ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

【読書メモ】似島大検疫所の成功は後藤新平ひとりによるものではない

2020-04-19 02:50:56 | コラム

 

今ふたたび後藤新平の名が取り上げられている。125年前の日清戦争後に未曽有の帰還兵23万人のコレラ検疫を数か月で成功した後藤。今また取り上げられる理由は明白だ。新型コロナウィルスの影響で「令和の後藤新平はいないのか」という文脈で語られているのだ。

後藤新平はいかにして大検疫を成功させたのか。「なぜ後藤新平がなしえて現代に生きる私たちができないのか」、そんな疑問に答えるべく後藤新平を調べることにした。これはその読書ノートで今回は鶴見祐輔著『<決定版>正伝 後藤新平1』(藤原書店、2004年)と御厨貴著『<決定版>正伝 後藤新平 別巻』(藤原書店、2007年)の一部をまとめている。

後藤新平は19歳の時に愛知県病院の三等医として愛知県名古屋に赴く。そこで司馬凌海の警察医学(今でいう公衆衛生・法医学に相当)の翻訳を手伝い、オーストリア人の教師ローレッツの教えを受け警察医学に興味を示す。当時は内務省の管轄で警察官が担当していた。「多くの医師は警察医学に無関心であり、特に伝染病の流行に素早く対応できる体制が整っていなかった。」(御厨貴『後藤新平大全』藤原書店2007年p.15) そうした頃に西南戦争(明治10年)が起きるのである。

<西南戦争> 明治10(1878)年・・・新平20歳

「近代日本の試練」といわれた西南戦争の試練の一つは傷病兵への対応である。当時の日本で傷病兵の扱いについては普墺戦争、普仏戦争の前例により日本軍医当局も相応の知識を有していた。

野戦病院で行われる臨時手当の他に重病患者の問題がある。戦地を離れた土地の病院で野戦病院から送還される傷病兵を治療する必要があり、大阪がその土地に選ばれた。

その理由としては候補の真っ先に考えられ得る下関は市街地が広くなく平坦な良地がない。次の候補とされた神戸は新開地のため物資の供給が不十分との理由から大阪に決定し、ここに大阪陸軍臨時病院が建設された。物資供給に問題がなく、また鎮台や病院もあり連絡等の面からも大変便利である。ここに戦地の負傷兵4000余りともいわれた負傷者が1船ごとに200から400名ほど次々に送り込まれてきた。これほどまで多数の傷病者の手当てを一病院に収容したことは「日本闢けて以来、最初の経験」であり、当時の皇太后、皇后両陛下の行幸を迎えることとなった。他にも太政大臣三条実美、軍医総監松本順、各国軍医や外国皇族なども訪れ傷病兵の慰問や巡視を行った。

新平はこの陸軍臨時病院の見学をすべく院長の石黒を訪ねた。ところが免状のない者は見学ができないというため、石黒の勧めに従い大阪陸軍臨時病院の試験を受けて明治10年9月3日に辞令を受け傭医となって働くこととなった。これには新平の強い希望もあった。

また石黒は新平のことを明治3年には聞いており、その後も共に食事をとるなどして新平の非凡なところを感じていた。

そうして新平が同病院で傷病兵の治療にあたっている時に凱旋兵のコレラ流行に遭遇するのである。

上海で流行していたコレラ(6月時点)が8月上旬長崎大浦で伝染し、次に長崎警備兵軍団病院の炊夫から、警視隊に伝染、鹿児島にまで拡大した。

9/2 大阪で長崎から航送された患者のうち、発病者2名に始まり、その後は船ごとに3、4名の患者が発生。

9/22 石黒一等軍医正が神戸に行き、運輸局長井出正章、兵庫県権令森岡昌純、税関長長岡義之らと会議し入港検疫規則を相談、即日軍医副奥村郁太郎に看病人卒と器械薬品を付して神戸に派遣し、軍人軍属の検疫事務を施行させてあった。

9/30 西南戦争の凱旋兵300名が神戸到着の船中にてコレラ発症。うち50余名が最も危篤だった。

神戸出張の検疫医官奥村軍医副、軍医補などが検疫規則により上陸を禁止して避病の方法を処置しようとする。

→しかし「功成り気驕れる凱旋兵たちである」、検疫医の制止を聞かず、「勝ちに乗じた軍人が医官の教えを聞くはずがない、衛生の法を順守するものは少なく、かえって医官を罵嘲し、さわがしくわめきながら先を争って上陸した。そのため猛毒はたちどころに暴発」した。

