午後の紅茶。
教育をする側について書いたが、それではもう一方の学ぶ側についてはどうか。「自分はなぜ学ばなければならないのか」との疑問へはどう答えるか。以下は「紳士・淑女になるため」に加えて人生の後輩に答える私の考えだ。
学ぶことの意味は三つあると思っている。一つは大きな決断をする時。どれほど素晴らしい家族が、友人がいようと自分自身の頭で考え決断しなければならない時が人生には必ず来る。人によりその問題の大きさや種類は様々だろうがそれは来る。その時にそれまでの自分が学んだこと、身につけたことを総動員して考えに考え抜き決断する。そのための準備期間としての学びだ。それまでの人生のすべてを賭けてする決断、その時のために人は学ばなければならない。
二つ目はそれより小さい日常的な決断の数々のため。毎日の仕事や生活のことで私たちが日々する決断のことだ。そのために私達は学び準備をする。自分と他者、自分と世界との距離、世界を構成するものの数々を知る。普通の人にとって例えば物理学は日々の生活に役立たないかもしれない。しかしそうした基礎知識を頭に入れておくことは世界を知ることの一つとして一定程度大事ではある。この二つ目の決断の積み重ねがいつの間にか経験となり、一つ目に挙げた「人生ここ一番」の時に役に立つ。
三つめ、あるいは副産物的なものであるのかもしれないけれど、何よりも生きていて楽しくなる。人生の大きな喜びの一つとなり得る。見ているもの、聞くものすべてが楽しくなる。自分の好きなものを取っ掛かりとして、あるいは仕事を通して学んでいくうちに人は世界にある様々なつながりや美しさ、公式や方式、違いや同じものがあることに気がつく。
文字を学んだ子供が新しい目と頭で世の中を見渡す時のように、世界は突然その姿を意味あるものとして見せてくれる。地図も楽譜もITも同様だ。そうした新しい世界が広がり続ける。一生の間ずっと。
東南アジアのある国に行った時、久しぶりに話すので英語がうまく話せなくなってしまったことに気がついた。もともとそれほど話せる訳でもないが中国語を集中して学ぶうちにすっと口に出てこなくなってしまったのだ。当初どういう訳か日本語の説明を聞いて頭の中で一度英語に置き換えてから中国語に訳すということを無意識の内にしていた。そのうちそれではあまりに時間が掛かるので英語に置き換えることを意識して止めていたら今度は英語が口から出てこなくなってしまったのだった。日本で普通に生活や仕事をする上ではまったく問題がないのはいうまでもないけれど、アングロサクソンの国に植民地化されていたかの国では高等教育が英語でなされていることもあり「英語力=教育程度」と考えられている節もあり馬鹿にされてしまった。
そのまま黙っているのは良くないと思えるほどひどい状況だったので後日メールで反論をした。日本では初等教育から高等教育まですべて母語である日本語で教育がなされること、歴史的背景から日本の英語教育は会話でなく読解に力点が置かれていること、会話が苦手ということはあるけれども、しかしこの言語政策のおかげで日本人は母語で教育が受けられ、貧富の差による差が生まれにくいという利点があることを説明した。会話が苦手な代わり日本には豊かな翻訳文化があるのだと。
また彼の国の英語は訛りが強くて外国人には理解しにくいといわれていることも付け加えた。(そもそもTOEICに「英語」としての範疇に入れられたのはここ最近である。)それぞれが話す外国語には母語の訛りがあるのは当然であるし、あなた方は自国と日本の社会背景や言語政策の違いを知らないがために私を馬鹿にしたと思っている。怒っているのではない、ただ説明する必要を感じただけなのだ。次に会う時にはあなた方の中にポジティブなものを見たいと思っている。そう書いてメールを送ったところ一人からは再会時に私がもう一度かの国へ行った時には自分が街を案内したいという招待の言葉を聞いた。さんづけで私を呼び、気を遣った行動も見られた。もう一人は話を逸らせただ口ごもるだけであった。
他所の国への知識のなさが誤った態度を生んでいたのが明白なので怒りはない。とはいえ人の嫌な面を見たとの思いをその時感じたのは否めない。教育の程度を嗤っていたのだろうけれど、こちらからすれば「他人のできない点を人前であげつらうなぞ、この人たちはいったいどんな教育を受けたのやら」である。一方で私が英語でうまく表現できない所を実にさりげなくフォローしてくれ、何かと気遣って声を掛けてくれた人もいた。このことがあって教育とは何かを改めて考えている。
英語ができないことを馬鹿にした人とフォローをした人の違い。相手への気遣いのあり方。人間性の違いといってしまえばそれまでだけれども。ごく当たり前の礼儀作法、そうしたものの数々。礼儀作法やマナーは単なる言葉遣いや食事の仕方、身のこなしの技法ではない。やたらと上品な言葉をひけらかしながら相手を見下す態度を出す人もいる。一流といわれる学校教育を受けながら人との接し方、義理の果たし方を知らぬ馬鹿者もいる。礼儀作法やマナーは皆が一緒にいて心地良く過ごすための心がけの精神の現われであり、知恵の集大成だ。
教育とは何か。大人になった今、私は一言で答えることができる。「紳士・淑女を育てること」だと。「紳士・淑女」というといかにも英国的で「ダウントン・アビー」に登場する貴族のようなものを想像してしまうかもしれない。そうでなく、「人としての当たり前」を弁え、身の処し方、判断のありかた、人への接し方、場に応じた振る舞い、理性的でかつ温かい人柄、知性も含めてそうした数々を身につけた人のことをいう。そのための修養の場が学校だ。
古めかしく堅苦しい言葉が続くので読者は目を丸くしているかもしれない。自らのいる世界を知るという意味で知識を得ることは非常に大切だ。しかし知識を得るだけでなく、学校には修養の場としての役割もある。人としての確かな軸を持ち、信頼に値するような人間としてふるまえる人間を育てること。それこそが教育の意図するところである。そういえば英国の寄宿学校(ボーディングスクール)で「紳士たれ」といった人がいるそうだが同じ意味ではないかと思っている。「紳士」とは決してモーニングを着ただけの人のことをいうのではない。