聖なる書物を読んで

現役JW29年目

天で治める王について簡素な式から学べること

2019-03-29 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

今週、来週と、記念式関連の記事です。どちらも挿絵が表象物に関するものではないんですね。以前はもっと、パンと葡萄酒が強調された挿絵が用いられてたと思ったんですけど。記事(招待状も)の内容も「集まること」自体に主眼が置かれているようです。

記念式に関しては、自分的には、やってもやらなくてもどっちでもいいと思ってます。もしやるのなら、いつやってもかまわないと思うし、表象物はみんなが食べるべきだと思ってます。
やらないのなら、日々の食事の時に、イエスの犠牲を思う祈りを個人的にするだけでもいいし、食事の交わりで何人か集まった時にでも、同様の祈りをすればいいと思ってます(特にパンと葡萄酒がなくても)。

理由として一番大きいのは、イエスがどんな形であれご自分の死を記念する式典を制定したとは思えないことです。

イエスは、「今がそうです。真に礼拝する者が霊と真理において父を礼拝する時です。それに父は、このようにして父を礼拝する者を求めておいでなのです。霊なのです、神は。だから神を礼拝する者は霊と真理において礼拝すべきです」(田川訳 ヨハネ4:23,24)と言われた。そのイエスが、律法を終わりにしたのに、新たに記念式を制定するはずないと思うんです。どんなに簡素な式であっても。

逆に、「記念として行なえ」と2度も繰り返して書いてるのは、あのパウロ(コリント①11章)です。
そして福音書でこの言葉を書いてるのは、ルカだけ。でもこのルカの聖句も、22:19の「わたしの記念として~」から20までは、パウロの言葉(コリント①11章)を受けての、後の挿入だと言われている。
ヨハネは6章で記念式の内容にあたることを書いてる(この部分も後の挿入かもしれない)だけ。

ちなみに、マタイとマルコは「契約の血」、ルカとコリント①が「(血による)新しい契約」。「新しい」と書いてるのはルカとパウロ(ルカは後の挿入だろうけど)。こうなると、いわゆる「新しい」契約というものもアヤシクなってくる。後のキリスト教ドグマなんだろうな、と。(新たな真理の解明?w)

エホバの証人の記念式には、いつも違和感を感じていた。
なんで晴れ着なの? 記念写真なの? パンの焼き方や葡萄酒の質にまで拘るの? 目的が違ってない?・・・・まぁ、年に一度のお祭りだと思えば、こんなもんかな、なんて自分なりに納得してみたりしてた。
でもね・・・なんだかなぁでした。目の前を通り過ぎるだけのパンと葡萄酒も含めて。

さて。

やっとこ記事にツッコミます。

とにかく今回は、簡素、簡素、簡素としつこいです。簡素なんだから、どんな状況にあっても式を取り行なえ、という圧力(脅し)です。これのどこが愛なんでしょうね。

5節。「(イエスは)自分の死を記念するために手の込んだ式を行なうことを求めたりしませんでした。自分に過度の注意を引こうとしなかったのです」。
読んでて腹が立つ。イエスをなんだと思ってるんだろ。ま、偉い人はみんなこんな事するのが当たり前だと思ってる人が書いた文章だから、しょうがないか。自分たちはそうしてる、っていう自覚があるから出て来た文章だとすれば、まだ救いはあるかな。・・・と良い方に解釈しておこう。

9節。「彼ら(投獄されてる兄弟たち)を擁護するために意見を述べることができるかもしれません」。
なんだこれ。ロシアに手紙攻撃したことを正当化したいんかな。それとも、もっとやれってか? 意見を述べることができる、なんて今まで言ってたっけ? 
だいたいこれだけじゃ、具体的に誰が誰にどうしろってことなんだかさっぱり分からないよ。だからみんな勘違いして、それぞれが勝手に解釈して、勝手なことして、互いに裁きあうことになるんだよ。

18節。「記念式はやがて行なわれなくなります」。
「やがて」になりました。ちょっと前までは、今年が最後かもしれない、とか、来年はないかもしれない、みたいなこと言ってませんでしたっけ? 都合の良い言葉ですね・・「やがて」。
でもまぁ、組織の言うことに惑わされて、一喜一憂するのはバカらしいことだと、多くの信者は分かっているようです。仲間たちと楽しい毎日が過ごせれば、それに越したことないと。

コリント人への第一の手紙4~6章

2019-03-27 | 聖書
5:9からパウロが、この手紙の前にコリントへ手紙を書いていたことが分かる(現存していない。学者たちからは「前書簡」と呼ばれている)。

