ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

耐えられない軽さ

2020-03-28 01:23:27 | コラム

 

業務用冷蔵室に閉じ込められた女性がいる。中を確認しなかった人が外からうっかり閉めてしまったのだそうだ。振り返った時はちょうど扉が閉まるところで驚きのあまり声も出なかったという。

「で、どうしたの?」

「もちろん扉を叩いたり開けようとしたけど扉はかなりの厚さで、叩いてもたぶん聞こえなかったはずだし、真っ暗だったからどこがドアノブかもわからなかったし。」

扉が閉まると冷蔵室内は暗闇になり、一瞬の間の後に止まっていた冷気が上からシャーっという音と共に降り注ぐ。それはナチスドイツの強制収容所のガス室を即座に連想させ、外に誰もいないことを知っていたが故に女性の恐怖は増した。

 

冷蔵扉の内側のノブは大変小さいもので扉を開けるには至らなかったそうだが、必死で開けようとする音が一人だけ現場に残っていた人の耳に留まり、開けてもらったそうだ。冬のことで長袖を着ていたことも幸いし、お湯で腕や手を温める程度で済んだ。しかし問題はここから先である。

 

女性は事故を上司に報告したが、ここで耳を疑うようなことを言われる。初めは目を丸くした上司は突然、へらへら笑いながら次のように言ったそうだ。

「だってあれって一晩経たないと命に別状はないんでしょう?」

扉を閉めた人のことを責めるつもりは少しもなく、報告と再発防止のために会議で注意喚起をして欲しいという女性の話を終いまで聞かず、終始笑いながらまったく取り合わなかったという。強い危機感を持った女性はその下の役職者に上記依頼を具体的にした。(メールのCCに当然上司も入れて。) 無事そちらは認められて処理されたそうだ。しかし女性の心は大いに傷つく。「何よ、あれ。」

 

事故と上司の対応にショックを受けたのか熱がひと月も出続け、遂に女性は一か月の休職を取った。そこで彼女はすっかり考え込んでしまう。上司への怒りはもちろん、上司の中にある自分の価値がどの程度のものなのかということをその人なりに感じたことも一因だろう。仮に上司が笑った理由がどう対応していいか困惑したためか、あるいは補償やその他諸々の要求を恐れて話をうやむやにしたかったのかもしれないにせよ、他ならぬ自分の一命を軽んずる人のために真摯に働くことができるのか、そうしたことに女性の考えは至ってしまったのだった。プロとしての職業意識はある人間にとってこれは、なかなか厄介な問題である。

 

仕事にはある種の不条理や無茶がつきものだ。皆、それを飲み込みながら仕事をしている。

「これは私の責任ではありません。」「ここまでやる必要がどこにあるんですか?」

若手社員ならすぐに文句を言いそうなことでもベテランは黙ってその仕事をする。たとえ自分にとって直接的な得にならないのを知っていても職業人としての意識がそうさせる。一つ一つを知らなくても、部下のそうした姿勢と取り組みを受け止めていることが上司の大事な姿勢であり、大前提だろう。

今回女性は上司と自分との間にある職業人としての姿勢の違い(いや人生観の違いか)のようなものを見出し、そこに将来起こりうる諸々の、恐らくは避けられないであろう問題を察してしまった。

 

女性はいずれ現在の職場を去るだろう。私にはそう思えてならない。

 

 

(写真:PexelsGeorge Becker)

 


匂いますよ

2020-03-22 19:28:47 | コラム

(『言葉の匂い』から改題)

 

 

中目黒を通りかかったところマイクで警察官らしき人のアナウンスが聞こえてきた。嫌な予感がした。中目黒駅に近づくと予感が的中してしまう。花見客の賑わいである。コロナ騒動で花見はないだろうと高をくくっていたら日本人の桜好きはコロナごときではびくともしなかったらしい。さすがにその数は例年ほどではなかったけれど、それでも警察がマイクでアナウンスをする程度には混みあっていた。ドン・キホーテの前まで来るとトイレットペーパーやティッシュの箱を持った人を何人か見かける。この騒動で用心して買っているのだろうと妙な納得と共に進んでいたら賑わいの中で乳母車を押した若い夫婦の姿を見て仰天した。家族全員マスクなしである。え?この混み具合の中で?我が目を疑った。他にも小さな子を結構見かける。どうも各国の危機感と日本のそれには差があるようだ。

 

さすがに昼間は目黒川沿いを行くのは怖かったので夕方になってから通ることにする。スターバックス リザーブ ロースタリーの前を通るとドアは閉じられ電気も点いてない。入り口にスタッフが3人立っていて「お店を開けると人が集まってしまうのでこの期間中は閉めることになりました。」と説明をしていた。さすがに企業の社会的責任を自覚しているのだろう。花見客の多さを勘定に入れて3人も配置しているのかもしれない。

