聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ヤコブ3:17

2019-10-08 | 聖書
すみません・・・昨日のフィリピの聖句の前に、今週のワークブックで扱われるヤコブ3:17の訳文比べをしたくなりました。

ワークブックにある「神の知恵を持つ人」という表現が気になっちゃって。新世界訳改訂版では「天からの知恵を持つ人は・・・」となっているのでこういう表現になってるんですね。

以前の新世界訳では「上からの知恵は・・・」と訳されてたところです。

調べてみると、口語訳も新改訳も田川訳も「上からの知恵は・・・」で、新共同訳は「上から出た知恵は・・・」となっている。

「知恵は~」と「知恵を持つ人は~」。これじゃ、主語が違っちゃってる。「を持つ人」は完全に付け足し。

分裂や争いをもたらす地的な知恵(自分の知恵を誇る利己心)とは異なり、天からの知恵とはこういうもの(清く平和を求め・・・差別をせず、偽善的でない)であるから、それを行動で示していくように、と諭し励ます文脈。

だいたい「神の知恵を持つ人」なんているわけないし、そんな人になれるわけないです。そうなるべく努力はできるだろうけど。もしそうなれるんだったら、イエスの贖いなんて必要ないでしょ・・・

関連して、3:15も「そのような知恵」じゃなく「そのような人の知恵」になってる。地的な知恵だと戒めるところ。

こんな風に、人を分け隔てる表現を用いながら、「平和を求め」「差別をせず」なんて諭されても説得力ありません。

改訂版を読む気がしないのは、こういう後味の悪い表現が多いからだと思います。

で、こんな訳を使ってるから、ものみの塔記事も後味の悪いものになる・・・昨日の「愛の豊かな人」っていう表現もそう。「良い人」「悪い人」「愛の豊かな人」「愛の無い人」エトセトラエトセトラ。

こういう表現って潜在意識の中ではぐくまれて、あの人はこういう人だ、って決めつけて人を裁くようになっていくんじゃないかと思うんですよね。

考え過ぎかな。

フィリピ3:14

2019-10-01 | 聖書
フィリピ3:14の聖句が、今週の研究記事の1節に引用されてます。

「ゴールを目指してひたすら走(り)」とあったので・・・ん? ゴールを目指して? ゴールなんて言葉あったっけ? と思い、訳の比較をしてみました。

新世界訳「神からキリスト・イエスを通して天に招かれるという賞を得られるよう、ゴールを目指してひたすら走っています」
口語訳 「目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」
新共同訳「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」
新改訳 「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」
田川訳 「目標へと向かっているのである。キリスト・イエスにおける神の上方への招きという賞を目指して」

どうやら「目標」という語を「ゴール」に置き換えたみたいですね。「賞」を「栄冠」と訳した新改訳も独特だなぁと思いますが(ちなみに「賞」と訳されてる語は競技における賞品を示す語)・・・新世界訳は独特過ぎちゃってます。どう考えても「目標」という語には「ゴール」という意味はないでしょう。完全に意訳です。(改訂版じゃない新世界訳は「ゴール」じゃなく「目標」でした)

あと余談ですが、新世界訳の「天に招かれる」という訳し方も、自分たちが主語になってて特権意識丸出しな感じでイヤですね。ここは神が主語でしょうに・・・

パウロはエラそうな表現もいっぱいあるけど、自分や人間ではなくて常に神中心の考え方の人。人間が自らの行動によって神からの賞を勝ち取るなんていう考え方はしない。神が与えてくださる賞は人間がどうこうできるようなそんな軽いもんじゃなく、ただ神のご意思ご親切による恵み。

だからといって人間の側が何もしなくていいというわけではないので、どういう思いや姿勢でいる必要があるか、あるいはどんな行動をとる必要があるかを、くどくどと書いてしまうわけで。そうなると自己矛盾が生じて。パウロもそのあたり、どうしようもなかったんだろうなぁ・・・

