駒澤大学「情報言語学研究室」

辞書と辞書を繋ぐための語内容―『東山往来』から『壒囊鈔』―へ

2006.02/23~2023/07/31 更新
   辞書と辞書を繋ぐための語内容
       ―『東山往来』から『壒囊鈔』へ―
                                                                          萩原義雄識
 はじめに
  古往来の語史研究は、次なる古辞書編纂へと継承され、平安時代末に成った『東山往来』は、当に写本類は稀少な資料だが、此の文言を示唆する後の語文辞書研究者が説きなしていく編纂作業経過を見事に書き綴っていることは古辞書編纂が如何に深く関与していた証しともなっている。

 既に吾人は、古往来、定深『東山往来』(『東山往来拾遺』)と三巻本『色葉字類抄』との聯関性について取りまとめてきた。だが、その視野を更に次の後人世代に拡張し、室町時代の文安二年(一四四五)に編まれた觀勝寺真言僧、觀譽『壒囊鈔』七冊へと移してきている。此の『壒囊鈔』は、鎌倉時代の問答体古辞書印融自筆書写『塵袋』と更に合冊され、『塵添壒嚢鈔』へと発展する。高野山大学図書館には、更に古い写しの『塵袋』が残存保存されているが、板状化し、初めの数葉は読めるのだがその全貌は今も読むことが出来ない。科学機器の進む今日、此を判読するシステムが投入され、その内容を読み取ることを俟つしかない。
 また、『壒囊鈔』が、その前年に成った東麓破衲編『下學集』の語内容を継承し、編纂していることも当代の資料情報が寺門宗派を問わず、人の知的情報を求めていくなかで風通しの良い環境化にあったことを知る手がかりともなっている。その『壒囊鈔』が「順ガ和名ニ」として数語に過ぎないのだが、平安時代の源順編纂の古辞書『和名類聚抄』にも目が届いていたことは、室町時代の古辞書編纂に基づく語史研究にとって、その書物情報が知的活動として流動していたことを解き明かす上でも重要な手がかりとなると吾人は推断した。

 その意味で、寺内保管書物はまだまだその全貌を明らかに仕切れていないと云わずにいられない。いずれ、本邦が今も誇る古辞書『和名抄』そのものからして、平安時代末から鎖され続け、公家皇族の保管資料と寺内保管資料との隔離が生じ、相互をつきあわせての見定めが許され、その聯関性を保ちながらもその内容が大きく分岐していった過程そのものを見定める時が「今にある」と考えていくその全貌へ辿りつく上での手がかりとなるに違いないと思う。
  言い換えれば、十巻本系統は、勤仕内親王のもとに献上がなされ、皇族什物書物の一つに加わった。とはいえ、後の藤原公任撰『倭漢朗詠集』のような和歌や漢詩を言語文化の基盤としてきた宮廷言語文化環境にあっては、この『和名抄』という博学な語集はそう高い評価を得られていなかったことも見て取れる。こんな思いが原作者の源順にあって、更なる「國郡名」「職官名」「藥香名」などを増補させるきっかけづくりにあったと見ている。その全貌こそが今の廿巻本系統であり、彼の手で新たに増補編纂され、その内容から元の『和名抄』より、その利用視野も国家統治のために欠かせない言語文化情報へと変容していた副産物とみて良かろう。その情報源は、元は聖武天皇以前の国分寺造営と大きな関わり以ていて、所領とその土地から得られる産物に至ることにも影響を及ぼし、人民の暮らしぶり、日本全土の所領名と領土開発への全貌にもなっている。言わば、地理や歴史の學問域に大いなる影響を与え続ける資料に変容していったことが看取できる。その意味から寺門と多くの学僧や修行僧が多くの知的情報を共有保持する一端を担ってきたことが古辞書の記載情報からも汲み取れるものとなっていることを信じたい。
 次に、古往来の始まりが『明衡徃來』(雲州往来)であるとする。此外にも『高山寺往来』『和泉往来』、そして此で取り扱ってきた定深『東山往来』が存在し、往来物資料が「消息」という個と個の往復状が基盤にあり、或る意味での「とひかけ」と「いらへ」と云った問答体資料であったことが、後人が読み解くとき、その知的情報量が計り知れないものだと云うことから人々が最も必用とする書簡伝達受容法を学ぶ資料へと発展し、後には、代表往来物資料と知られる『庭訓往来』として長い学びの書へと発展するそのきっかけを成す資料でもあった。
 此の『東山往来』『東山往来拾遺』の両書は、觀譽が新知的情報に転換するうえで、最も信頼し得て且つ欠かせない必用不可欠な『壒囊鈔』基盤素材資料であったことは慥かな点と言えよう。その問答形式の形態を活用し先に成った『塵袋』が書名冠頭化され、此の定深『東山往来』が古往来資料として『壒囊鈔』に多大な知的情報を促していながらその伝播活動が狭隘なこともあって、蔭を潜めてしまった点は、茲でも問わずにはいられない。觀譽はなぜに序跋として此を伝え遺すことを秘めてしまったのか、其人のみが知る扉を開けて、衆人の知る当代の知的情報を吾人なりに掘り起こしておいたものを紹介していくことにしたい。