その内容は、5:10から分かるように、淫行の者や偶像を礼拝する者などと一切つきあうな、とか、7章以下から分かるような(結婚するな、肉食うな、女は黙ってろ、みたいな感じかな)ことで、それをパウロは、自分の言うことこそ神(イエス)の言葉なんだぞ、と上から目線で書き送ったのだろう。

パウロ以外からキリスト教を知ったコリントの信者は、はたして本当にイエスがそんなことを言ったのかと疑問に思い、7:1にあるように、質問の手紙をパウロに送ったということかな。

パウロはそれを自分への批判と受け取り、返事を書くにあたってまずは、コリント会衆で起きていると伝え聞いた良くない事(分派とか、淫行とか、訴訟とか)を取り上げ、真偽も確かめずに、けしからんことだと文句を言うところから始めるという・・・(お子ちゃまだね~w)。

で、コリント信者の質問に対する実際の返答は、7章から(5:9~11も)になる。

4章。

1節。「人(つまりコリント信者)は我々(つまりパウロ)を・・・神の秘義の管財人とみなすべきである」。
15節。「キリスト・イエスにあって、福音によって、私があなた方を生んだのだ」。
16節。「私を真似る者となりなさい」。
17節。「あなた方にキリスト・イエスにおける私の道を思い出させてくれるだろう。私があらゆるところで、あらゆる教会で、どのように教えているかを」。
以上田川訳。

これらの言葉だけでも、パウロがとても排他的で自分を絶対視する教祖様だということが分かる。このパウロの精神を取り入れ受け継いだ結果、宗教改革以降プロテスタント諸派が分裂を繰り返し、自分たちこそ神の代理者で真理を教えているんだと主張して、他を排除しあうようになっていった・・・・・エホバの証人もまた、その中の1つでしかないんだろうな。

5節。新世界訳「主が来られるまでは、何事も裁いてはなりません」。

この「裁く」は3,4節で「調べる」と訳されてる動詞(「批判する」の意)から接頭語を抜いたもの。「批判する」「判断する」の意味だが、裁判用語として「裁く」の意味に用いられる。パウロのよくやる語呂合わせ。
3節で、あなた方に批判されようがどうでもいい、と言っておきながら、そのすぐ後で、裁くな(つまり、オレのことを批判するとは何事か)、と言ってる訳で。

6節。新世界訳「『書かれている事柄を越えてはならない』という定め」。

旧約に書かれていることではなく、先の手紙でパウロが書いた内容を指す(「定め」は余分な付け足し)。書かれていることだけをしっかり受け取って、それ以上つべこべ言うな、と。

8節。新世界訳「王として支配しはじめた」。直訳は「王である」。

宗教思想において、到達しうる最高の状態を「あらゆるものの上に立つ」という意味で「王になる」と呼んでいる(グノーシス主義的発想。プラトン、ストア派などの「賢者」のこと)。さらに上の段階として「休む」もあるとか。
う~ん、王として支配すること、って実際なんなのか分からなくなってきた。14万4千人が天でキリストと共に地を支配する、っていう考えなどパウロは持っていなかったように思えるなぁ・・・。啓示の書でそれが明かされたとも言えるのだろうけど・・・この14万4千人の教理はどうもピンとこないなぁ。

5章。

1節。新世界訳「ある人が自分の父の妻を有している」。

単に「持つ」という動詞。「女を持つ」という表現は「結婚する」と同義(法的かどうかは関係なく)。自分の母親ではなく、父親の再婚相手(まだ若い)と、おそらく父親が亡くなった後に結婚したとも考えられる。(当時は若くして亡くなる人も多かったし、早婚だったし)
「諸国民の間にさえないほどの淫行」とあるのは、ローマ法では父の妻との結婚が禁止されていたからか。
まぁ、パウロは性道徳に関して極端に保守的で、伝統的な型にはまった男女の関係以外は認めたくない、いやそれさえどちらかといえば認めたくない人なわけで。
とすると、そんなに騒ぎ立てるほどヒドイ事態でもなかったんじゃないか・・・と思われる。(まぁ、自分を批判してきた相手のささいな欠点をあげつらってるだけなんじゃないかと)

3節。新世界訳「すでにきっぱりと裁きました」。

4:5で人には「裁くな」と言ってるのに、矛盾だよね。

11節。新世界訳「共に食事をすることさえしないように」。

「汚れた者」と一緒に食事をするとその汚れが自分たちにも伝染する、という古代人的(特にユダヤ教律法的)な発想がある。だから一緒に食事をするなと言ってるだけで、みんなでシカトしろと言ってるわけじゃない。つまり、もしこの言葉に従うとなると、逆にサタン的だ(いわゆる迷信に従ってる)ってことになるんじゃw。
パウロは以前、ペテロが異邦人クリスチャンと一緒に食事をすることから離れて行った時、厳しく批判しているのに、ここでは「淫行の者」等と一緒に食事をするな、と言う。これも矛盾だよね。
イエスは、罪人と非難されてる人たちと一緒に食事をすることについて、そういう考え(罪が伝染する)を憤りを込めて批判した。
パウロはそれと対照的に、自分の教会を自分的な形で保ちたかっただけ。