さて、この「ゴール」という語、今週の研究記事の中になんと・・・10回も出てきました!(あ、写真のキャプチャーにも1個あったw)
「ゴールを目指して」「ゴールを意識して」「ゴールに到達」などなど。(ゴール!ゴーール!ゴ~~~~~ル!!・・・ってサッカーかっw)

二つの世代の新解釈によって終わりが先延ばしになってしまったものだから、信者たちになんとか終わりを意識させようとサブリミナル効果でも狙ってるのかなw。

以前だったら書かれていたであろう「もうすぐゴール」とか「ゴールは間近」とかいう直接的な言葉はなく。(おそらく書き手も終わりが近いなんて書けないんでしょうね)
ゴールを意識させるんなら、すぐそこだとか目前だとかいう方が断然いいのに。

で、終わりが近いと思わせる部分としては、17節に「最後の直線コースを全力で駆ける走者のように」と、あくまで全力疾走の例えとして出て来ただけでした。

でも、この「ゴール」という言葉と、ただ単に例えとして出て来た部分だけを頼りに、自分たちが今いるのは最後の直線コースなんだ、よ~し全力でゴールするぞ~、と勘違いしちゃう信者が多いんだろうなぁ・・・組織もそう思わせるのが目的なんだろうな。


では、また。

コリント②4:16

2019-09-30 | 聖書
コリント②4:16「私たちは諦めません」が、今週末のものみの塔研究記事のテーマ。

新世界訳は「諦めません」だけど、口語訳や新共同訳は「落胆しません」となっており、田川訳は「さぼることをしない」。(面白いのは新改訳で「勇気を失いません」)。

田川氏の解説によると、元のギリシャ語は「怠惰でいる」を否定した表現だとか。(4:1にも同じ表現が出て来る)

ついでに聖句の後半の部分、新世界訳は「私たちの外面は衰えていくとしても」。

口語訳は「わたしたちの外なる人は滅びても」。新共同訳は「わたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても」。田川訳は「外なる人は朽ちても」。

このギリシャ語も「衰える」ではなくて「朽ちる」の意。つまり、死んだら朽ちると言ってるだけ。

文脈を見るとパウロが言いたかったのは、死にかねない患難をしのいで宣教して回ってるけど、たとえ死んだ(朽ちた)としても、神は永遠の栄光へと、日々新たにされていく我々を蘇らせてくださるんだから、さぼったりしないよ~、って感じかな。

続く5章も地上の天幕(肉体)と天の永遠の家の話だし。


さて、研究記事に戻って。

この聖句の「諦めません」という言葉(しかも改竄訳)だけを切り取って、命の賞を目指す競争のテーマに当てはめるって、どうなん?・・・こういう用い方、ホントいやらしいよねぇ。こういう風に用いたいから改竄したんかい、って突っ込みたくなる。

普通に、パウロが競争やら賞やらに言及してる聖句を持ってくれば済むことなのに。本文には、コリント①9章24~27とかフィリピ3:12~14とか参照されてるんだし。

ところで、パウロって何気に競技好きだよね。走ることだけじゃなくて、拳闘も好きそう。コリント①9:26,7あたり。田川訳では「空を打たないような拳闘をする。自分の身体に的確にパンチをくらわして、従わせる」って。

自分は、拳闘は好きじゃないから、読んでてあんまりいい気分にはならない表現。

まぁ、神の言葉とはいえ、人間が書いてるんだしね。どうかと思うような表現がいっぱいあったんだろうけど、うまいこと改竄したり意訳したりして、神の言葉に相応しく書き直されてきたんだろうなぁ・・・なんて思ったり。


では・・続きはまた。

「大いなるバビロン」から出る?