 『東山往来』と『壒囊鈔』の聯関性
『東山往来』上卷第一
    第一
    言上 案内事
      右所言上一者(ハ)隣ノ 宅ニ 有レ女以昨日ヲ 一産リ 二男子ヲ 一。爰ニ 其母嘆(ナケイ)テ 曰ク鳴_呼五月ニ 生(ル)子ハ不―二利ナリ  二親ニ 一。仍テ 竊ニ 企(不示)作(ナス)ト 二捨隠之企ヲ 一云々。此事如_何齊月ニ 乍レ見此事ヲ 一若不レ加テ 二制止ヲ 一者尤成ム 二罪業ト 一。加_之彼_既ニ 男子ナリ  。叶(ヘ)リ 三樂之(ノ)一ニ 一。況乎生(レ)シ 時ニ 恵タリ  陽ヲ 一音辣徹(トホリ)レ雲ニ 奩相尤_足(レ)リ 。豈不レ惜哉。但至テ 二于不利之条ニ 一者未レ知二虚實ヲ 一。若无レ過(トカ)者欲レ令ト 二留養(ナハ)一復杉テ 舊記一可二仰遣一者也。謹言
    請貴命事
    右殿素(モトヨリ)存(ス)二慈性一。此仰為(ス)三小悅不(ス)ト 二レ少一早不(ス)レ論(せ)是非ヲ 一。誘テ 二彼母ヲ 一可(ヘキ)レ被レ令二舉(キヨ)-収せ 一者( ノ)_也。晉書ニ 云孟嘗(マウシヤウ)君夏五月ニ 生リ 。然トモ  無(シ)レ害。還テ 毎日ニ 饗シテ  二三千人ノ 客ヲ 一矣。王鎮(チム)五月ニ 生リ 於レ親有レ利云々。西京ノ 雜記ニ 云田父([文])五月生リ 。又王風([鳳])五月五日ニ 生(リ)。皆於二二親ニ 一無二耿害一云々。弟子随二管見ニ 一。注二進ス 之ヲ 一。引ニ 案ニ レ理ヲ 凢人ハ依テ 二宿業ニ 一不レ依二生月ニ 一且(カツ/\)察兎 レ之ヲ 一所望也。謹言
    