これは、組織の排斥の根拠となる聖句でもあるけど、こうした背景を考えると、果たしてパウロのこの言葉を額面通りに受け取って、神の言葉として当てはめるのはどうかなと思う。

12節。新世界訳「あなた方は内部の人々を裁き」。

田川訳は「あなた方は内部の者を裁いてないとでもいうのか」。ここは論理的に通じない文。文脈からすれば「我々は内部の者をきっちり裁くのがよい」とならなければ通じない。でもここもパウロの自己弁護と捉えれば、あなたは外部の人々まで裁いてしまおうというのか、という前書簡への批判に対して、誰もそんな事は言ってない、あなた方こそ内部の人(パウロ)を裁いてるじゃないか、と切り返したのだと考えられる。

6章。

1~7節。この部分も、事実そういうこと(訴訟問題)があったのか、それとも仮定の話なのか、分からない。

9節。新世界訳「不自然な目的のために囲われた男」。

直訳は「柔弱な者」。この形容詞は「柔らかい」の意。人間には褒めた意味ではなく、悪口に使われる。(ホモセクシャルの女役を指しているという解釈もある。次の「男どうしで寝る者」の対として)

15~17節。新世界訳「二人は一体となる」。

同じ旧約の言葉を引用した、パウロとイエスの違いが表れている部分。パウロは娼婦を汚れた存在(人間扱いしていない)とみなし、そういう汚れたものに触れるのはよくない、と言っているが、イエスはそういう仕方で娼婦を排除する(古代社会では特に、社会から排除された女がやむをえず娼婦になった)世論に対して、文句をつけた。
イエスは、排除された者の側の視点に立ってものを言い、パウロはその排除を前提としてものを考える。


以上、今回も田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡より、引用、参照させていただきました。

趣味(ネイサンくん)

2019-03-24 | 趣味
趣味のフィギュアースケート観戦です。

日本開催、さいたまスーパーアリーナでの世界選手権。

諸事情で現地観戦はかないませんでしたが、ライスト&地上波で、ほぼ全ての選手の演技を見ることができて、大満足の世界選手権でした。

地上波も、うんざりさせられるような過剰演出(こんなんに時間使うぐらいなら、もっとたくさんの選手の演技見せろやーーー!!!)もなく、解説もなかなかいい感じだったと思います。(←何様)

画面の左上に出る速報が、時々間違ってた(ジャンプの種類とか)ような気がするのですが・・・あれって誰が出してるんでしょうね? いままでそんなに間違ってたことなかったような・・・

さて。

女子。

1位。ザギトワちゃん。パーフェクト。見ごたえあります。映像として記憶に残る演技。これからもずっと観て行きたい選手。でも、ロシアはジュニアに驚異の選手がいっぱい控えてるので、おちおちしてられないですよ~

2位。トゥルシンバエワちゃん。やったね4サルコウ! まだまだ伸びそう。滑りもすごくしなやかに、ダイナミックになって、なにより楽しそうなのがいい。彼女ならロシアのジュニアたちに対抗できそう。

3位。メドベちゃん。雰囲気はブラックメドベちゃん。もうセーラームーンは似合わない感じw。3サルコウ3ループって珍しい。とにかく頑張って欲しい選手。来季が楽しみ。

4位。梨花ちゃん。3アクセルは3トーループとのコンボで1回決まった。3回全部決まってたら優勝でしょう。表現はイマイチグッとくるものが無いんだよなぁ・・・上手いんだけどなぁ・・・

5位。花織ちゃん。フリップ惜しかった。上手になったなぁ。ホントすっごく上手になった。ぜひまた見たいって思わせる演技。

6位。知子ちゃん。もう少しジャンプがダイナミックだったらなぁ。表現は素晴らしいのに・・・

今後が楽しみな選手は、ソフィア・サモドゥロワちゃん、イム・ウンスちゃん。


男子。

1位。ネイサンくん。圧巻でした。4回転の安定感たるや。3アクセルが安定してきたのが良かったのかな。まぁ、よほど崩れない限り、優勝だろうとは思ってましたけど、過去、崩れたことが度々あったので、どうかなぁと・・・・しかし、世界最高得点を出した結弦くんの直後の滑走、あのあふれかえるプーさんリンクという、あの状況をものともせず、余裕の演技でした。素晴らしい。世界最高を塗り替えての優勝。完全優勝。(←しつこい)