兵たちは九州で旋帰を命じられていたため、大阪陸軍事務所の命令を聞く必要がなかった。「ましてや大阪陸軍臨時病院のごときはなんらの発言権も持っていなかった。」

10/1 神戸から「諸隊は勝手に行進をはじめて」東海道を進み、京都では汽車中で発病者7、80名が、三本樹、三条橋付近でも続々と発病者がでた。

<同日、新平は京都東福寺の陸軍格列羅(コレラ)病院へ出張する。>

10/2 草津から、10/3には水口、大津から同様の報がなされる。

運局局長井出一等副監督は医官と協議し、兵庫川崎に仮の天幕を設置し、ここに患者を収容し仮しのぎとした。大阪より看病人卒を派遣して応援にさせる。ところが大雨が起こり港川は氾濫、天幕は流され患者が溺れそうになったことから和田岬に天幕を移して急遽避病舎を造作するなど困難を極めたことは容易に想像がつく。

東京に医員の増員を求める。

陸軍事務所にコレラ予防の大会議を開催し、「三則」を決定して実行を「権威ある機関」に移した。

<三則>

  • 凱旋行進する兵は到着したところに止め、一時病勢の状況を見きわめ、コレラならびに類似症状のものを選んで避病院に移し、残余の健康な兵には十分な予防法を行い、数週間を経て初めて出発を許可すること。
  • 九州からの帰還を一時停止する。
  • 神戸に仮営を設置し検疫規則を厳しくする。船中でコレラ発病者がいれば避病院に移し、同船者は仮営に入れ、健否の検査後に初めて他と接することを許可する。

 

この三則を戦後の士卒に実施するには「十分権威のある人物でなければそれが難しかった」ため三好少将が神戸に、四条少将が京都に行き号令を発した。

10/10以後、病勢にわかに減退

11月半ば 大阪陸軍部内に患者がいなくなる

西南戦争凱旋兵のコレラ患者、死亡者

大阪陸軍臨時病院所管のものだけで以下のとおりである。(大阪、神戸、京都の合計)

発病者:将校17名、下士109名、兵卒789名、雑部103名 (合計1,018名)

死亡者:将校6名、下士57名、兵卒409名、雑部30名 (合計502名)

発病者の約半数が死亡。

 

後年の日清戦争後の「似ノ島に未曽有の大検疫所を設けて厳然たる制度を実施したのは、主としてこの苦き経験に基づくものであった。」

 

<日清戦争後のコレラ流行時> 明治29(1896)年・・・新平39歳

大検疫所設置の主唱者 石黒忠悳 (西南戦争後のコレラ流行時に大阪陸軍臨時病院長)

実行者 臨時陸軍検疫部の事務官長 後藤新平

 

<大阪陸軍臨時病院長 石黒忠悳(ただのり)>

越後生まれ。西南戦争前の明治8年に米国留学をし、南北戦争の研究調査をする。戦時病院の組織活動について詳しい。後に「軍医総監として、日本軍医界の柱石となった人」であり、また日本赤十字社の創設者でもあり、社長として長年勤めた。西南戦争時に博愛社を起こして事業を開始した。「明治日本の医学界において長与専斎と並び称せらるべき偉大な功績者」である。

当初は尊皇攘夷家。家塾を開き資金捻出のため医師となる。幕府の医学所(後の東京帝国大学医学部の前身)に入り、後に同医学所教官を務める。維新後に大学東校で教えていたが明治4年(1871年)軍医寮が新設されると一等軍医兼軍医権助として招聘された。

明治8年に米国留学において南北戦争時の傷病者や病院について調査をしていたために「それがあったので(明治)10年の西南戦争でとにかく仕事がよくできた。10年の経験をもってからに、なおあれはこうしなければならぬというような計画上のことをば考究をして、そうして今度が27、8年戦役(筆者注 日清戦争のこと)というものが、これより大きなものができた。私は自分の仕事を熟々そう思う。27、8年戦役に初めて逢うたらば、まるで駄目だ。10年の時は、アメリカへ行ってこなければ、まるで駄目だ、そう思う。」(『文藝春秋』昭和2年8月1日「石黒忠悳子座談会」)

石黒はこのことについて「日本の国運」、なかでも自分自身の仕事について「実に今までにもかくも天祐(天の助け)があるかと思った」と語っている。

 

<仮説>

→新平はこの時の経験から「権威ある機関からの発令の威力」という手法を学んだのではないか。

→この時に石黒忠悳に見出され日清戦争後に大検疫所の実行者となった。

→日清戦争後の似島大検疫所での活躍は「スーパーヒーロー後藤新平」一人によるものでなく、石黒忠悳の米国留学での南北戦争における傷病兵及び病院に関する知識、西南戦争時の経験の積み重ね(新平個人だけでなく石黒や日本陸軍全体の知識の積み重ねと更なる考究)が似島大検疫所での検疫の成功へと繋がったといえる。

 



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