    高野山大学図書館藏『東山往来』 
    ※「田父」、「玉風」と記載する。他に「無二耿害一」と異なる。
    
    宮内庁書陵部蔵『東山往来』 
    ※「田父」、「玉鳳」と記載する。他に「無二選害一」と異なる。
    
  『壒囊鈔』巻一
    ・五月子(ゴ)ノ事[付吉例ノ事]
    △五月ニ生ルヽ子ハ二-親ニ不ルレ利アラ也ト云ハ實(マコト)歟(カ)○全ク無シ二其ノ證(せウ)還(カヘツ)テ吉例多シ。晉書(シンシヨ)云ク孟嘗(マウシヤウ)君(クン)五月ニ生レタリ。福-貴無(シ)レ比(タグヒ)毎-日ニ三千人ノ客ヲ饗(モテナ)ス。又王鎮(ワウチン)惡(アク)五月ニ於レ親ニ有リレ利西京雑記(せイケイサツ(キ))ニ云ク田文(テンブン)五月生リ 又王鳳(ワウホウ)五月五日ニ生ル。皆於テ二二-親ニ一有リレ孝云々更以テ無シ二凶事一。是夫婦共五月ノ子ヲ御座ス故ニ是((コ)レ)ヲ患(ウレ)ヘ給フ不レ苦事也。又寅ノ年ニテ御座ス寅年又嘉-例多ク侍リ。但シ五月ニ生タル必ス善ニモ不レ定。同寅レ歳モ定めテ善シトスヘカラス。人-間ノ善惡貧-福ハ皆先-業ニヨルト云リ。更ニ年月ニ不レ可レ依也。
 此の『東山往来』上卷に最初に所載する「五月子(ゴ)ノ事」の條を深く読み解き、觀譽自身が、相当に思いを膨らませていたことが右文の内容からも見てとれ、その一文を援用しつつ『壒囊鈔』に取り込み編集採録をしたことが見て取れる。茲で、『東山往来』写本が誤記した中国の人名「田文」、「王鳳」を悉く補正し、『東山往来』が「田父」「王風」と誤って記述することについても一切隠しきっている点を留意せねばなるまい。時代が降って、中国禅僧が帰化し、その情報網が格段に進捗していたことも重要なことにあるが、その典拠書名『晉書』『西京雑記(セイケイのザツキ)』そのものを繙くことも容易になっていたことが伺える箇所となっている。
 次に、『西京雑記』を以て検証しておくと、
      王-鳳以二五月五日ヲ一生ル。其ノ父欲兎レ不レ舉曰。俗-諺舉ケ二五-日ノ子長兎及フ寸ハレ户ニ則自害スト二不ル寸ハ則自害ス。其ノ父-母其叔父曰昔田-文以テ二此-日ヲ生ル其ノ父嬰(―)勑二其ノ母ニ一曰。勿レトレ舉。其母竊ニ舉レ之ヲ。後ニ爲二孟嘗君號兎二其母ヲ一爲ス二薛-公大-家ト一以二古事ヲ一推レ之。非スト二不-祥ニ一也。遂舉クレ之ヲ
とあって、「王鳳」「田文」の名を確認出来る。言わば、高野山大学図書館藏『東山往来』上卷の記載が誤記となっていることが明らかとなった。図書寮本も同じ。
  此の觀譽のさり気ないまでに『東山往来』を意識しつつ、五月生まれの偉人像を綿密に調査していく、漢土の○老子は九月十四日、○孔子は十一月四日
本邦の○上宮太子は正月一日、○傳教大師最澄は景雲元年丁未、○弘法大師は六月十五日、○智證大師圓珍は弘仁六年甲午、○法然上人源空僧都は長承二年癸丑、○葉上僧正榮西永治元年四月廿五日、○解脱上人貞慶は冬壽二年、○俊坊上人仁安元年、○明恵上人高弁承安三年、○聖一國師東福寺開山園尒房は建仁二年、○當寺(觀勝寺)大圓上人は建暦二年十二月廿二日などを茲に連ね記載する。
  此の「五月生まれ子忌み嫌う」の譚は、觀譽により『壒囊鈔』を以て糺されたことにもなるのだが、此の譚はその後もどのように継承されていくかを次に見定めていくことになろう。
    
    《補注》
    高野山大学図書館藏『東山往来』を翻刻し、その全貌を知らしめたのは、山内潤三先生『山野有智論集』〔一九九四(平成六)年十月刊〕所載翻刻資料であった。
    此の資料を改めて高野山大学図書館にて原本を以て、その資料調査を得た。その報告書は(ゼミ生干川智美さん、皆藤早耶歌さん両人協力)私家版にして世に送りだした(二〇〇五(平成一七)年刊)。此を本にして、吾人自身、二〇〇六(平成一八)年、全国大学國語国文学研究会冬季大会で口頭発表し、『色葉字類抄』が典拠とした徃來物―『東山徃來』の語彙を中心に比較検証―〔二〇〇七(平成一九)年「駒澤短大國文」掲載刊〕を以て提示している。此の折に両書の語句データベース〔エクセル版〕をも作成している。
    『壒囊鈔』については、川瀬一馬解説『壒囊鈔』〔古辞書叢刊影印資料、慶長十六年写本〕を底本に、日本古典全集の本文翻刻資料を以て、データベース化した資料を用いている。

コメント一覧

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補正 觀譽×〔誤り〕→行譽〔正す〕『壒囊鈔』編者のなまえ
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