駒澤大学「情報言語学研究室」

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ザゼン【坐禪】

2023-10-01 11:41:42 | 古辞書研究
2018/02/01 更新
ざ‐ぜん【坐禅・座禅】
萩原義雄記

小学館『日国』第二版当該語「ざぜん【坐禅】」【語誌】に、「日本では、挙例の『続日本紀』文武四(七〇〇年三月己未」に、入唐した道照(昭)が玄奘三蔵から禅を学んで帰朝した旨が記されており、これが坐禅のはじめである。」と記載が見え、そのあとに加えて、「中古に入って、天台宗の止観でも禅は重視された。中世の栄西・道元らの禅宗では、三学(戒学・慧学・定学)のうちもっぱら定学(禅定・坐禅)のみを仏道修行の方法とした。ただし、この場合の「坐禅」は、行住坐臥すべてを含む。」と記す。
さて、本邦古辞書での所載は、室町時代の広本『節用集』に始まり、刷り本系の饅頭屋本・易林本『節用集』にその継承痕を遺し、易林本と同じ、慶長年間に宗派(仏教語)を異にするキリシタン資料『日葡辞書』にもその所載を確認する。江戸時代の『書言字考節用集』が此れを承けている。茲で、『日国』に挙例する此の『日葡辞書』所載内容を改めて見ておくと、
Zajen.(ザゼン)禅宗僧(Ienxus)が観念・黙想すること.▼次条.〔邦訳840l〕
†Zajen.(ザゼン)観念・黙想.仏法語(Bup.).〔邦訳840R〕
※『邦訳日葡辞書』〔土井忠生・森田武・長南実翻訳、岩波書店刊〕参照。
※キリシタン資料『日葡辞書』〔カラー版影印資料、勉誠出版刊〕
Zajen.O meditar dos Lenxus.


と記載されている。上記【和訳】には、「禅宗僧」、「観念・黙想」の要語が見えていて、その存在語として記載されていても、その所作実践を充たす意義説明は見えない。
では、本邦古辞書の広本『節用集』(文明本)を頂点とする当該語「ザゼン【坐禅】」の諸例を見定めておくことにする。



()(ぜン)ユツル[]イル、シヅカ也 〔左部態藝門七九二頁2〕
とあって、標記語「坐禅」に字音「ザせン」〔朱字=漢音〕上字「坐」に和訓「イル」、下字「禅」に右訓「ユヅル」左訓「シヅカ也」と記載し、注記語は未記載とするといった至ってシンプルな所載となっている、單漢字「坐」の下位部別熟語としては、「坐立(ザリフ)」「坐()徹(テツ)」「坐()断(ダン)」「坐()像(ザウ)」の語群を示すものとなっていて、活用形態が意義説明より類語熟語群に重きを置くことがその記載差異となっている。続く刷り本系『節用集』も同様の形態を示す。やがて、江戸時代の『書言字考節用集』が編纂される。




坐禪(ザぜン) 濟北集―ハ者心之見儀容ヲ也。禪者見ル想想ヲ也。蓋名テ心之行相ヲ――ト[一]○詳要覧 〔卷十一言語門左部八二八頁7〕
となっていて、典拠資料名『濟北集』と『釋氏要覽』を引用し、その意義内容を語注記に説く編纂形態が見え始めている。

《補助資料》
小学館『日本国語大辞典』第二版
ざーぜん【坐禅・座禅】〔名〕仏語。端坐し、心の散乱を払い沈思黙念して無我の境に入り、悟りの道を求めること。背を伸ばしてすわり、右掌の上に左掌を置き、拇指と拇指を接して、半眼の姿勢をとる。多く禅宗で行なう修行法であるが、こうした形にかかわりなく、行住坐臥の一切をいうとする思想もある。禅。→結跏趺坐(けっかふざ)。*続日本紀ー文武四年〔七〇〇(文武四)〕三月己未「道照〈略〉還止住禅院坐禅故」*往生要集〔九八四(永観二)〜九八五(寛和元)〕大文二「有坐禅、有経行者」*平治物語〔一二二〇(承久二)頃か〕上・叡山物語の事「大師座禅に御胸痛むとき」*日葡辞書〔一六〇三(慶長八)〜〇四〕「Zajen(ザゼン)」*虎明本狂言・花子〔室町末〜近世初〕「ぢぶつだうへとりこもってざぜんをいたさうほどに七日七夜の隙をくれさしめ」*盤珪禅師法語〔一七三〇(享保一五)〕「坐禅は本心の異名にて、安座安心の義なり。坐の時は只坐したまま、経行の時は経行のまま也」*法華経ー分別功徳品「随義解脱此法華経、復能清浄持戒与柔和者而共同止、忍辱無瞋、志念賢固、常貴坐禅、得諸深定」【語誌】(1)仏教では坐禅は釈迦の成道に始まる。日本では、挙例の『続日本紀』文武四(七〇〇年三月己未」に、入唐した道照(昭)が玄奘三蔵から禅を学んで帰朝した旨が記されており、これが坐禅のはじめである。(2)中古に入って、天台宗の止観でも禅は重視された。中世の栄西・道元らの禅宗では、三学(戒学・慧学・定学)のうちもっぱら定学(禅定・坐禅)のみを仏道修行の方法とした。ただし、この場合の「坐禅」は、行住坐臥すべてを含む。【発音】〈標ア〉[ゼ][0]〈京ア〉[ザ]【辞書】文明・饅頭・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【坐禅】饅頭・易林・書言・ヘボン【獸禅】文明【座禅】言海

