社会人になってまもなくの頃、作家の見川鯛山さんの本の出版を楽しみにしていた時期がありました。
軍医を経て当時無医村であった那須湯本温泉で、温泉診療所を開業されながら、獅子文六に私淑し、ユーモア小説を書き続けていました。
単行本「田舎医者」が毎日新聞社より発行されたのが、58歳頃でしたので、かなり遅いデビューでしたが、その後も「本日も休診」「また本日も休診」など寡作ではあるものの、作者の人柄が偲ばれる、心温まる小説を発表し続けていました。
その後かなりの年月作者の事は忘れていましたが、この信州の山奥にある温泉診療所跡を見るにつけ見川鯛山さんの事を思い出します。
見川さんは2005年に88歳でお亡くなりになっていました。
※写真と見川鯛山さんの診療所とは関係はありません
人の記憶も自分の記憶も曖昧糢糊で、「本日も休診」の奥付を見たところ1974年12月10日印刷12月25日発行となっていました。社会人になるかなり前(中学から高校の頃)から読んでいた模様。何故そう思っていたのかというと、その頃通った某バーでこの本の話をよくしていたような。
写真の温泉診療所のある温泉地もその頃はまだ賑やかでかつては遊技場もありました。
現在も当時からある共同浴場が温めの湯でありながら、よく温まる良質のお湯を提供しています。
見川さんの作品はこの他に「医者ともあろうものが」(正・続)「田舎医者」など。
軍医を経て当時無医村であった那須湯本温泉で、温泉診療所を開業されながら、獅子文六に私淑し、ユーモア小説を書き続けていました。
単行本「田舎医者」が毎日新聞社より発行されたのが、58歳頃でしたので、かなり遅いデビューでしたが、その後も「本日も休診」「また本日も休診」など寡作ではあるものの、作者の人柄が偲ばれる、心温まる小説を発表し続けていました。
その後かなりの年月作者の事は忘れていましたが、この信州の山奥にある温泉診療所跡を見るにつけ見川鯛山さんの事を思い出します。
見川さんは2005年に88歳でお亡くなりになっていました。
※写真と見川鯛山さんの診療所とは関係はありません
人の記憶も自分の記憶も曖昧糢糊で、「本日も休診」の奥付を見たところ1974年12月10日印刷12月25日発行となっていました。社会人になるかなり前(中学から高校の頃)から読んでいた模様。何故そう思っていたのかというと、その頃通った某バーでこの本の話をよくしていたような。
写真の温泉診療所のある温泉地もその頃はまだ賑やかでかつては遊技場もありました。
現在も当時からある共同浴場が温めの湯でありながら、よく温まる良質のお湯を提供しています。
見川さんの作品はこの他に「医者ともあろうものが」(正・続)「田舎医者」など。
坂口安吾が屁理屈だと決め付けた有名な言葉、「美しい花がある。花の美しさというもはない」(当麻)とは感動が最初にありきというごく当たり前の事を人々が忘れているということ言っているのである。ここでいう「花」とは、世阿弥の「花」であっても良いし、単に「花」でも又、「自然」でも良い。又優れた作品を見て素直に感動するということ。このことは、即ち製作者の動機たる感動が見るものに伝わってくること。言うまでもないが、「像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし」という芭蕉の言葉は日本人の美意識を表している。小林の考えもここにあり、小林秀雄の花とは「古き美しい形」とも言える。
さて、「上手に思い出す」という態度について少し説明をしてきたが、まだ不十分であるのでもう少し続けたいと思う。小林が古典論を発表した昭和17年の同時期にバッハの思い出をバッハの二度目の妻が書いた本を読みその感想を書いた小林の小作品があるが、結びとして小林が紹介していることが小林にとって大変重要な意味を持つ言葉であったろうことが伺われる。「(バッハは)常に死を憧憬し、死こそ人生の完成にあたると思っていた」というくだりである。同じ頃哲学者の三木清との対談で、三木は「人間とは小説的動物である」と言っている。小林の言う「人間になりつつある一種の動物」(無常ということ)という比喩も同じ意味であろう。死こそ人間の完成であり、生きている人間はどうも何をしでかすか判らない。前述した動く物ということである。物とは物理的な物ではなく、悟性というようなものでもなく、形と言った方が適切かもしれない。歴史上の古典作品は完成されたもので、我々がこれを解剖するが如く研究するのであるが、これはまた一般にはやっかいな事であるが快感を伴うものであると小林は言う。古典作品や優れた美術作品を鑑賞するには、死体を解剖するだけでは魂は判らない。上手に思い出すとはその対象を心を虚しくして思い出すと述べたが、何を。当時の作者と人々の感動を思い出すことなのである。それには作品を人が子供を愛するが如く受け入れる気持ちがなくてはならない。小林は鑑賞するとは模倣することだとも言う。