2位。結弦くん。4ループ着氷しました! メンタル強いです。ジャンプが映える。でもなんだか見てて痛々しい・・・

3位。ビンセントくん。回転不足がなくなればもっと良くなる! まだまだ伸び代いっぱいで楽しみ。

4位。昌磨くん。うん、頑張った。良い演技だったよ。やっぱり一番好きな滑りだ。ジャンプが決まらなかったのは、気持ちで負けてたからかな。たぶんどこか不調だったよね。心ここにあらず、な感じに見えた。連戦で、ケガもして、春になって、疲れが出たのかな。パーフェクトは来季に持ち越し、楽しみにしてるよ~~~。あ、来季はぜひクリムキンをよろしく!

どうすれば心を守れますか

2019-03-23 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

定期的に扱われる、サタンの考え方(世の娯楽)を避けなさい、の記事ですが・・・・・突っ込む気にもならないほど薄っぺらい内容です。ないようがないようw。

でも、研究記事にこういう風に書かれると、世が提供するものはすべて避けなければいけません、どんな映画もテレビもサタンの考えが入っているから見るなんてもってのほかです、みたいな雰囲気になるんだよね。

昔の自分も、この組織の考え方に影響されて、ほとんどのものを避けていたという・・・今思うとバカだったなぁと。

映画もドラマも、基本、勧善懲悪ですよね。小説も漫画もアニメもゲームも。

自分が体験することのできない、世界、人生、出来事(良い事も悪い事も)などを疑似体験して、様々な考え、感情、思いを知ることができる。特に子どもたちにとって、それって大事なことだよね。

普通に放送されてるもの、普通に見たり読んだりできるもので、クリスチャン的に避けなければならないものなんて、ほとんどないんじゃないかなと思う。(アメリカのものは知らないけど)

というか、あまりにヒドイものは見たくもないと思うので、それぞれが良心で判断すればいいと思う。


さて、突っ込みます。
 
6節。ソロモン王が、悪い交友(異国の妻たち)というサタンの罠に嵌って、エホバから離れたってあるけど・・・この組織のやり方(排斥)からしたら、箴言も伝道の書もソロモンの歌も聖書から取り除かないといけないよねw。

9節。人生の主な目的は財産を築くこと、というのがサタンが広めてる考えの1つだとあるけど・・・となると組織の上層部の方たちはみなさん、サタンにやられちゃってるってことですかねw。
お金持ちになる人もいればそうならない人もいますが、ってなんだろね、このイヤラシイ書き方。上層部の方たちはみなさん、お金持ちにこだわってらっしゃるようでw。(厭味ったらしくてすみません~)

15節。聖書に神の考え方が記されている、という点。今のところ、パウロの書いた手紙に関してはアヤシイと思いますw。でも、それが神の考え方ではないとしても、学べることはホントにいっぱいあると思ってます。

16節。ブロードキャスティングで神の考えを取り入れることはできません。組織の考えを取り入れたい方にはお勧めです。


ちゃんと読んでないので、手抜きの突っ込みですみません。

コリント人への第一の手紙1~3章

2019-03-21 | 聖書
新世界訳の独特な言葉。この1~3章の中にもたくさん出てくる。

「神聖な奥義」「この事物の体制」「過分のご親切」「苦しみの杭」「贖いによる釈放」「会衆」などなど。

エホバの証人だけが用いる、いわゆる隠語的な言葉(開拓奉仕とか時間を入れるとか)はたくさんあるけど、新世界訳聖書もそれにまみれてる。
独自の解釈による独自の言葉が多用された聖書。次の特別集会で今度こそ改訂版が出るだろうと期待されてるみたいだけど、ますますエホバの証人色が強くなった聖書なんだろうなと思うと、なんだかもう読む気も薄れてきた。

解釈本をたくさん出すのは勝手だと思うけど、聖書自体に解釈を持ち込んじゃダメだと思う。

まぁ、組織側としては、聖書読めば教理が分かるように改訂しちゃうのが一番近道なんでしょうけど。


では、コリント①1~3章いきます。

1章。

20,21節。田川訳「・・神が此の世の知恵を愚かにしたのではなかったのか。すなわち此の世は神の知恵の中で神を知恵によって認識できなかったので、神は宣教の愚かさによって信じる者を救うのがよいとされたのである」

ここ、新世界訳では何言ってるのかよく分からなかったけど、この訳だとよく分かる。
人間は、神の知恵の所産である創造物の中にいて、しかも認識できる知恵を持っていたのに、神を認識できなかった。だから神は、そういう理性(知恵)による認識をあきらめて、宣教の愚かさの方を選んだんだよ。
・・と解釈すればいいんだね。