辞書と辞書を繋ぐための語内容―『東山往来』から『壒囊鈔』―へ

2023-08-01 09:53:37 | 古辞書研究

2006.02/23~2023/07/31 更新
   辞書と辞書を繋ぐための語内容
       ―『東山往来』から『壒囊鈔』へ―
                                                                          萩原義雄識
 はじめに
  古往来の語史研究は、次なる古辞書編纂へと継承され、平安時代末に成った『東山往来』は、当に写本類は稀少な資料だが、此の文言を示唆する後の語文辞書研究者が説きなしていく編纂作業経過を見事に書き綴っていることは古辞書編纂が如何に深く関与していた証しともなっている。

 既に吾人は、古往来、定深『東山往来』(『東山往来拾遺』)と三巻本『色葉字類抄』との聯関性について取りまとめてきた。だが、その視野を更に次の後人世代に拡張し、室町時代の文安二年(一四四五)に編まれた觀勝寺真言僧、觀譽『壒囊鈔』七冊へと移してきている。此の『壒囊鈔』は、鎌倉時代の問答体古辞書印融自筆書写『塵袋』と更に合冊され、『塵添壒嚢鈔』へと発展する。高野山大学図書館には、更に古い写しの『塵袋』が残存保存されているが、板状化し、初めの数葉は読めるのだがその全貌は今も読むことが出来ない。科学機器の進む今日、此を判読するシステムが投入され、その内容を読み取ることを俟つしかない。
 また、『壒囊鈔』が、その前年に成った東麓破衲編『下學集』の語内容を継承し、編纂していることも当代の資料情報が寺門宗派を問わず、人の知的情報を求めていくなかで風通しの良い環境化にあったことを知る手がかりともなっている。その『壒囊鈔』が「順ガ和名ニ」として数語に過ぎないのだが、平安時代の源順編纂の古辞書『和名類聚抄』にも目が届いていたことは、室町時代の古辞書編纂に基づく語史研究にとって、その書物情報が知的活動として流動していたことを解き明かす上でも重要な手がかりとなると吾人は推断した。

 その意味で、寺内保管書物はまだまだその全貌を明らかに仕切れていないと云わずにいられない。いずれ、本邦が今も誇る古辞書『和名抄』そのものからして、平安時代末から鎖され続け、公家皇族の保管資料と寺内保管資料との隔離が生じ、相互をつきあわせての見定めが許され、その聯関性を保ちながらもその内容が大きく分岐していった過程そのものを見定める時が「今にある」と考えていくその全貌へ辿りつく上での手がかりとなるに違いないと思う。
  言い換えれば、十巻本系統は、勤仕内親王のもとに献上がなされ、皇族什物書物の一つに加わった。とはいえ、後の藤原公任撰『倭漢朗詠集』のような和歌や漢詩を言語文化の基盤としてきた宮廷言語文化環境にあっては、この『和名抄』という博学な語集はそう高い評価を得られていなかったことも見て取れる。こんな思いが原作者の源順にあって、更なる「國郡名」「職官名」「藥香名」などを増補させるきっかけづくりにあったと見ている。その全貌こそが今の廿巻本系統であり、彼の手で新たに増補編纂され、その内容から元の『和名抄』より、その利用視野も国家統治のために欠かせない言語文化情報へと変容していた副産物とみて良かろう。その情報源は、元は聖武天皇以前の国分寺造営と大きな関わり以ていて、所領とその土地から得られる産物に至ることにも影響を及ぼし、人民の暮らしぶり、日本全土の所領名と領土開発への全貌にもなっている。言わば、地理や歴史の學問域に大いなる影響を与え続ける資料に変容していったことが看取できる。その意味から寺門と多くの学僧や修行僧が多くの知的情報を共有保持する一端を担ってきたことが古辞書の記載情報からも汲み取れるものとなっていることを信じたい。
 次に、古往来の始まりが『明衡徃來』(雲州往来)であるとする。此外にも『高山寺往来』『和泉往来』、そして此で取り扱ってきた定深『東山往来』が存在し、往来物資料が「消息」という個と個の往復状が基盤にあり、或る意味での「とひかけ」と「いらへ」と云った問答体資料であったことが、後人が読み解くとき、その知的情報量が計り知れないものだと云うことから人々が最も必用とする書簡伝達受容法を学ぶ資料へと発展し、後には、代表往来物資料と知られる『庭訓往来』として長い学びの書へと発展するそのきっかけを成す資料でもあった。
 此の『東山往来』『東山往来拾遺』の両書は、觀譽が新知的情報に転換するうえで、最も信頼し得て且つ欠かせない必用不可欠な『壒囊鈔』基盤素材資料であったことは慥かな点と言えよう。その問答形式の形態を活用し先に成った『塵袋』が書名冠頭化され、此の定深『東山往来』が古往来資料として『壒囊鈔』に多大な知的情報を促していながらその伝播活動が狭隘なこともあって、蔭を潜めてしまった点は、茲でも問わずにはいられない。觀譽はなぜに序跋として此を伝え遺すことを秘めてしまったのか、其人のみが知る扉を開けて、衆人の知る当代の知的情報を吾人なりに掘り起こしておいたものを紹介していくことにしたい。