 

ところでお気づきだろうか。私は「乳母車」という言葉を使っている。「ベビーカー」でもなければ「バギー」でもない。やや古風な物言いにはなってしまうが乳母車。できるだけ不要なカタカナ語は使用したくないので。雑誌、それもファッション誌をめくると日本語を探す方が難しいほどカタカナ語が氾濫しているのにうんざりしている。書いている本人も意味をわかっているのか怪しく思われるものも結構ある。同じ意味のものでも外来語を使うことでニュアンスの違いを表現する時以外はなるべく母語で表現しようと私は思っている。

 

また流行語の取り扱いも要注意だ。何よりも歳がバレてしまう。「ぶっちゃけ」という言葉を使えば年齢や見ていたテレビ番組、嗜好などを大いに物語ってしまう恐れもある。

流行の言葉は旬のニュアンスを見事に掬い取るはたらきがある一方で、あまりそれに頼るとかえって陳腐になったり、一面的で大雑把な表現にしかならなくなる時も多い。「ざっくり」「ほっこり」などがその典型で、出始めの頃は「なるほどね」と感心したものだが何でもかんでも「ほっこり」と言い出すと、「なにが『ほっこり』だ。この場合は他に言いようがあるでしょうが」と時に怒り出したくなることもあるので (できるものなら)その度ごと最も適した言葉をふるいにかけて探し出したい。そうすると物事がはっきりと見えてくる。自分は何を考えているのか。何を伝えたいのかが。

 

これは悩み事解消法にも大変良い。よく言われていることだが悩んでいることを紙に書きだすことで問題点が明確になる。悩み事を人に話すのは言語化することで自分の気持ちを第三者的な目でとらえ直すことができるからだろう。では既に言語化されているものを分析してみたらどうなるのだろう。

 

広告のキャッチコピーや雑誌の見出し文の分析をしてみるのも価値がありそうだ。以前、戦時中の国策スローガンを集めた本を読んでいた時、中国人の知りあいに内容を聞かせたら「文革時代の中国のスローガンにそっくり」と言う。

 

 進め日の丸 つづけ国民

 協力一致 強力日本

               

この辺りは文革世代には懐かしい響きを持つものらしい。そういえば数年前の正月明け、その知人に会ったら身を乗り出すようにして「美輪明宏というのは何者ですか?」と訊かれた。ちょうど美輪明宏が紅白歌合戦で「ヨイトマケの唄」を歌い大評判になった時である。感動したのだろうか。それでも勢い込み具合の意味が分からずにいると続けて「共産党員ですか!?」と訊かれた。ますます「?」である。「あの人が歌い終わった時、夫と顔を見合わせて(呆然と)『共産党万歳……』と言いましたよ。あれは中国では『共産党万歳』の歌ですよ!あの人は共産党員ですか?」と言われた。その後の説明を聞いてわかったが「貧しい母が苦労の上に苦労を重ねて子供を育て上げた。母の苦労、思い出しては涙する」的な歌が共産党讃歌にはよくあるテーマらしく、聞く人によってあの名曲も様々なとらえられ方をするようだ。

正月モードののんびりした中、いきなりこの一連の話を聞いて頭の中にある諸々の針を大急ぎで調整して理解に努めた私の身になって欲しい。

 

話が逸れた。

元に戻すと言葉の使い方、キャッチコピーは時代の雰囲気をよく表すということをいいたいのである。最近の流行は数字を記号化、固有名詞化する動きのようだ。「311」「TOKYO 2020」私はこの二つともに何ともいえぬ胡散臭さを感じている。

 

まず「311」、これはニューヨーク同時多発テロがアメリカで「911」とよばれたことに起因するのだろうけれど、日本で「311」となった途端に震災の悲惨さが消されて無機質な記号としての固有名詞のみが浮かび上がる結果となっている。関東大震災、阪神・淡路大震災と違うのは歴然としている。そして「TOKYO 2020」この言葉を見る度にうんざりした気持ちになる。2020(ニーゼロニーゼロ)という日本語にはない意味不明な読み方、上っ面だけを扱っているような、いかにも広告代理店が作りました的な匂いに満ちている。言葉への敬意や物事をしっかり表現しようという気が少しも感じられない上っ面だけのオシャレ感。これを広めようとしている人の軽薄さまで感じられるようだ。そうそう、類臭語として「首都大学東京」というのもある。今年4月からは元の大学名にするそうで、皆がこの言葉に胡散臭さや違和感を持っていた証拠だろう。