが天に復活されてから、あと15年で、2千年になる。
黙示録、気になるなぁ。

神の活動する力

2018-07-22 | 聖書
創世記1:2 「地は形がなく、荒漠としていて、闇が水の深みの表にあった。そして、神の活動する力が水の表を行きめぐっていた」

そして、神が言葉を発するたびに、地が形創られていく。
そして、七日目に神は業を完了して休まれ、七日目を祝福し神聖にされた。

神の活動する力が、今も地の表を行きめぐっているといいな。





ヨナ

2018-07-21 | 聖書
いきなり、「そして、・・」から始まるヨナ書。
この前に、どんな記述があったのか、気になる。
この始まり方からして、この書は狂言かな、と。

嵐の時、深く眠り込むヨナ。
イエスも、嵐の時、眠っていた。

ヨナを助けたいと思った船員たち。
でも、神はますます海を荒れさせ、船員たちにヨナを海に投げ込ませる。

なぜ、ヨナは自分から海に飛び込まなかったのか?
イエスの処刑と対比させる意味があったのか、単に自殺はダメだからか・・

船員たちは、罪のない血を私たちに帰させないでください、と神に呼ばわってる。
イエスも、杭に付けられたとき、彼ら(ローマ兵?)をお許しください、と言ってる。

三日三晩、魚の腹の中にいたヨナ。
足かけ三日、墓の中にいたイエス。

魚の腹の中で、ヨナは祈る。
命は、エホバ神に全く依存していること。
救いは、エホバ神のものであること。

歩いて回ると三日かかるニネベ。
その都市に入ったヨナは、歩いて一日(だけ)、しきりにふれ告げる。
すると、人々は神に信仰を置くようになり、あれよあれよと話は広まって王に達し、事態はどんどん進んで、あっという間にニネベ中が悔い改める。

40日後に滅ぶはずだったニネベ。
ヨナは不満たらたら。

ひょうたんのくだりも狂言ならでは。
エホバ神の手のひらの上で転がされちゃってるヨナは、愛されキャラだね。

2018-07-19 | 日記
数人の世の友人たちと旅行に行って、麻雀したりして。
食べたり飲んだり、わいわい楽しくしていると・・

いつもの姉妹が、奉仕の迎えに来る。
なんで、こんなところにまで・・と思う。

普段着だから、と断るけど、それでいいから、と言われて、共に奉仕に出る。
もちろん知らない区域。
いいお天気、絶好の奉仕日和。

普段着での奉仕に、自分はちょっと引け目を感じるけど、姉妹は一向に気にならない様子。
笑いながら楽しく奉仕していると、同じ会衆のBSたちと合流。

よそよそしいBSたちの視線を感じながらも、誰も普段着に突っ込まないという、違和感に満ち満ちた状況。

と、知らないBが話しかけてくる。
知らない長老Bに住所を知らせるように、と。

はい、じゃメールで送りますので、メアドを・・・と答えると、
長老Bは今忙しいからダメだ、と。
じゃ、メモに住所書くので渡してください・・・と言うと、
それは失礼だから、家に帰ってからキチンと手紙を書いて送るように、と指示される。

なんでそんなメンドクサイことしなきゃならないんですか、今時手紙なんて・・と言うと、
逆らうのですか、姉妹は不従順ですね、と言って、プイッと向こうに行ってしまう。

変な兄弟だなぁ、と思っていると、他のBSたちがみんな、そのBに付いて行ってしまう。
隣に座っていた姉妹も、何も言わず、こちらを見もせずに付いて行ってしまう。
まるで操られたかのように。

取り残された普段着の自分。


そこで、目が覚めた。


なんだか、暗示的な夢。
解き明かしをしたら、面白そう。

今週

2018-07-18 | エホバの証人
今週は巡回訪問。

個人的な訳があって、去年の秋ごろから、もう集会には行かれない状態なので、別段普段と変わらない。

前回は、牧羊訪問の打診があったけど、別段話すこともないし、訊かれて正直に答えたら背教になりそうだし、個人的理由で人と会いたくないし・・で、断った。

長老たちも、面倒には関わりたくないのか、その後も特に何の連絡もなく。
まあ、奉仕はたまに出て、報告はちゃんと出してるから、一応成員ではある。

でも、なんとなくこのままフェードアウトかな、という感じがする。

自分から意志をもって付き従う、というわけでもなく。
自分から意志をもって離れたい、というわけでもなく。

さて・・いつまで奉仕を続けようか・・

会衆の人たちと、外で遇えば挨拶くらいするけど。
霊的に弱い人、と判断されると、避けられるようで。

会衆の成員も、随分と移動して来られたBSがいて、顔ぶれが変わったらしい。
新たに長老も必要で来られたそうなので、これから会衆がどう変わっていくのか。

巡回訪問が終わったら、情報通の姉妹に色々聞いてみよ。

地区大会

2018-07-15 | エホバの証人
去年は、泊りで3日、参加した。
今年は、行かない。もう巡回大会も行かなくなった。

いつ頃からかな、話し手の紹介に肩書きが付くようになったのって。
ものすごい違和感。

発表文書もないだろうし、映像はいずれアップされるだろうし。
参加する意味も、価値もわからない。

参加することで、従順を示せるのかもしないけど、
神は、本当にこんな大会に参加することを望んでおられるのかな。

神への従順なのか、組織への従順なのか・・

以前の大会は、神の聖霊が感じられる気がして、さわやかだった。
きっと、参加する兄弟姉妹たちが、霊に燃えてたからなんだろうな。
最近は、そんな熱さも感じられない。

何年かしばらく休んで、また行ったら、聖霊を感じられるかな・・

クリスチャンの結ぶ実

2018-07-13 | ものみの塔
クリスチャンの結ぶ実とは何か。

今週末の、ものみの塔の研究記事(7節~)、ヨハネの15章の解釈。

これは、最後の過ぎ越しのシーンでのイエスの話。

この話をする前に、イエスは、まず弟子たちの足を洗って、
弟子たちが互いに仕え合うべきであることを教えた。

そして、ユダを去らせた後、新しいおきてを与えている。
互いに愛し合うこと。イエスの弟子は愛によって知られる、と。

さらに、ご自分が道、真理、命であること。
イエスと結びついておられるみ父が、ご自分の業を行なっておられること。
イエスを愛するなら、その人はイエスの言葉(おきて)を守り行ない、み父に愛されること。
その人には、み父が助け手である真理の霊を与えてくださること。

などなどを、13章からずっと話され、その流れでこのぶどうの木の話をされる。

それをふまえて読むと・・
大事なのは、イエスと結びついていること(によって、エホバ神と結びついていること)であって、実を結ぶことではない。

実を結ぶ枝とは、木にしっかりくっついて、幹からいっぱい滋養分を取り入れているもの。
つまり、イエスとしっかり結びついている(ことによって、耕作者であられるエホバ神と結びついている)ならば、実を結ぶ枝になれるということ。

結びついているために必要なのは、9、10節にあるように、愛にとどまること。
13節で、友のために自分の魂をなげうつこと、これより大きな愛を持つ者はいない、と。


結ぶ実が、研究記事にあるように、新しい弟子とか新しい王国の種とか、忠実に伝道し続けることとか・・・

そんなことは、まるで関係ない話でしょ。