業務用冷蔵室に閉じ込められた女性がいる。中を確認しなかった人が外からうっかり閉めてしまったのだそうだ。振り返った時はちょうど扉が閉まるところで驚きのあまり声も出なかったという。
「で、どうしたの?」
「もちろん扉を叩いたり開けようとしたけど扉はかなりの厚さで、叩いてもたぶん聞こえなかったはずだし、真っ暗だったからどこがドアノブかもわからなかったし。」
扉が閉まると冷蔵室内は暗闇になり、一瞬の間の後に止まっていた冷気が上からシャーっという音と共に降り注ぐ。それはナチスドイツの強制収容所のガス室を即座に連想させ、外に誰もいないことを知っていたが故に女性の恐怖は増した。
冷蔵扉の内側のノブは大変小さいもので扉を開けるには至らなかったそうだが、必死で開けようとする音が一人だけ現場に残っていた人の耳に留まり、開けてもらったそうだ。冬のことで長袖を着ていたことも幸いし、お湯で腕や手を温める程度で済んだ。しかし問題はここから先である。
女性は事故を上司に報告したが、ここで耳を疑うようなことを言われる。初めは目を丸くした上司は突然、へらへら笑いながら次のように言ったそうだ。
「だってあれって一晩経たないと命に別状はないんでしょう?」
扉を閉めた人のことを責めるつもりは少しもなく、報告と再発防止のために会議で注意喚起をして欲しいという女性の話を終いまで聞かず、終始笑いながらまったく取り合わなかったという。強い危機感を持った女性はその下の役職者に上記依頼を具体的にした。(メールのCCに当然上司も入れて。) 無事そちらは認められて処理されたそうだ。しかし女性の心は大いに傷つく。「何よ、あれ。」
事故と上司の対応にショックを受けたのか熱がひと月も出続け、遂に女性は一か月の休職を取った。そこで彼女はすっかり考え込んでしまう。上司への怒りはもちろん、上司の中にある自分の価値がどの程度のものなのかということをその人なりに感じたことも一因だろう。仮に上司が笑った理由がどう対応していいか困惑したためか、あるいは補償やその他諸々の要求を恐れて話をうやむやにしたかったのかもしれないにせよ、他ならぬ自分の一命を軽んずる人のために真摯に働くことができるのか、そうしたことに女性の考えは至ってしまったのだった。プロとしての職業意識はある人間にとってこれは、なかなか厄介な問題である。
仕事にはある種の不条理や無茶がつきものだ。皆、それを飲み込みながら仕事をしている。
「これは私の責任ではありません。」「ここまでやる必要がどこにあるんですか?」
若手社員ならすぐに文句を言いそうなことでもベテランは黙ってその仕事をする。たとえ自分にとって直接的な得にならないのを知っていても職業人としての意識がそうさせる。一つ一つを知らなくても、部下のそうした姿勢と取り組みを受け止めていることが上司の大事な姿勢であり、大前提だろう。
今回女性は上司と自分との間にある職業人としての姿勢の違い(いや人生観の違いか)のようなものを見出し、そこに将来起こりうる諸々の、恐らくは避けられないであろう問題を察してしまった。
女性はいずれ現在の職場を去るだろう。私にはそう思えてならない。
(写真:PexelsのGeorge Becker)