2019-09-18 | 聖書
お久し振りの更新になってしまいました。

実は、主人とTVゲームしています(操作はほとんど主人で、自分は横から口出すだけですがw)。ドラクエ5が終わり、今はFF8です。プレステ4で。

発売当時もやったんですけど、色々細かいことは忘れてますねぇ・・・なのでまた大いに楽しんでます。そういえば以前、巡回監督が「FFはどうのこうの・・・」と演壇からケチ付けてましたねぇ・・・もしかして兄弟もやってる?・・・なんて思ったものですw。



さて。

黙示録に出て来る、7つの頭を持つ緋色の野獣の上に座す大娼婦「大いなるバビロン」。

この組織では、それは「偽りの宗教の世界帝国」のことで、エホバの証人以外の宗教全てを含み、主要な部分はキリスト教世界だ、という解釈。

バベルの塔が偽りの宗教の発祥であること。また、地の王である政治組織(野獣で表わされている)と姦淫を犯す娼婦として、野獣の上に乗っていること。・・などが根拠。(他にもあったっけ?)

そして黙示録のなかでは、真の神を崇拝する者は、彼女の罪にあずかることを望まないなら(=滅ぼされたくないなら)「彼女から出なさい」と指示されている。

なので、エホバの証人のバプテスマを受けようとする人は、他の宗教組織を脱退している必要がある。そして、組織が言うところの偽りの宗教に関連する物品は処分することも求められたりする。(排他主義もはなはだしい・・・)

・・・神の存在を信じている人が、この考え方に支配されていると、この組織が偽りだと思った時に、とにかくこの組織から出なければいけない、と感じるかもしれない。(自分はそうだった)

でも、この解釈はあくまでもこの組織の解釈なので、それに捕らわれる必要はないと思う。

「大いなるバビロン」は大都市ローマのことで、緋色の野獣はローマにある7つの丘(それぞれに都市があった)を表わすという解釈もある(17:18には「大きな都市を表わしている」と明らかにされている)。

またエゼキエル書では、国ではなくサマリアとエルサレムという都市が娼婦として描かれている。とすると、これを読んだ当時の人は、この大娼婦は大都市ローマのことだ、と思っただろう。

黙示録の著者は、キリスト教を迫害し、弱者を搾取する大都市ローマの崩壊を願って書いた。それを現代もしくは未来に無理にあてはめようと、これまでも多くの解釈がなされてきた。その解釈の一つがこの組織の解釈だ、というだけのことで。

そう考えると、「大いなるバビロンから出なさい」という指示も、偽りの宗教から出ることではないと思えるので、自分と組織との関係に当てはめる必要は感じなくなる。

というわけで、この組織に留まる理由はないけど、わざわざ断絶する理由もないので、当分はこのまま現役続行でいこうと思ってます。

でも、組織の解釈や指示には疑問だらけなので、突っ込むことも多々あるとは思いますw。

テモテ②3:16

2019-08-22 | 聖書
テモテ②3:16より
 
新世界訳改訂版 「聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれたもの」
新世界訳旧版 「聖書全体は神の霊感を受けたもの」
田川訳 「書物はすべて神的に霊的なもの」

後世キリスト教の「聖書霊感説」の根拠となった聖句の一つ。どの聖句もすべて神の霊によって書かれたのだという。この組織もそう主張している。他の訳も似たり寄ったり。

でも、原文から受ける印象はだいぶ違うようです。

以下、田川建三氏「新約聖書 訳と註」疑似パウロ書簡より引用します。
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・・・原文には「霊感」などという語はどこにも見出されない。「神的に霊的な」と訳したのは合成語(theopneustos)で、「神」(theos)と「霊」(puneuma)をくっつけて一語の形容詞にしただけのもの。確かにこの「霊」は「神の霊」を考えているのであろうが、「霊的な書物」というのと(内容が「霊的」であるということ)、「霊感を受けて書かれた書物」というのとでは、だいぶ話が違う。
__________