2章

2節。新世界訳「・・しかも杭につけられたキリスト以外には何をも知るまいと決めたのです」。

つまり、生きていた時のイエスが何をして何を教えたかなんて知らない、というパウロの宣言。
パウロにとってのキリストは、贖いによる救済信仰の対象であることと、復活して自分に現われてくれたことのみ。生前のイエスを知る宣教者たちに聞くことを嫌った(ガラテア1:11,12)。
なのでコリントの信者たちから、パウロのキリストは本物なのかどうかという疑問が出て、結果コリント会衆に分裂を引き起こすことになったのに、この後のパウロの言葉ときたら・・・

このオレ様こそ神の霊を受けて神の知恵を語る者であり、あなた方と違って物事を正しく判断できる霊的な人、キリストの思いを持った者なのだ、と。(どこぞの統治体とそっくりw)

「わたしたち」という語にごまかされちゃうけど、この語をパウロとその側の人たちだけを指すと考えて読むとこうなる。つまり解釈が全然違ってくる。この書の書かれた目的を考えると、こっちの方が妥当。

6節。新世界訳「円熟した者たち」。田川訳「完全な者たち」。

当時、それぞれの思想の流れの中で最もすぐれた水準に達した人を「完全な者」(一つの概念として)と呼ぶ、一種の流行語。パウロはそれを、3:1で「霊的な人」と訳されてる語と同じ意味で、自己流に用いている。「円熟した者たち」は、訳ではなく解説。

他にもグノーシス的な概念として、「知恵(ソフィア)」6節、「秘義」1,7節、「認識する」8節(名詞がグノーシス)など。パウロも当時の流行語的なものに乗っかってた、ということでw。

3章

10,11節。田川訳「私に与えられた神の恵みによって、私は知恵ある建築家として土台を据えた。ほかの者がその上に建物を建てる。それぞれがどのように上に建物を建てるかは、自分で気をつけるべきである。すでに置かれてる土台以外に誰も土台を据えることはできない。その土台はイエス・キリストである」

新世界訳は「賢い作業監督」としてるけど、「知恵」の問題がここでも続いてることが分かるよう直訳すべき。

新世界訳だと、イエス・キリスト以外の土台は据えられない、という意味になるけど、他の訳だと、すでに据えられている土台以外に土台は据えられない、となる。
つまり、土台を据える(据えた)のはパウロだけだ、という排他的なパウロ教宣言。

新世界訳では続く13節に、土台の上に建てられる各人の業はその日に火によって証明される、ってあるけど、つまりパウロは、パウロのキリストが本物であるかどうかなんて批判してる場合じゃないぞ、各人の業の本当の証明は最後の審判の火でなされるんだぞ、って脅してるってことだよね。(どこぞの組織みたいだねw)

21節。人間を誇るな、神にあって誇れ、と言ってる割にパウロ自身は、かなり自分を誇ってるという・・(新世界訳だとその辺が読み取れないので、田川訳をお勧めします)


いつのもように田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡を参照させていただきました~

ワークブック(3/18~24)

2019-03-17 | エホバの証人
今週のワークブックに突っ込みます。

●「自分は物質の人か、それとも霊的な人か」

新世界訳で「物質の人(コリ①2:14)」と訳されている語は、直訳では「生命的な人」。他の訳では「生まれながらの人」「自然の人」「(自然的)生命の人」など。

パウロの人間論は大雑把にいうと、肉的な人、生命的な人、霊的な人、の3種類。
「肉的な人」はパウロにとっては否定的な、「肉」という原理によって支配された、良くないあり方をしている人間。その反対が「霊的な人」。
「生命的な人」は、どちらかというと中立的で、単に生まれてそのままの自然的生命を生きているだけの人。

この文脈でパウロが言ってることは、神の霊を受けた者は霊的な言葉による霊的な事柄を判断できるが、神の霊を受けていない者(=生命的な人)は霊的な判断ができない(霊的に判断さるべきものだと分からない)、ってことだよね。

組織は都合よく、「物質の人」を「霊的な人」の反対語として用いてるけど、パウロが思ってたのとは違う意図で用いちゃダメでしょ。

●霊的な宝石を見つける

コリ①2:3~5。3節の新世界訳「弱さと恐れのうちに、いたくおののきながら」。新共同訳「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」口語訳「弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」田川訳「衰弱していて、非常な恐れと不安があった」。

