さて、ここまで先日行って来た新潟の写真をだらだらと載せてきましたが、新潟(市)の古き良き建築物は高度成長期の都市計画道路や開発により、ほとんど壊されてしまいました。またかつての水の都・あるいは柳都としての面影もあまり残されていませんが、かといってまるっきり古いものが無いのかといえば、そうでもなく、所々で戦前の建物を見ることができます。ただ面白いのは、どれもそれほど価値があるような歴史的建築ではなく、生活の必要上しょうがなく残っている様子です。新潟の歴史は水害や地震に数多く見舞われ、何度も町作りを繰り返してきたのですが、古いものがそう多くないのは、そのような事も原因なのだと思います。
明治11年。おそらく、白人女性として初めて単独日本の東半分を旅行した(通訳は日本人)イギリス人女性イザベラ・バードが残した「日本奥地紀行」(東洋文庫)によると、当時の新潟市の人口は5万人を数え、また(資料は別ですが)新潟県の人口は144万人と東京の109万人を凌ぎ、2位の兵庫県の131万人を越え、全国一人口の多い県でした。「イザベラ・バードの日本奥地紀行を読む」(平凡社ライブラリー)でイザベラ・バードの紀行文を紹介・解説した宮本常一は、同書第15編の津川から阿賀野川を舟でくだり、新潟まで入った情景を取り上げ、通常は、川岸に蔵が並ぶものだが新潟にはこれがなく、非常にうらぶれた様子という記述の解説として、信濃川という日本最長、最大の河川の出口であり、川の氾濫が激しく、川沿いはそれほど発展できなかった旨の話をしています。阿賀野川は「廃墟のないライン川」と美しい景色を絶賛していた彼女もどうも新潟市に入った印象派良くないようでした。イザベラ・バードは横浜から東京を出て、日光から会津まで歩き、そして阿賀野川を舟で下り、新潟に出て、今度は山形の上山から新庄、横手、秋田、黒石、青森、そして北海道まで旅をしています。季節はちょうど夏にあたり、どこに行っても蚊に苦しめられた旅のようでした。新潟について宮本が紹介しているのは、この良くない印象の15編で、次の16編は飛ばされていますが、その16編で、彼女は新潟の印象について次のように述べています。新潟はナポリよりも緯度が低いにも関わらず、冬は雪で閉じ込められ、また大変寒いのですが、夏は暑く、焼けた砂地の上を歩くので、公園と街路しか歩けなかった。しかし新潟は日本に来て最も美しく、綺麗な都市であったと書いています。当時の新潟の町は、運河が張り巡らされ常に舟が行き交い、非常な賑わいで街路も整備され、ゴミがどこにも落ちておらず、官庁や医学校など大変立派なものでした。これは当時の県令、楠木正隆による計画的な都市作りが行われた頃なのですが、そもそも新潟は長岡藩の一都市で、信濃川の土砂が堆積してできた土地であっただけの所でしたが、江戸に入り徐々に人と物が集まりはじめ、水運を駆使し巨大な都市へと発展して行きます。新潟市は広大な越後平野の米の集積所になりました。
坂口安吾の故郷は新潟市ですが、本籍は旧・新津市で今まで知らなかったのですが、私の母の実家と2Kmと離れていないところでした。安吾の父親が明治18年新潟市に住むようになりましたが、本籍はそのまま新津になっています。坂口家は大変な大金満家で広大な田畑の他に銀山や銅山も所有していたそうですが、父の代に使い果たし、安吾の少年時代は大変貧乏であったといいます。また安吾の母親も五泉市の大地主の出身であったそうです。新潟地方には沢海の伊藤邸に代表される、桁違いの豪農・豪商が存在していましたが、故郷を否定した安吾にも当然その気質は受け継がれていました。少年の頃、安吾は家が恐ろしくてしかたなかったと述べていますが、理由については下記のように書いています。これは安吾の新津の実家や五泉の母親の実家のみならず、新潟地方特有の家の特徴を良く言い表していると思います。
「雪国の旧家というものが特別陰鬱な建築で、どの部屋も薄暗く、部屋と部屋の区劃が不明確で、迷園の如く陰気でだだっ広く、冷めたさと空虚と未来への絶望と呪岨の如きものが漂っているように感じられる。住む人間は代々の家の虫で、その家で冠婚葬祭を完了し、死んでなお霊気と化してその家に在るかのように形式づけられて、その家づきの虫の形に次第に育って行くのであった。」
ところで安吾が暮らした新潟市の西大畑というところは、繁華街の古町のすぐ上手にありました。学校をさぼって、裏の砂山で昼寝をしていたそうです。安吾の碑がある護国神社付近も昼寝の場所だったようです。冬の雪国の気候は安吾の言うように陰鬱かもしれませんが、新潟の街に住む人々は陰鬱ではありません。どちらかというと明るい性格の人が多いのです。これは新潟が昔から地方から人々を受け入れてきた歴史と信濃川、阿賀野川という流域の長い河川の海への出口という地理的条件と関係しているのかもしれません。新潟は美しく、綺麗な町ですがそれだけではありません。今回、少し歩いて見ましたが、また調査に行く必要があると思いました。