以上。

「書物」とは、旧約聖書のこと(組織は新約にも当てはめてるけど)だから、この聖句は単に、旧約聖書は神の霊的なことが扱われた内容なんだよ、って言ってるだけなのね。

・・・つまり聖書は、人間が書いた神に関する本、ってこと。組織が主張しているように、社長(神)が秘書(人間)に自分の考えを書かせた本だ、という裏付けにこの聖句は使えないってこと。


たとえ人間が書いた本であっても、自分は、聖書が悪い本だとは思わないです。むしろ、読む価値のある良い本だと思ってます。もしかしたら神が書き手の思考を導いたのかも知れない、とさえ思ったりもします(神が降りて来た!・・なんて良く言うじゃないですかw)。

でも、バランスって大事ですね・・・

宗教とか信仰心とかが絡んでくると、過激になりやすい。見方も偏ってきて都合良く曲解したりもする。この組織のように、教理に合わせた改竄聖書まで作っちゃったりしてね。

なんか上手く文章にできないけど・・・人間って面白いなぁ。(←どういう思考回路でこういう結論になった?w)

フィレモン

2019-08-15 | 聖書
久し振りの更新です。暑さにうだってます・・

さて、フィレモン書。フィリピ書と同時期、パウロによってローマ拘留中に書かれたもの。

オネシモはフィレモンの家からの逃亡奴隷で、ローマのパウロのもとでクリスチャンになった。パウロは引き続きオネシモを自分のもとに置いておきたかったけど、フィレモンの同意なしにそうしたくなかったので、フィレモンに手紙を書いて、オネシモに持たせてフィレモンのもとに送り返した。・・・と解説されている。

でも本文には、オネシモが逃亡奴隷だったとは一言も書いてない。

単にフィレモンが何かの用事でオネシモを、ローマで拘留されているパウロに遣わしただけで、それをパウロが、奴隷が一人いたら助かるからフィレモンに断りなく自分に仕えさせていたんだけど、オネシモを送り返してくれと言われたんで、しょうがないからフィレモンに手紙を書いた、とも読める。

どう解釈するかで、パウロという人の人物像がまったく変わってくる。


以下、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡②より。
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・・・まったく違う目で読み直してみよう。オネーシモスがフィレモンさんのところからパウロのもとにやって来た。奴隷である。しかもフィレモンとパウロは知人、ある程度親しい知人である。それならこれは、フィレモンさんが何かの用事を託してパウロのもとに遣わしたのか、あるいはむしろ、ローマに用事があってオネーシモスを派遣し、ついでにパウロさんに挨拶してこい、と言ったのか。それでオネーシモスがパウロのもとに来た。
しかしパウロにとっては、彼はまことに有用な召使であった。それで、パウロはいい気になって、オネーシモスを自分の召使として使い続けた。もちろんこれは、当時の奴隷社会の基本からして、主人の許可なしであれば、やってはいけないことである。
フィレモンさんの方は、オネーシモスがちっとも帰ってこないものだから(ないしオネーシモスがパウロのところで召使をやっているという噂が伝わってきたので)、そういうことを続けないで、早く送り返してくれ、と手紙を出した。
パウロはこの手紙にむかついたのだが、主人に言われたのなら仕方がないから、送り返すことにした。しかし本当のところ、せっかくの便利な召使である。一応送り返すがまた私のところへもどしてくれ、と頼みたいのだが、さすがにそれでは図々しすぎるから、そこまで露骨に言うことはできない。だから彼はいろいろとなぞをかける。見えすいたなぞであるけれども。
「あなたは私が言っている以上のことをしてくれるだろう」、本当はあなたの許可なしに自分のやりたいようにしたかったのだが、しかしあなたのほうから「自発的に」申し出てくれるのを待つことにした、「私はあなたに命じることができるのだが、敢えて命じることはすまい」、「私の感情を安んじさせてほしい」。
更に、お前は俺につべこべ言える立場じゃないだろ、と脅しをかける。等々ほかにもいろいろ。