 『東山往来』と『壒囊鈔』の聯関性
『東山往来』上卷第一
    第一
    言上 案内事
      右所言上一者(ハ)隣ノ 宅ニ 有レ女以昨日ヲ 一産リ 二男子ヲ 一。爰ニ 其母嘆(ナケイ)テ 曰ク鳴_呼五月ニ 生(ル)子ハ不―二利ナリ  二親ニ 一。仍テ 竊ニ 企(不示)作(ナス)ト 二捨隠之企ヲ 一云々。此事如_何齊月ニ 乍レ見此事ヲ 一若不レ加テ 二制止ヲ 一者尤成ム 二罪業ト 一。加_之彼_既ニ 男子ナリ  。叶(ヘ)リ 三樂之(ノ)一ニ 一。況乎生(レ)シ 時ニ 恵タリ  陽ヲ 一音辣徹(トホリ)レ雲ニ 奩相尤_足(レ)リ 。豈不レ惜哉。但至テ 二于不利之条ニ 一者未レ知二虚實ヲ 一。若无レ過(トカ)者欲レ令ト 二留養(ナハ)一復杉テ 舊記一可二仰遣一者也。謹言
    請貴命事
    右殿素(モトヨリ)存(ス)二慈性一。此仰為(ス)三小悅不(ス)ト 二レ少一早不(ス)レ論(せ)是非ヲ 一。誘テ 二彼母ヲ 一可(ヘキ)レ被レ令二舉(キヨ)-収せ 一者( ノ)_也。晉書ニ 云孟嘗(マウシヤウ)君夏五月ニ 生リ 。然トモ  無(シ)レ害。還テ 毎日ニ 饗シテ  二三千人ノ 客ヲ 一矣。王鎮(チム)五月ニ 生リ 於レ親有レ利云々。西京ノ 雜記ニ 云田父([文])五月生リ 。又王風([鳳])五月五日ニ 生(リ)。皆於二二親ニ 一無二耿害一云々。弟子随二管見ニ 一。注二進ス 之ヲ 一。引ニ 案ニ レ理ヲ 凢人ハ依テ 二宿業ニ 一不レ依二生月ニ 一且(カツ/\)察兎 レ之ヲ 一所望也。謹言
    
