今週末のものみの塔研究記事。
今週、来週と、記念式関連の記事です。どちらも挿絵が表象物に関するものではないんですね。以前はもっと、パンと葡萄酒が強調された挿絵が用いられてたと思ったんですけど。記事(招待状も)の内容も「集まること」自体に主眼が置かれているようです。
記念式に関しては、自分的には、やってもやらなくてもどっちでもいいと思ってます。もしやるのなら、いつやってもかまわないと思うし、表象物はみんなが食べるべきだと思ってます。
やらないのなら、日々の食事の時に、イエスの犠牲を思う祈りを個人的にするだけでもいいし、食事の交わりで何人か集まった時にでも、同様の祈りをすればいいと思ってます(特にパンと葡萄酒がなくても)。
理由として一番大きいのは、イエスがどんな形であれご自分の死を記念する式典を制定したとは思えないことです。
イエスは、「今がそうです。真に礼拝する者が霊と真理において父を礼拝する時です。それに父は、このようにして父を礼拝する者を求めておいでなのです。霊なのです、神は。だから神を礼拝する者は霊と真理において礼拝すべきです」(田川訳 ヨハネ4:23,24)と言われた。そのイエスが、律法を終わりにしたのに、新たに記念式を制定するはずないと思うんです。どんなに簡素な式であっても。
逆に、「記念として行なえ」と2度も繰り返して書いてるのは、あのパウロ(コリント①11章)です。
そして福音書でこの言葉を書いてるのは、ルカだけ。でもこのルカの聖句も、22:19の「わたしの記念として~」から20までは、パウロの言葉(コリント①11章)を受けての、後の挿入だと言われている。
ヨハネは6章で記念式の内容にあたることを書いてる(この部分も後の挿入かもしれない)だけ。
ちなみに、マタイとマルコは「契約の血」、ルカとコリント①が「(血による)新しい契約」。「新しい」と書いてるのはルカとパウロ(ルカは後の挿入だろうけど)。こうなると、いわゆる「新しい」契約というものもアヤシクなってくる。後のキリスト教ドグマなんだろうな、と。(新たな真理の解明?w)
エホバの証人の記念式には、いつも違和感を感じていた。
なんで晴れ着なの? 記念写真なの? パンの焼き方や葡萄酒の質にまで拘るの? 目的が違ってない?・・・・まぁ、年に一度のお祭りだと思えば、こんなもんかな、なんて自分なりに納得してみたりしてた。
でもね・・・なんだかなぁでした。目の前を通り過ぎるだけのパンと葡萄酒も含めて。
さて。
やっとこ記事にツッコミます。
とにかく今回は、簡素、簡素、簡素としつこいです。簡素なんだから、どんな状況にあっても式を取り行なえ、という圧力(脅し)です。これのどこが愛なんでしょうね。
5節。「(イエスは)自分の死を記念するために手の込んだ式を行なうことを求めたりしませんでした。自分に過度の注意を引こうとしなかったのです」。
読んでて腹が立つ。イエスをなんだと思ってるんだろ。ま、偉い人はみんなこんな事するのが当たり前だと思ってる人が書いた文章だから、しょうがないか。自分たちはそうしてる、っていう自覚があるから出て来た文章だとすれば、まだ救いはあるかな。・・・と良い方に解釈しておこう。
9節。「彼ら(投獄されてる兄弟たち)を擁護するために意見を述べることができるかもしれません」。
なんだこれ。ロシアに手紙攻撃したことを正当化したいんかな。それとも、もっとやれってか? 意見を述べることができる、なんて今まで言ってたっけ?