(以上、読みやすく改行させていただきました)
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従来のキリスト教神学者による解釈は、この組織の解釈よりももっとパウロ様様なかんじで、オネシモは主人の金を盗んだという冤罪まできせられちゃっている。で、主人のもとに帰りたがらないのをパウロが説得した、とか。この手紙でオネシモを奴隷から解放するようにフィレモンに頼んでる、とか。

たぶんこの書が正典に入れられた時点でもう、こういう解釈が出来上がっていたんだろうなぁ。

結局、どんな話でも、解釈の仕方によっては、愛と信仰の話にでっち上げることができちゃうってことなのかなw。・・・なんだかな。

なんだかいつも、なんだかな、で終わってるような気がする、今日この頃・・・・・・・でした。

テモテ①

2019-07-24 | 聖書
テモテ①②、テトスの三つは牧会書簡と呼ばれている。

同じ著者によって2世紀後半に書かれた。(もちろんパウロではない)

目的は、指導者の秩序(身分)を確立し、異端を排除すること。(教会組織の強化なんだろうな・・・)

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1:13「かつては冒瀆する者、迫害する者、思い上がった者であった私を。だが、私は憐れんでいただいた。そういうことは、知らずして不信仰のうちになしたのであるから」

後のパウロ教信者たちが、パウロのことをこんな風に擁護してたんだとわかる部分。パウロ自身は、迫害者だったことを熱心さの証拠だって威張ってるのに。


2:8,9「ところで私は望む、男たちはどんな場所でも怒ったり議論したりしないで、浄い手を上げて祈るように、と。同様に女たちも、きちんとしたたたずまいで、恥じらいと節度をもって自分を飾るように」

「同様に」という語、改訂版では省略されてます。確かに普通の感覚だと、ここは「同様に」じゃ意味が通じないです。でも、この著者にとっては、男が手を上げて祈ることと女がおとなしく静かに学ぶことが同様なこと、なんですよ。なのに、それじゃオカシイからと、勝手に言葉を省略しちゃダメでしょ。(他の訳も似たようなことしてるらしいけど)


2:12~14「女が教えることを私は許さない。また男を支配することも許さない。そうではなく、静かにしているべきである。何故なら、アダムが最初に形造られたのであって、それからエヴァが形造られたのである。また、アダムが騙されたのではなく、女が騙されて違反に陥ったのである」

男尊女卑の理由づけに創世記3章の話を用いてるんだけど、この適用の仕方はパウロよりヒドイ。まるでアダムには責任が無く、女が悪い、みたいな書き方。創世記ではちゃんと、アダムにも責任がある話になってるのに。・・・まぁこの筆者も、聖書を自分に都合よく用いていた、ってことなんだよね。


2:15「女は・・・子を生むことによって救われる」

キリスト教思想とは関係ない、女は子どもを生む道具だという男社会の意識が表れているだけのこと。でもこの文書が正典となり、その結果は・・・子どもを生まない女の、生まなくてはならない女の、苦しみ、悲しみエトセトラエトセトラ。この組織でも、この聖句を今の時代に合わせてごちゃごちゃともっともらしく解釈してるけど、てんで説得力ないよね。(ここも省略しちゃえばスッキリしていいのにw)

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以上、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」疑似パウロ書簡を参照させていただきました。聖句も田川訳です。


自分はこの組織、支配層は男性で占められてますけど、支配における基本的な考え方はパウロではなくイエスに倣っているので、良いと思ってます。頭の権、ですよね。

でも最近は、どんな指示でも従うようにと圧力がかかってるように感じるので、本来の頭の権が正しく行使される環境ではなくなってきているように思います。

それに、性虐待のようなデリケートな問題などは、男性長老だけじゃ扱いきれない部分もあると思うので、女性長老も必要なのかなぁと思うこともあります。

一つ言えるのは、人は人を支配できない、ということですね。言い換えれば、この地上に神の組織なんてないってことですね。

テサロニケ②

2019-07-22 | 聖書
疑似パウロ書簡。

パウロの文章っぽくするためにテサロニケ①を利用して書かれた。(1章,2:13~15,3:1~5)