パウロは第二回宣教旅行でガラテアに行った時、病気だった(ガラ4:13)。その後マケドニア経由でコリントに来たが、まだ病後の衰弱を引きずっていた、と考えられる。性格的に弱かったわけではない。
でも、行く先々で迫害されて散々な目にあってたし、いわゆる愚かな言葉を携えて、哲学や芸術の栄える大きな都市に行くのだから、戦々恐々としていただろう。アテネで哲学的な話し方をして失敗したばかりだったしね。

でもね、4,5節でパウロは「霊と力の論証」とか「神の力」とか言って、自分の宣教が単に言葉だけではなく、いろいろな奇跡行為によって行われたんだ、って自慢してるんだよね~・・・

そんなこんなを考えると、「パウロの例からどんな助けを得られるか」って質問されても、ねぇ・・・


●上手に手紙を書くには

「パウロは仲間のクリスチャンを励ますために手紙を書いた」とあるけど、コリント人への手紙は違うよ~

パウロは第三回宣教旅行でエフェソスに滞在してた時に、コリントから来た人々の情報を通じて、自分がコリントの信者たちに批判されてることを知ったから、自己弁護のために書いた。

例えば、信者になったら結婚するな(①では譲歩)、異教徒とつきあうな(①では一応譲歩)、異教の神殿にささげられた犠牲の肉つまり肉屋に卸される肉を食うな(①では本当はかまわないはずだが、と言い訳しつつ結論としては、食べる者は悪霊と交わる者だ、と決めつけ断固反対する)など、あまりに偏狭で個人的嗜好(非常にユダヤ的でもある)を押しつけ、自分の言うことこそキリストの命令だと思え、とパウロが言うもんだから、パウロ以外のキリスト教を知るにいたった信者からすれば、本当にイエスがそんなことを言ったのかと疑問が湧いてきて、パウロを批判するようになったわけで。

②にある2つの中心問題は、そもそもパウロの伝えるキリストは本物なのか(パウロは生きていたイエスのことをほぼ知らず、知ろうともしないのだから、当然出てくる疑問)、ということと、エルサレム教会への献金として非常に多額の募金を集めることを強制しようとした、ということ。

この2つの問題はパウロの弱みであり、納得のいく説明もできないので、パウロは居直って、自分を絶対的に信奉しないのであれば神に逆らうことになるぞ、と脅すだけだから、両者の間で納得のいく結論は出なかっただろう。
その後、コリントの信者たちは、キリストの信者であり続けたとしても、パウロ信者であることはやめた可能性が高いと思われる。


以上、田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡より、引用、参照させていただきました。

集会でエホバを賛美する

2019-03-15 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

組織が前進wしたことにより、「注解」じゃなくて「コメント」になり。
「注解」という言葉も、最初に聞いた時は仰々しいなって感じたけど・・・「コメント」ねぇ・・・信者のみなさんはコメンテーターになるってことかぁ・・・なんだかなぁ。
こういう変化って、いわゆる世に迎合してることにならないのかしらねぇ。

自分としては、まず、この組織の集会でコメントすることが、本当に神への賛美になるかどうかが疑問です。
ならないでしょ。腐敗してますもんね、この組織。

それに、組織の出版物に基づいた、組織にとって都合のよいコメントしかできないんじゃ、だんだんコメントするのもメンドクサく(バカラシク)なっちゃいますよ。
しかもそれが、洗脳するために求められてるコメントだ、って気が付いちゃったらね。

危ない、危ない。
集会でのコメントは、組織崇拝(洗脳)への第一歩です。


さて、本文への突込みを少し。

5節。「アポロのように雄弁なコメント」「パウロのように説得力あるコメント」「2つの小さな硬貨を寄付したやもめ」
こんな風に、人に優劣つけてる文章を書いといて、「エホバは・・・わたしたちを温かい目で見てくださってる」って言われてもね。エホバを賛美したい気持ちになんて、ならないですよ。

20節。「ささやかでも心のこもったプレゼントを持っていくなら、喜んでくださいます」
組織の神エホバは、こういうことを喜ぶ神なんだね。これ、人間同士ならわかるけど・・・。
自分の思う神は、食事会に招いてくださる時は、「何にも持ってこなくていいよ、たっくさん食べ物はあるから、思う存分美味しいものを楽しんでいってね」っていう神なんですけどね・・・。