    高野山大学図書館藏『東山往来』 
    ※「田父」、「玉風」と記載する。他に「無二耿害一」と異なる。
    
    宮内庁書陵部蔵『東山往来』 
    ※「田父」、「玉鳳」と記載する。他に「無二選害一」と異なる。
    
  『壒囊鈔』巻一
    ・五月子(ゴ)ノ事[付吉例ノ事]
    △五月ニ生ルヽ子ハ二-親ニ不ルレ利アラ也ト云ハ實(マコト)歟(カ)○全ク無シ二其ノ證(せウ)還(カヘツ)テ吉例多シ。晉書(シンシヨ)云ク孟嘗(マウシヤウ)君(クン)五月ニ生レタリ。福-貴無(シ)レ比(タグヒ)毎-日ニ三千人ノ客ヲ饗(モテナ)ス。又王鎮(ワウチン)惡(アク)五月ニ於レ親ニ有リレ利西京雑記(せイケイサツ(キ))ニ云ク田文(テンブン)五月生リ 又王鳳(ワウホウ)五月五日ニ生ル。皆於テ二二-親ニ一有リレ孝云々更以テ無シ二凶事一。是夫婦共五月ノ子ヲ御座ス故ニ是((コ)レ)ヲ患(ウレ)ヘ給フ不レ苦事也。又寅ノ年ニテ御座ス寅年又嘉-例多ク侍リ。但シ五月ニ生タル必ス善ニモ不レ定。同寅レ歳モ定めテ善シトスヘカラス。人-間ノ善惡貧-福ハ皆先-業ニヨルト云リ。更ニ年月ニ不レ可レ依也。
 此の『東山往来』上卷に最初に所載する「五月子(ゴ)ノ事」の條を深く読み解き、觀譽自身が、相当に思いを膨らませていたことが右文の内容からも見てとれ、その一文を援用しつつ『壒囊鈔』に取り込み編集採録をしたことが見て取れる。茲で、『東山往来』写本が誤記した中国の人名「田文」、「王鳳」を悉く補正し、『東山往来』が「田父」「王風」と誤って記述することについても一切隠しきっている点を留意せねばなるまい。時代が降って、中国禅僧が帰化し、その情報網が格段に進捗していたことも重要なことにあるが、その典拠書名『晉書』『西京雑記(セイケイのザツキ)』そのものを繙くことも容易になっていたことが伺える箇所となっている。
 次に、『西京雑記』を以て検証しておくと、
      王-鳳以二五月五日ヲ一生ル。其ノ父欲兎レ不レ舉曰。俗-諺舉ケ二五-日ノ子長兎及フ寸ハレ户ニ則自害スト二不ル寸ハ則自害ス。其ノ父-母其叔父曰昔田-文以テ二此-日ヲ生ル其ノ父嬰(―)勑二其ノ母ニ一曰。勿レトレ舉。其母竊ニ舉レ之ヲ。後ニ爲二孟嘗君號兎二其母ヲ一爲ス二薛-公大-家ト一以二古事ヲ一推レ之。非スト二不-祥ニ一也。遂舉クレ之ヲ
とあって、「王鳳」「田文」の名を確認出来る。言わば、高野山大学図書館藏『東山往来』上卷の記載が誤記となっていることが明らかとなった。図書寮本も同じ。
  此の觀譽のさり気ないまでに『東山往来』を意識しつつ、五月生まれの偉人像を綿密に調査していく、漢土の○老子は九月十四日、○孔子は十一月四日
本邦の○上宮太子は正月一日、○傳教大師最澄は景雲元年丁未、○弘法大師は六月十五日、○智證大師圓珍は弘仁六年甲午、○法然上人源空僧都は長承二年癸丑、○葉上僧正榮西永治元年四月廿五日、○解脱上人貞慶は冬壽二年、○俊坊上人仁安元年、○明恵上人高弁承安三年、○聖一國師東福寺開山園尒房は建仁二年、○當寺(觀勝寺)大圓上人は建暦二年十二月廿二日などを茲に連ね記載する。
  此の「五月生まれ子忌み嫌う」の譚は、觀譽により『壒囊鈔』を以て糺されたことにもなるのだが、此の譚はその後もどのように継承されていくかを次に見定めていくことになろう。
    
    《補注》
    高野山大学図書館藏『東山往来』を翻刻し、その全貌を知らしめたのは、山内潤三先生『山野有智論集』〔一九九四(平成六)年十月刊〕所載翻刻資料であった。
    此の資料を改めて高野山大学図書館にて原本を以て、その資料調査を得た。その報告書は(ゼミ生干川智美さん、皆藤早耶歌さん両人協力)私家版にして世に送りだした(二〇〇五(平成一七)年刊)。此を本にして、吾人自身、二〇〇六(平成一八)年、全国大学國語国文学研究会冬季大会で口頭発表し、『色葉字類抄』が典拠とした徃來物―『東山徃來』の語彙を中心に比較検証―〔二〇〇七(平成一九)年「駒澤短大國文」掲載刊〕を以て提示している。此の折に両書の語句データベース〔エクセル版〕をも作成している。
    『壒囊鈔』については、川瀬一馬解説『壒囊鈔』〔古辞書叢刊影印資料、慶長十六年写本〕を底本に、日本古典全集の本文翻刻資料を以て、データベース化した資料を用いている。


うつぎ【卯木】―植物編語彙―

2023-05-01 14:13:41 | 古辞書研究

うつぎ【卯木】

 ここ、数日のあいだ咲き誇っている白き卯の花が目を惹き、身近な室内の花活けにしている。

       日本の歌「夏は来ぬ」の歌詞にも、「卯の花のにほふ垣根にほととぎす早も来鳴きて」と唱われてきている此の花は雪のように花弁を下向きにした白い可憐な花である。

       古への和歌に、
   『万葉集』 (臨時) 作者不明
  佐伯山 卯の花持ちし 愛(かな)しきが 手をし取りてば 花は散るとも

   『拾遺集』 (題しらず) 柿本人麿
  ほととぎす かよふ垣根の 卯の花の 憂きことあれや 君がきまさぬ

と詠われていて、この歌合いも時は流れて千年となって巡る季節の初夏を知らせる鳥、不如帰の来鳴き声と花の光りに映えるその白さとにざわつく世の声とは裏腹に心を落ちつかせてくれる卯の花が愛おしい。