①でパウロが書いたこと、終わりは間近で我々が生きている内に来る、というのは間違いだよ、だから宗教活動にうつつをぬかしていないで真っ当に働けよ、と言いたくて書かれた。(2:1~12,3:6~13)

①の方が偽物だ(2:2)とまで書いている。

他の疑似パウロ書簡(コロ、エフェ、テモ①②、テト)が、パウロの大好きな身分的主従関係を継承しているのに対して、この著者はそれらとは異なり、「働こうとしない者は食うべからず」(3:10)という有名な言葉にあるような日々の生活倫理を書いている。

以上、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」疑似パウロ書簡、を参照させていただきました。


パウロは自分が生きている内に終わりが来ると思っていたし、そう信者たちにも語っていただろうから、パウロが亡くなってもしばらくは、終わりが近いと浮足立つ者が多かったんだろうな。

そういう信者はきっと、まともに働きもせず宗教活動に没頭していたんだろうな。この組織が推奨しているような生き方、をね・・・。

この書は、そういった生き方に対する警告だったんだね。


・・・聖書って深いなぁ・・・w。

フィリピ (2)

2019-07-06 | 聖書
新世界訳改訂版 フィリピ4:11後半~13。
「私はどんな状況にいても満足する、ということを学びました。貧しい生活も、豊かな生活も知っています。満たされているときも飢えているときも、物がたくさんあるときも少ししかないときも、常にあらゆる状況でやっていく秘訣を学びました。力を与えてくださる方のおかげで、私は強くなり、どんなことも乗り越えられます」

ここだけを取り出すと、ホントに良い聖句ですよね。これを用いて話を作るとしたらどんな話になるか、あるいは、どんな状況の場合にこの聖句を適用できるか・・・といった具合に、組織は聖書を用いる際、こんな風に聖句を切り取って、都合良く話を作ったり、状況に適用させて教えたりする、という方法をとっています。個人で黙想する時も同様だと思います。

でも、実際のところパウロがどんな話の中でこの聖句を書いたのかを考える(つまり文脈を把握し言葉のチョイスを考える)と、その聖句の用い方や適用の仕方がいかに間違っているかがよくわかるんですよ。

4:10~18でパウロは、フィリピの信者たちがローマで拘禁生活を送っている自分を心配して、援助資金を送ってくれたことについて書いているのだ、ということを念頭に置いて読むと・・・見える景色が全く違ってくるんですよね。

自分で説明できればいいのだけれど、上手く書けないので、またまた田川氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡②から引用させて頂きます~

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(13節)・・略・・それにしてもパウロという人物のひねくれ方はたいしたものである。拘禁生活で困っているのだろうと察して、フィリポイの信者たちがわざわざ使者に託しておそらくかなり多額の援助資金を送ってくれた。それなら、素直に感謝して、どうも有難う、おかげさまで助かります、と言えばいいのに、俺は欠乏することにも処していける免許皆伝なんだから、金がなくても困らないよ、と宣言するのだから、お礼の言い方も知らないひねくれ方である。もう少し謙虚になれよ。

(14節)・・略・・私にとっては金なぞなくてもどうということはないが、それはむしろ、あなた方が私の困難にあずかるという結構なことをおやりになったのだから、あなた方にとってよかったではありませんか、というのである。

(15節)・・略・・しかし事実としては「贈与授与」の相互関係ではないので、一方的にパウロが援助資金をもらっただけの話である。こんなややこしいもってまわった言い方をしないで、もう少し素直に、あの時もまた援助して下さって有難う、と言えばいいのに。