だいたいこれだけじゃ、具体的に誰が誰にどうしろってことなんだかさっぱり分からないよ。だからみんな勘違いして、それぞれが勝手に解釈して、勝手なことして、互いに裁きあうことになるんだよ。
18節。「記念式はやがて行なわれなくなります」。
「やがて」になりました。ちょっと前までは、今年が最後かもしれない、とか、来年はないかもしれない、みたいなこと言ってませんでしたっけ? 都合の良い言葉ですね・・「やがて」。
でもまぁ、組織の言うことに惑わされて、一喜一憂するのはバカらしいことだと、多くの信者は分かっているようです。仲間たちと楽しい毎日が過ごせれば、それに越したことないと。
今週、来週と、記念式関連の記事です。どちらも挿絵が表象物に関するものではないんですね。以前はもっと、パンと葡萄酒が強調された挿絵が用いられてたと思ったんですけど。記事(招待状も)の内容も「集まること」自体に主眼が置かれているようです。
記念式に関しては、自分的には、やってもやらなくてもどっちでもいいと思ってます。もしやるのなら、いつやってもかまわないと思うし、表象物はみんなが食べるべきだと思ってます。
やらないのなら、日々の食事の時に、イエスの犠牲を思う祈りを個人的にするだけでもいいし、食事の交わりで何人か集まった時にでも、同様の祈りをすればいいと思ってます(特にパンと葡萄酒がなくても)。
理由として一番大きいのは、イエスがどんな形であれご自分の死を記念する式典を制定したとは思えないことです。
イエスは、「今がそうです。真に礼拝する者が霊と真理において父を礼拝する時です。それに父は、このようにして父を礼拝する者を求めておいでなのです。霊なのです、神は。だから神を礼拝する者は霊と真理において礼拝すべきです」(田川訳 ヨハネ4:23,24)と言われた。そのイエスが、律法を終わりにしたのに、新たに記念式を制定するはずないと思うんです。どんなに簡素な式であっても。
逆に、「記念として行なえ」と2度も繰り返して書いてるのは、あのパウロ(コリント①11章)です。
そして福音書でこの言葉を書いてるのは、ルカだけ。でもこのルカの聖句も、22:19の「わたしの記念として~」から20までは、パウロの言葉(コリント①11章)を受けての、後の挿入だと言われている。
ヨハネは6章で記念式の内容にあたることを書いてる(この部分も後の挿入かもしれない)だけ。
ちなみに、マタイとマルコは「契約の血」、ルカとコリント①が「(血による)新しい契約」。「新しい」と書いてるのはルカとパウロ(ルカは後の挿入だろうけど)。こうなると、いわゆる「新しい」契約というものもアヤシクなってくる。後のキリスト教ドグマなんだろうな、と。(新たな真理の解明?w)
エホバの証人の記念式には、いつも違和感を感じていた。
なんで晴れ着なの? 記念写真なの? パンの焼き方や葡萄酒の質にまで拘るの? 目的が違ってない?・・・・まぁ、年に一度のお祭りだと思えば、こんなもんかな、なんて自分なりに納得してみたりしてた。
でもね・・・なんだかなぁでした。目の前を通り過ぎるだけのパンと葡萄酒も含めて。
さて。
やっとこ記事にツッコミます。
とにかく今回は、簡素、簡素、簡素としつこいです。簡素なんだから、どんな状況にあっても式を取り行なえ、という圧力(脅し)です。これのどこが愛なんでしょうね。
5節。「(イエスは)自分の死を記念するために手の込んだ式を行なうことを求めたりしませんでした。自分に過度の注意を引こうとしなかったのです」。
読んでて腹が立つ。イエスをなんだと思ってるんだろ。ま、偉い人はみんなこんな事するのが当たり前だと思ってる人が書いた文章だから、しょうがないか。自分たちはそうしてる、っていう自覚があるから出て来た文章だとすれば、まだ救いはあるかな。・・・と良い方に解釈しておこう。
9節。「彼ら(投獄されてる兄弟たち)を擁護するために意見を述べることができるかもしれません」。
なんだこれ。ロシアに手紙攻撃したことを正当化したいんかな。それとも、もっとやれってか? 意見を述べることができる、なんて今まで言ってたっけ?
だいたいこれだけじゃ、具体的に誰が誰にどうしろってことなんだかさっぱり分からないよ。だからみんな勘違いして、それぞれが勝手に解釈して、勝手なことして、互いに裁きあうことになるんだよ。
18節。「記念式はやがて行なわれなくなります」。
「やがて」になりました。ちょっと前までは、今年が最後かもしれない、とか、来年はないかもしれない、みたいなこと言ってませんでしたっけ? 都合の良い言葉ですね・・「やがて」。
でもまぁ、組織の言うことに惑わされて、一喜一憂するのはバカらしいことだと、多くの信者は分かっているようです。仲間たちと楽しい毎日が過ごせれば、それに越したことないと。