 小学館『日本国語大辞典』第二版
うつ-ぎ【空木・卯木】〔名〕(1)(茎が中空であるところから名づけられたという)ユキノシタ科の落葉低木。各地の山野にふつうに生える。高さ一・五~三メートル。初夏、鐘形の白い五弁のうつぎ【卯木】UU077花が円

錐に集まって咲く。茎は中空。樹皮は淡褐色でうろこ状にはがれる。葉は対生し、先がとがった長卵形で、へりに浅い鋸歯(きよし)があり、裏には星状毛がある。実は球形でかたい。枝葉は煎じて黄疸(おうだん)の薬、せきの薬とする。材質はかたく、木釘とし、生垣や庭木としてもよく植えられる。卯月に咲くことから「うのはな」ともいう。かきみぐさ。ゆきみぐさ。学名Deutzia crenata ▼うつぎの花《季・夏》*本草和名〔九一八(延喜一八)頃〕「溲䟽 一名巨骨 一名楊櫨〈略〉一名空䟽 和名宇都岐」*俳諧・御傘〔一六五一(慶安四)〕五「卯(う)の花 木也。うつ木と斗しても夏なり」*日本植物名彙〔一八八四(明治一七)〕〈松村任三〉「ウツギ ウノハナ 溲䟽」(2)植物「こくさぎ(小臭木)」の異名。【語源説】幹の中がウツロであるから〔名語記・和句解・日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解・東雅・万葉考別記・名言通〕。ウツロギの義〔日本語原学=林甕臣〕。【発音】ウツギ〈なまり〉ウツゲ・オツギ〔飛騨〕ウヅゲ〔青森〕ウヅギ〔津軽語彙〕ウッツキ〔福岡〕〈標ア〉[0][ウ]〈ア史〉平安○●●〈京ア〉[ウ]【辞書】字鏡・和名・色葉・名義・下学・和玉・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【楊盧木】下学・文明・伊京・明応・天正・黒本・易林【溲䟽】和名・色葉・名義【楊櫨】色葉・名義・書言【櫨】和玉・饅頭【械・㭇・捨】字鏡【枇・槍】名義【卯木】ヘボン【空木】言海【図版】空木(1)
うつぎ【方言】〔名〕(1)植物、つつじ(躑躅)。《うつぎ》岡山県苫田郡748(2)植物、みやましぐれ(深山時雨)。《うつぎ》島根県簸川郡964(3)植物、にわとこ(接骨木)。《うつぎ》宮城県仙台市964(4)櫟(くぬぎ)の実。《うつぎ》予州†034


さる【猨】と【猿】

2023-03-20 12:15:17 | 古辞書研究

2023/03/18~19更新
 さる【猨】と【猿】―通字と俗字そして正字に―
                                                                          萩原義雄識

 はじめに
 平安時代の古辞書で動物(毛獸)門に分類される和語「さる」は、漢字表記するときに「猿」と「猨」の単漢字が用いられ、二字熟語漢字での表記は、「猨猴」乃至「猿猴」と用いていて、この字音訓みが「ヱンコウ」と記述され、軈て転音化して一般に於いても「えてこう」と呼称される。和語の方は、「さる」のほかに「ましら」とも呼称されていて、この人に近い「さる」は、関東では、同音語「去(さ)る」、関西では、「去(いぬ)る」として、寄席芝居などの観客を集めて興行する楽屋には、かたや「猿(さる)」、かたや「犬(いぬ)」をと忌み嫌う動物とされてきた。とは言え、「さる」は、日枝神社の守り神として祀られ、日本神話の『古事記』には「猨」「猿」を冠字とする「猨田彦大神(さるたひこのおおほかみ)」〔世界大百科事典の見出し〕、「猿(さる)田(た)彦(ひこ)大神(のおほかみ)」〔『古語拾遺』〕が登場する。
 ※猿女(さるめ)、猿楽(さるがく)などの〈猿〉は〈戯(さ)る〉で、「猿女(さるめ)」とは宮廷神事の滑稽なわざを演ずる俳優(わざおぎ)を意味する。
  さて、単漢字A「猨」とB「猿」の漢字はどのように用いてきたのだろうかを考えてみようと思う。そこで、先ずは、字典類から見ていくと、白川静著『字通』を基盤に繙いてみることする。
  『字通』
 常【猿】13画 4423
《異体字》  
 [蝯]15画 5214
 [猨]12画 4224
《字音》エン(ヱン)
《字訓》さる

