今日のテーマは亡命者。
前回の2話はキューバイベントで知った興味深く、
面白い現在のキューバの雰囲気を書きました。
そのイベントの映像の1枚を見て、写真家が一言。
『この1980年代のキューバは比較的に生活が安定していて、豊かだったんです。
写っている人々の洋服なんかを見ても色彩が綺麗ですよね~』とサクッと仰ったんです。
そこで1980年代の豊かだった話は終わってしまった。
でも、何故そこの時代だけ豊かだったのか!知りたいと思い、
調べてみたら亡命者の歴史に突き当たった訳です。
年代を追って書きます。がんばって読んでね♪
1959年;キューバ革命
反バチスタ派(フィデル・カストロ&チェ・ゲバラの革命派)が勝利。
↓
バチスタ政府で国民の弾圧に携わった数百名がマイアミに亡命
1962年;キューバ危機
アメリカ大統領ジョン・F・ケネディがキューバとの輸出入を全面禁止。
キューバは経済封鎖をされる。
1966年;アメリカ政府が「キューバ地位特別法」を制定。
キューバ内での社会革命が進行する中、アメリカ政府の「カストロ政権打倒」が目的とし、
社会不安を起こす手段として大量出国を煽ったものだった。
この内容がまるで宇宙戦艦ヤマトの波動砲の威力で、キューバ国民を揺るがすもので、
不法入国キューバ人を「政治亡命者」として扱い、
身体の一部がアメリカ領土に触れれば滞在を許可し、
更に一年後、永住ビザを取得出来る。
と云う内容で、他のラテンアメリカの人々にはない優遇措置だった。
1980年;マリエル大量出国事件
1980年4月~9月の半年間、キューバのマリエル港を開放。
カストロとアメリカとの間でキューバ人亡命者を合法的に受け入れる事になった。
去りたい者は何人たりとも大手を振ってキューバを出て行ってよい。と云うもの。
そして、12万4776人のキューバ人がマリエル港から
アメリカ;マイアミに去って行った。NANPITOMO、なんぴとも、ね。。。
カストロ氏はこの時に凄い事をやったのだ。
それは、およそ2万人の極悪人の犯罪者と精神障害者を船に乗せ、
マイアミへ亡命者として全員送った。
それがアメリカのマイアミが、全米1位の最悪の街として歩む事になった所以です。
キューバのマリエル港とアメリカのマイアミ、こんなに近いんですね。
これ1983年の映画「スカーフェイス」の主役のアルパチーノです。
まさにこのキューバの亡命者が暗黒街の頂点に成り上がり、非業の死を遂げる。
この時代を象徴した映画です。
これは映画ですが、現実は映画さながらの犯罪と麻薬が横行する街になり、
後々アメリカは大変苦しめられるきっかけになったマリエル大量出国事件です。
カストロさんの法の文言の裏をかく戦略だと思わざる得ない結果です。
アメリカ政府とカストロ氏とのこの駆け引きの史実。。。
私見的には「目には大目玉、歯には牙を」みたいだと思いました。
もちろん目と歯はアメリカですよ~
そして、アメリカがぐちゃぐちゃしてる間に、革命当初から50年以上
平等路線を貫き通している。
その中でキューバ人民にとって収入・教育・医療の水準を上げていった年代が
物凄い数の亡命の嵐が落ち着いた1980年代で、
人々の心も安定していた時期だったと推測されます。
平等路線として
1)一定額までの生活費が国によって補助。
2)身分・地位・職業による差別がない。
3)人種差別がない。
4)学校・教育・医療がただ。
引退した今もフィデル・カストロは国民に人気があるようです。
39歳でこの世を去ったチェ・ゲバラの人気とは、また別の信頼に
基づいた人気なのではと思いますね。
この1980年
日本;山口百恵ちゃん引退
アメリカ;ジョンレノン暗殺
モスクワオリンピック開催;日本はボイコット
こんな時代だったんですねぇ・・・
日本から遠く離れた閉ざされた国・キューバでは
こんなにも亡命者の歴史があったんですね。
今日は長かったぁ~~~(@_@;)
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