(17節)・・略・・あなた方は最後の審判に際して、偉大な使徒パウロの困窮を助けたという「成果」があなた方の貸し方の欄に算入してもらえるよ、という言い方。私が金を欲しかったわけではない。ただ、あなた方が金を送ってくれたのは、あなた方自身にとって、パウロ様のお役に立ったというので、最後の審判の時に役に立つだろ、というのである。これだけ世話になったくせに、逆に恩を着せようというのだから、人間、そこまでつけあがっちゃいけないよ。フィリポイ人たちは、多分、そんな見返りなど求めずに、単に困っている人を助けようという純粋な気持から資金援助しただけなのだろうに。

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以上、同じ聖句を読んでいても、こんなにも違うという。

新世界訳は、なるべく説教として教え易いように、信仰を鼓舞するように、パウロが聖霊(聖なる力!)を受けて神の言葉を語っているように、と意識して(意)訳しているのでしょうけど、それでも読めばこうしたことをうすうす感じることができます。(田川訳だとパウロのこうした高飛車な感じが分かり易いです)

結局、パウロの言葉も教理に都合良く解釈され訳されてきたということで。

これが人間の仕業だとしたら、どこまでが神の意図されたことなのか・・・なんだか訳が分からなくなってきます。

こんな面倒臭いことは何にも考えず、組織に言われるままに信仰をはぐくんでいければ、ある意味幸せなんだろうなぁ、なんて思っちゃいますね。・・・でも、そうはなりたくないな。

フィリピ (1)

2019-07-05 | 聖書
フィリピは、パウロのローマ拘留中に書かれたもので、フィレモンと共に最後のパウロ書簡です。

以下、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡②より、フィリピ1:23「その方がはるかにずっと望ましい」に関する註を引用させて頂きます。

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さすがのパウロもついに、自分が生きているうちに終末が来て、自分たちは生きながらにして永遠の存在に変えられるのだ、という願望を放棄せざるをえなくなった。

直接的な理由は、現在かかえている裁判の結果、死刑判決が出る可能性も考慮せざるをえなくなった、もっと基本的には、そもそも、自分が期待していたようなカッコいい週末の決定的な救済などが自分の生きているうちに実現するわけもない、ということを、この時期になると、嫌でも自覚せざるをえなくなった、ということだろう。

このほんの数年前まではパウロはまだ、自分たち信者の大多数がまだ生きているうちに終末になって、自分たちは死を味わわないままに永遠の生命へと救済されるのだ、と信じ切っていたのだ(ないし、自分はそう信じたい、とむきになっていた)。・・(中略)・・パウロの救済信仰の全体がその枠内で考えられているものである。

彼は自分もそう信じ(たようなつもりになり)、人々にも強くそのように説教して来た。それをこの段階になって修正しなければならなくなったのだから、パウロとしては痛苦な反省を伴わなければならないはずだが、御本人はまるで反省している様子はない。自分は一貫して同じ真理を言いつづけているつもりなのだ。

ここにも、いずれ我々が生きているうちにも終末が来るぞ、と宣伝し続けた教祖的新興宗教宣伝家が、結局終末なぞ来るわけがない、という現実の前でうまく変身していく実例の一つがある。というよりも、パウロがその元祖であったと言ってよいだろう。以後、二十世紀にいたるまで、キリスト教的新興宗教の教祖がすべてたどった道である。


(以上、読みやすく改行させていただきました~)
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統治体が言ってることやってることって、元祖パウロがたどった道なんだなぁと改めて思う。

そういう意味では統治体も聖書的だよねw。

でもそれって、霊的ではなくて、とっても人間的だなぁとも思う。

こうしたことすべてひっくるめて、聖書を書かせたのが神であるなら・・・

神は人間に何を伝えたかったのかなぁ・・・

人間が考えるどんな神にも、人間がつくるどんな組織にも、惑わされるな、ってことかしらん??