《説文解字》

《字形形声》
声符は袁(えん)。正字は〔説文〕十三上に蝯に作り、爰声。「善く援(よ)づ。禺(ぐ)(母猴)の屬なり」とみえ、字はまた猿・猨に作る。
《訓義》
[1] さる、ましら。
《古辞書の訓》
〔名義抄〕猿 ワカサル/猨猴 サル
《語系》
 袁・爰hiuanは同声。袁は死者の襟もとに玉を加える形、爰は瑗玉を以て相援(ひ)く形。ともにまるい玉を用い、援引・攀援(はんえん)の意があり、声義が近い。猨は攀援の意をとるものであろう。
《熟語》
【猿引】えんいん  攀援。
【猿鶴】えん(ゑん)かく  猿と鶴。〔宋史、石揚休伝〕揚休、閑放を喜ぶ。平居猿鶴を養ひ、圖書を玩(もてあそ)び、吟詠自適す。
【猿戯】えんぎ  五禽戯の一。
【猿吟】えんぎん  猿嘯。
【猿嗛】えんけん  さるのほほ。
【猿肱】えんこう  猿臂。
【猿猴】えんこう  さる。
【猿酒】えんしゆ  猿ざけ。
【猿愁】えんしゆう  猿が哀しく鳴く。
【猿嘯】えんしよう(ゑんせう)  さるの声。唐・杜甫〔九日、五首、五〕詩 風急に天高くして、猿の嘯(な)くこと哀し 渚清く沙白くして、鳥飛び廻る
【猿心】えんしん  世俗の心。
【猿声】えん(ゑん)せい  さるの声。唐・李白〔早(つと)に白帝城を発す〕詩 朝(あした)に辭す、白帝(城)彩雲の閒 千里の江陵、一日に還る 兩岸の猿聲啼いて住(とど)まらざるに 輕舟已に過ぐ萬重(ばんちよう)の山
【猿猱】えんどう(ゑんだう) さる。てなが猿。唐・李白〔蜀道難〕詩 黄鶴(くわうかく)の飛ぶも、尚ほ過ぐることを得ず 猿猱、度(わた)らんと欲して、攀援(はんゑん)を愁ふ
【猿臂】えんび  猿の長い手。
【猿鳴】えんめい  猿の声。
《下接語》
哀猿・巌猿・窮猿・狂猿・吟猿・犬猿・猴猿・山猿・愁猿・心猿・蒼猿・啼猿・巴猿・飛猿・暮猿・夜猿・野猿・林猿・嶺猿・老猿

『康煕字典』
【蝯】[唐韻]雨元切[集韻]于元切並音袁[説文]禺属[広韻]蝯猴五百歳化為玃[爾雅釈獣]猱蝯善援[前感江都王建伝]繇王閩矦遺建荃葛珠璣犀甲翠羽蝯熊奇獣[玉篇]或作猨[説文徐鉉註]蝯別作猨非○按長箋言攀援如虫故入虫部然書冊所載或从虫或从犭不可偏廃今伹載爾雅漢書二条余从犭者別詳犬部
【猨】[広韻]雨元切[集韻]于元切並音袁[玉篇]似獼猴而大能嘯[蕣雅]猨猴属長臂善嘯便攀援故其字从援省或曰猨性静緩故从爰爰緩也論衡曰猨伏於鼠今人取鼠以繋猨頚猨不復動[史記李広伝]広為人長猨臂其善射亦天性也[司馬相如子虚賦]赤猨蠷蝚[後漢方術伝]五禽之戯四曰猨又[司馬相如子虚賦註]象俗呼為江猨又[玉篇]亦作蝯[集韻]本作蝯亦作猿𤝌𧳭
【猿】[広韻]雨元切[集韻][韻会]于元切並音袁[玉篇]俗猨字[戦国策]猿獼猴錯木拠水則不若魚鼈
『説文解字』
【蝯】善援禺屬从虫爰聲〈臣鉉等曰今俗別作猨非是兩元切〉

 A「猨」『古事記』『日本書紀』は、「猨田彦」「猨女」と表記する。
 B「猿」『日本書紀』に、人名「巨勢猿臣」、「猿晝」、「猿猶合眼歌」、「猿歌」と四種の語に用いる。
   C「蝯」『古事記』『日本書紀』未記載。

 1,『古事記』『日本書紀』に見える「さる」の漢字表記。
 2,『万葉集』は、諸写本のなかで、元暦校本『万葉集』だけが「猨」字を以て表記していて、後の書写本は、「猿」字を用いている。このなかで、訓みを助動詞「まし」に宛てているなかにあって、卷三の三四四番の大伴旅人の歌に「さる」の訓みを用いている。次に示す。
  ○痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見<者> 二鴨似
      あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
  3,『古語拾遺』〔龍門文庫蔵〕
 
    「猨女(サルメ)」、「溯女ノ君」「溯田彦」と両用表記にて記載する。

  観智院本『類聚名義抄』   
    猨猴 音園 サル[]/下ヱムコ[○・] 猨 通  猿 俗猨或/禾カサル 溯 音表又㽵〔佛下本一二七8〕
と云う、標記語熟字「猨猴」の次に単漢字「猨通」、「猿俗猨或/ワカサル」と此の単漢字二語を注記語を各々に記載する。此の両標記語を「通」と「俗」として明確に記述する。
  此の通と俗と識別は、『干禄字書』にも
    猿猨蝯  上俗中通下正今不行 〔平聲〕
とある箇所が「猿」俗字、「猨」通字として見合う。そして正字「蝯」、「今行わず」とあることで敢えて記載をしていない。