「全ての芸術は模倣に始まる」とはダヴィンチの名言だが、模倣は芸術作品の卵でもあるが、模倣することにより鑑賞という態度も芸術に近付くばかりでなく、その本質を一つにする唯一の道であるということを述べているのである。「無常ということ」の冒頭のかんなぎの真似をしたなま女房の話を小林は、「古びた絵の細頸な描線を辿るように」思い出したと言うが、その瞬間まさに模倣したのである。そして一言芳談抄の一文を我が体験、我が物としたのである。優れた芸術作品の鑑賞とは、漫然と見ることではなく、もっと積極的で強い態度で作品に臨み我が物とする態度を言うのである。そこに存在する永遠の美しい形をしっかりと見てとり同化することなのだ。それにより僕らは身も心も救われるという。(伝統)私はこの一連の文章で小林の難解とされる歴史認識の解説というようなことを考えているのではなく、小林秀雄の「こころ」を伝えて行きたいと思っています。
「上手に思い出すことは難しい、それは過去から現在向かって飴のように伸びた時間という蒼ざめた思想から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える」この時間という思想の解釈が「無常ということの」の中でも論議を呼ぶ部分なのであるが、時間ではなく、時間という蒼ざめた思想と書いてあることが大切で、通常我々が考える時系列的物理的な時の進み、放たれた弓の如く一直線に進むという時間の概念という考え方では、歴史を本当に理解することはできないと言っているのである。歴史というものは、過去に起こった人間の痕跡を示すものだが、自分についての過去の事柄に思いを寄せるとき、人は思い出だすということをするのだが、同じように例えば、徒然草を読み鎌倉時代の人々や兼好に思いを寄せることも同じ態度で、そこには物理的時間というものはない。今思い出していること、その時点で厳然と歴史は自分に歩み寄ってきているということを言っているのである。小林秀雄は「感得する」と言う言葉を使っているが、その対象たる歴史的事実に直に入り込み「感得」するのである。感得とはベルグソン的には直感ないし直覚という言葉と同じことであるが、小林のこの考えは彼自身も述べているが、荻生徂徠の「学問は歴史に極まれり」という思想と良く似ている。この徂徠の言葉は、歴史を学ぶ重要性を言っているのではない。学問することは即ち、歴史に接する態度と同じであると述べているのである。また小林は自然に対する芭蕉の考え方、取り組み方の「風雅」という態度も本来はこのようなものだと述べている。上手に思い出すには、心を虚しくし、先入観や既成観念を常に疑いながら謙遜の態度で相手(歴史)に接しなければ相手は胸襟を開かず、何も教えてはくれない。注意しなければならないことは、心を虚しくし相手と一定の距離を置くのではないということで、相手の懐に深く入り込まなくてはならないのである。そういった態度で臨むならば、歴史は自ずからその秘密を明らかにしてくれる。鎌倉時代の人々が語りかけてくるのである。こういった小林秀雄の歴史概念は、歴史や時間は矢の如く一直線に先に進むのではなく、自分という視点から見ると、循環し、自己にまた戻ってくるのである。僕らを差し招く(平家物語)のである。
この歴史に対する態度を小林は論じている一方、いわゆる現代の歴史認識についても、苦言を呈している。つまり歴史は進化するものだ、発展するものだ、進歩するものだというという考え方は間違っているということはっきり言っている。多くの歴史学者は歴史は発展するものと定義する。また我々も新しいものほど良いものと考えがちである。この唯物論の思想は深く人々に浸透しているのだが、それでは、源氏物語以上の小説が出てきているのだろうか。万葉集以上の歌集が出てきているのだろうか。徒然草以上の評論文が出てきているのだろうか。多くの人々は唯物論の登場により本来人間の持つ健全な自ら考える力を捨ててしまったかのように見える。「時間という蒼ざめた思想」はこのように二つの意味で使われ、一方は誤った人々の歴史への態度、そしてもう一方は誤った歴史認識を語っているのである。
この歴史に対する態度を小林は論じている一方、いわゆる現代の歴史認識についても、苦言を呈している。つまり歴史は進化するものだ、発展するものだ、進歩するものだというという考え方は間違っているということはっきり言っている。多くの歴史学者は歴史は発展するものと定義する。また我々も新しいものほど良いものと考えがちである。この唯物論の思想は深く人々に浸透しているのだが、それでは、源氏物語以上の小説が出てきているのだろうか。万葉集以上の歌集が出てきているのだろうか。徒然草以上の評論文が出てきているのだろうか。多くの人々は唯物論の登場により本来人間の持つ健全な自ら考える力を捨ててしまったかのように見える。「時間という蒼ざめた思想」はこのように二つの意味で使われ、一方は誤った人々の歴史への態度、そしてもう一方は誤った歴史認識を語っているのである。