この記事、神の気持ちを分かった風に書いてるけど・・・なにげに、神をディスってるよね。

みなさんがコメントしてくれないと集会が成り立たないから、頑張ってコメントしよう!
でいいんじゃないかしらん。

3月ブロードキャスティング

2019-03-13 | エホバの証人
今月は、中立、がテーマでした。

ものみの塔から学ぶ、とかいう新しいコーナー?ができたようですが・・・いつまで続くのかなw。

さて、今月のを見た感想ですが・・・。

組織は、信者の心の中の思いや考え(ひいては感情)さえも規制しようとしているな、と思いました。

自分で色んな情報を仕入れて、自分で考えて判断する、というバランスのとれた信者を作りたくないんだろうな。
組織の言うことを、何の疑問もなく受け入れて実行してくれる、極端な信者を作りたいんだろうな。組織がプログラムしインプットした情報のみで動くロボットのような信者を。組織の中に閉じ込め、組織のためだけに生きるようにしておくために。

そんな風に感じて、ぞっとしました。

でもまぁ・・・信者のみなさんはきっと、ブロードキャスティングなんて真面目に見ちゃいないんでしょうね。

電話で時々話すY姉妹も、いつもほとんど見てないです。集会のプログラムで見るくらいで、見てても内容を覚えてない。そんなもんですw。だからこの組織に何の疑問も感じないでやっていけるんでしょう・・・。

もう、見てると気持ち悪くなるので、来月からは見るの止めようと思います。

ローマ人への手紙15~16章

2019-03-12 | 聖書
15章。

パウロ、上から目線で偉そうなこといっぱい書いちゃった(筆記したのはテルテオだけど)もんで、この章では、言い訳っぽいこと書いてますね。でもやっぱり偉そうw。

1節。新世界訳「強くない者」。直訳は「できない人たち」。単に「強くない」ではなく、「強くなることができない」という意味。

2節。「各々が善を行なって隣人を喜ばせる」のではなく、原文では「各々が隣人を喜ばせて、善へといたる」の意。なので、この「善」は各々が行なうことに限定されず、もっと大きな全体の善。

4,5節。新世界訳「忍耐と聖書からの慰め・・・忍耐と慰めを与えてくださる神」。田川訳「忍耐と、書かれてあることの呼びかけ・・・忍耐と呼びかけの神」。
「書かれてあること」は複数形。パウロは「聖書」という時、「書物」の単数形を用いる。なのでここでは、まるごと聖書を指すのではなく、書かれてある個々の言葉のことを指していると考えられる。「以前に書かれたこと」と対応する。
「呼びかけ」は字義通り。実質的には、忍耐せよ、自分の主張を通そうとするな、という訓戒を意味している。「慰め」と訳すのは無理。

7節。新世界訳「神の栄光となることを目ざしつつ、キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように、あなた方も互いを迎え入れなさい」。田川訳「キリストもまたあなた方を神の栄光へと受け入れて下さったように、あなた方も互いに受け入れよ」。
わたしたちが神の栄光となることを目ざすんじゃなくて、キリストがわたしたちを受け入れて神の栄光へと導いて下さるんです。訳で意味がこんなに違っちゃうという。

8,9節。文体的には、わたし(パウロ)が言うのは「キリストは割礼に仕える者となった」ことと「異邦人は神に栄光を帰するようになった」ことだ、となる(「神の真理の故に」と「神の憐みの故に」が対応する)。
でもドグマ的には、「キリストが割礼に仕える者となった」のは「父祖たちの約束を確かなものとするため」かつ「異邦人が神に栄光を帰するため」だ、の方が都合がいいのでそう解釈して訳す。新世界訳もこちら。

9節。詩18:49の引用。神を認識しない異邦人の中に居ても、私(ユダヤ人の信仰者)は神を告白し賛美する、という詩。ところがパウロは、詩篇作者とは正反対の、異邦人も神を告白している、の趣旨で引用した。(ものみの塔がやってることと同じだね・・・パウロよ、おまえもか・・)

14~16節。未知の相手に失礼なことを書き過ぎたかな、と気付いて言い訳してる。ローマにも立派な信者が大勢いらっしゃることを信用してないわけじゃありませんよ、と。さらに自己弁護的に、私は神によって特別な「恵み」を与えられているのだから上から命令する権限があるんだ、と。しかもそれは、あなたたちのためなんだ、と。(どこぞの統治体と同じだね・・・)

18節。ここでの表現のみそは「わたしを通して」。パウロは、イエス・キリストについてほかのことを語りたいのではなく、自分パウロに直接働きかけてくれたキリスト以外は何も語るつもりはないよ、と言っている。
かつて現実に生きていたあのイエスという男のことなぞ自分は相手にするつもりはない、自分が出会ったと信じている幻のキリスト、自分の頭の中に働きかけてくれていると信じ込んでいるキリストのことだけを福音として宣教するのだ、という居直り。
パウロのキリストは、パウロに奇跡的な力を付与してくれる存在であり、また霊の力によって語ることを与えてくれる存在であるという。
パウロが自分のなした奇跡行為を鼻にかけて誇っているのは明白。自分はキリストのことを語るのだ、と言いながら、自分が実現したさまざまな奇跡行為のことしか頭にない。