  室町時代の古辞書
  『要略字類抄』〔駒澤大学図書館蔵〕
  (エン)  サル俗云エン
     コウ  合呼猿
       侯ヲ也猨(エン)愨(エン)
       並同                         並同

 『運歩色葉集』に、
    ○(サル) ー曰山父一馬曰二山子一故畫掛厩別又有二故事一也。猴(同)。獼(同)。狙(同)。猱(同)。獱(同)。〔元亀二年本・獣名三七一8・9〕〔静嘉堂文庫本・獣名四五四5・6〕
    【訓読】
    ー(猿(サル))(猿)、山父曰く、「馬山子」とと曰ふ。故に畫を厩に掛け、別に又、故事有るなり〈也〉
とあって、字音語標記「猿猴」の語としては採録していない。

  『大廣益會玉篇』坤〔寛永八年版、架蔵本〕
    猱(ダウ)ナウ 乃刀切/獣ノ名サルノタグヒ〔玉廿三犬部三百六十四、七ウ3-2〕
    〓(タウ)〔犭+揀〕同上又/女交切サルノタグヒ〔玉廿三犬部三百六十四、七ウ3-3〕
    猴(コウ) 乎溝切/獼猴サル〔犬部三百六十四、七ウ3-4〕
    玃(カク) 居縛切/狙(サル)也〔犬部三百六十四、七ウ8-4〕
    𤣓 同上〔犬部三百六十四、七ウ8-5〕
    猨(エン) 于元切似(ニテ)レ猴(サル)ニ/能(ヨク)嘯(ウソフク)亦作蝯〔犬部三百六十四、八オ3-5〕
    猿(サル) 俗〔犬部三百六十四、八オ3-6〕
    
    獼(ミ) 武移切/獼猴サル〔犬部三百六十四、八オ6-3〕
    猕 同上〔犬部三百六十四、八オ6-4〕
    狙(ソ) 且余切玃属(サルノタグヒ)/犬暫齧人〔犬部三百六十四、八ウ3-1〕
    𤟠(シヨ) 音胥/猨属(サルノタグヒ)〔犬部三百六十四、八ウ6-6〕
    猻(ソン) 思昆切/猴猻(サルナリ)〔犬部三百六十四、八ウ7-5〕
    𤣓(タク) 徐卓切似レ獼/猴ニ而黄(キナリ)又作耀〔犬部三百六十四、九オ1-1〕
    狖(イウ) 羊就切/黒猿(クロキサル)〔犬部三百六十四、九ウ1-3〕
    㺠 同上〔犬部三百六十四、九ウ1-4〕
    獑(サン) 仕咸切獑猢/獣名似(ニタリ)レ猨(サル)ニ〔犬部三百六十四、九ウ2-1〕
    猚(ルイ) 音壘又音/袖似(ニタリ)レ猕猴ニ〔犬部三百六十四、九ウ3-1〕
とあり、十七種の単漢字が和語「サル」に関わるものとなっている。

 まとめ
  ここで、『干禄字書』、観智院本『名義抄』における「猨」通字、「猿」俗字という位置づけがどのように見定められ、こうしたなかにあって、三巻本『色葉字類抄』〔前田本〕が俗字の「猿」字を標記字にして編纂が行われ始め、あとの字類抄系の古辞書に受け継がれていって、その一種『要略字類抄』〔駒大図書館蔵〕を以て示しておいたが、世俗系の古辞書から現在の国語辞書の動物「さる」の見出語に「猿」字が定着していることを検証した。言わば『字類抄』以前の『和名抄』を原点とする古辞書には、やはり、「猨」字を標記字にすることもあり、この『和名抄』がずっと使用され、江戸時代には隆盛を極め、狩谷棭齋が世に『倭名類聚鈔箋注』を送り出すことがその頂点ともなっていたこともあり、この「猨」通字と「猿」俗字の使用頻度の均衡を保持しつづけてきていると考えている。
 このあと、両用漢字表記の現行実態を探ることにも努めたい。