20節。キリストの名がすでに唱えられている所では宣教しない、とあるが、これは事実に反する嘘。エフェソスでもコリントでもパウロ以前にすでに宣教活動が行われていた。(さすがにここは解釈でごまかすことはできなかったかぁ・・・w)

22節。新世界訳「そのためにも(あなた方のもとへ行くことを何度も妨げられてきた)」。田川訳「だから」。
20,21節を受ける(すでに宣教されているから)か、19節を受ける(エルサレムからイルリコを回る宣教で忙しかったから)か、挿入句と見て23節につなげる(宣教されてない所で宣教したいからローマへ行きたい)か。
後者ならパウロには、ほかの人たちはキリスト教の指導者の名に価しない、自分がローマで初めて本物のキリスト教を伝えるのだ、という自負があったことになる。20節での嘘も、もしかしたらパウロにとっては嘘じゃなくて、エフェソスやコリントも自分こそがその地で最初に本物のキリスト教を伝えたんだ、と思ってたのかも。(もしそうなら、組織とそっくりだなぁ・・・)

24節。新世界訳「途中まであなた方に付き添ってもらってそこに行こうと希望してます」。田川訳「あなた方によって更にスペインへと送り出してほしい」。
見送りに来てほしい、という話ではなく、スペインへの大規模な伝道旅行の準備(費用含め)をよろしく、と言っている。(いやぁ~統治体みたいだぁ)

26節。本当はパウロが彼らに献金を依頼した(強引に頼み込んだ)のに、ここでは彼らがみずから進んで発案したかのように言っている。(このへんも、組織みたいだぁ~)


16章。

未知の相手、しかも帝国の首都ローマに宛てた手紙、パウロはやたらと張り切って、知ってる限りの名前を並べたと考えられる。

17~20節。パウロの自筆。自筆の書き添えになったとたんにひどく嫌らしい警告を記すのはパウロの癖。

21~23節。口述筆記したテルテオの書き加え。

ここまでで、本文は終わる。

24節は、20節後半と同じ祝福の言葉。(新世界訳は省略)

25~27節は、後世の写本に付け足されたドクソロギア(神の栄光を賛美する言葉)。


今回も、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡②を参照、引用させていただきました。

「心配してはいけない。私があなたの神である」

2019-03-08 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

今年の年句ですね。イザヤ41:10。
「心配してはいけない」の部分、以前の訳では「周りを見回すな」でした。他の訳では「驚いてはならない」「たじろぐな」など。

ちなみにイザヤ書は、1~39章、40~55章、56~66章の3つの部分に分類するのが旧約聖書学の一つの常識となってるそうです。学者たちはそれぞれの著者を、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼んで分類しているそうです。
なのでこの部分は、捕囚から帰還したエルサレムにて、第二イザヤが書いたものとされているそうです。

さて、ツッコミです。

1節に出てくる良子さん、エホバの証人としての信仰があれば、当然の反応だよね。死んで復活したら楽園なんだから。対処しにくい危機の時代に大変な思いをして生きるより、それこそ「楽園で会いましょう!」って感じになるんじゃないのかな。
真の命は楽園での命(つまり今の命は真の命じゃない)。死は無活動(死への恐れから自由になった)。などの教理を信じてるんだから。
だから、6節で娘さんが言ってる(死への恐れに対して)「穏やかな気持ちでいられるようエホバが助けてくれた」に、逆に違和感を感じるよ。

人間は生き続けるように創られたから、本能的に死ぬことを受け入れられない、ということなら分かる。だから、宣告を受けて動揺したり、時には恐れを抱いたりしても、それは信仰がないことではないんだよと。

あるいは、死に至る痛みや苦しみに耐えられるよう、エホバが助けてくれた、ということなら分かる。だから、激しい迫害にあっても、どれほど敵の攻撃が激化しても、心配いらないよと。

でも、死そのものを恐れてるエホバの証人がいるとしたら、それって信仰ないよね、ってことにならないのかなと。

・・・・まぁ、こういう信仰は、命に対する一般的な見方からは、かけ離れてると思います。エホバの証人はどうかしてると一般からは思われます。それが分かってるから、組織はこういう書き方をするんでしょうね。エホバの証人は、命に対して一般的な見方と同じなんだと。ホントは相容れない考え方なのに。

でもって、うま~く論点をすりかえてこんな記事を書く。

挿絵で恐怖をあおって、仮想敵を作って、あなたを助けてくれるのはエホバ(=組織)だけなんだ、と刷り込む。

相変わらずだなぁ、と思いました。