《補助資料》
 小学館『日本国語大辞典』第二版
    さる【猿】〔名〕(1)霊長目のうちヒト科を除いた哺乳類の総称。動物学的には霊長目を総称していう。ヒトにつぐ高等動物で、大脳のほか色覚を含む視覚、聴覚が発達し知能の高いものが多い。顔が裸出し、目は前方に向かい、手と足で物を握ることができる。森林などで群をなしてすみ、木の葉、果実、昆虫などを食べる。ゴリラ、ヒヒ、クモザル、キツネザルなど一二科五八属一八一種がいる。原猿類と真猿類とに分けられ、後者はさらに広鼻猿類(新世界サル類)、狭鼻猿類(旧世界サル類)、類人猿類に区分される。日本にはニホンザル一種だけで、ふつうこれをさしていう。*日本書紀〔七二〇(養老四)〕皇極三年六月(北野本南北朝期訓)「人有りて、三輪山に猿(サル)の昼睡るを見る。竊に其の臂を執(とら)へて、其の身を害(そこな)はず」*万葉集〔八C後〕三・三四四「あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿(さる)にかも似る〈大伴旅人〉」*二十巻本和名類聚抄〔九三四(承平四)頃〕一八「猨 風土記云猨〈音園 字亦作猿 和名佐流〉善負子乗危而投至倒而還者也 兼名苑云一名獼猴〈彌侯二音〉文選云猿狖〈音友〉失木 唐韻云猴猻〈音孫 楊氏漢語抄云胡孫〉」*平家物語〔一三C前〕一・内裏炎上「山王の御とがめとて、比叡山より大きなる猿どもが二三千おりくだり」*観智院本類聚名義抄〔一二四一(仁治二)〕「猨猴 サル」*名語記〔一二七五(建治元)〕六「けだもののさる、如何。答、さるは、猿也。獼猴ともかけり」*虎明本狂言・靫猿〔室町末~近世初〕「『やい、あれはさるではなひか』『中々さるで御ざる』」(2)(1)を、すばしっこくずるいもの、卑しいもの、落ち着きのないものなどと見て、それに似た人をたとえていう語。(イ)ずるくて小才のきく者、またはまねのじょうずな者などを、あざけっていう語。*随筆・胆大小心録〔一八〇八(文化五)〕五五「今きけば、客は小ぬす人で、おやまは猿で、きき合せてあふ事じゃげな」*滑稽本・浮世床〔一八一三(文化一〇)~二三〕初・上「来る。あの野郎ァ達入(たていり)のねへ猿だぜ。見付けたら面の皮ァ引めくって呉べい」(ロ)野暮な者やまぬけな者をあざけっていう語。*歌舞伎・桑名屋徳蔵入船物語〔一七七〇(明和七)〕五「よい人質。あの海とんばうめを屋敷に留め置き、彼奴(きゃつ)めを猿にして紛れ者の詮議いたさう」*洒落本・文選臥坐〔一七九〇(寛政二)〕北廓の奇説「初会の座敷は廓通でもてれるもの、況んや山家の猿(サル)にをいてをや」(ハ)言語、動作の軽はずみで落ち着きのない者。*新撰大阪詞大全〔一八四一(天保一二)〕「さるとは ちょかちょかする人」(ニ)主として小者(こもの)、召使いなどを卑しめていう語。*浄瑠璃・傾城酒呑童子〔一七一八(享保三)〕三「どいつぞこい、さるめ、先へいて善哉餠いひ付よ」*浄瑠璃・本朝三国志〔一七一九(享保四)〕三「ごくに立たずののら猿の猿め猿めと異名を付け」(3)(浴客の垢(あか)を掻(か)くところから)江戸時代、湯女(ゆな)の別称。風呂屋女。垢かき女。*俳諧・大坂独吟集〔一六七五(延宝三)〕下「をのづから書つくしてよひぜんがさ 猿とゆふべの露は水かね〈未学〉」*浮世草子・好色一代女〔一六八六(貞享三)〕五・二「風呂屋者を猿といふなるべし。此女のこころざし風俗諸国ともに大かた変る事なし」*雑俳・三国市〔一七〇九(宝永六)〕「けいせいに・三すじたらいでさると成る」*随筆・異本洞房語園〔一七二〇(享保五)〕抄書「吉原を贔負(ひいき)する人は、風呂屋女に仇名つけて猿と云ひける也。垢をかくといふ心か」*浮世草子・渡世身持談義〔一七三五(享保二〇)〕五・二「或は廓より茶屋風呂屋の猿と変じて、垢をかきて名を流す女郎あり」(4)岡っ引き、目明しをいう江戸時代、上方の語。*俳諧・西鶴大矢数〔一六八一〕第一三「頭は猿与力同心召連て 此穿鑿に膓をたつ」*浪花聞書〔一八一九(文政二)頃〕「猿(サル)。江戸の目明し也」*随筆・皇都午睡〔一八五〇(嘉永三)〕三中「京摂の猿など呼役人を、(江戸で)岡っ曳」*俚言集覧(増補)〔一八九九(明治三二)〕「猿 江戸にて、目あかし、又、おか引と云ふ者を、大坂にて、猿と云ふ」(5)扉(とびら)や雨戸の戸締まりをするために、上下、あるいは横にすべらせ、周囲の材の穴に差し込む木、あるいは金物。戸の上部に差し込むものを上猿(あげざる)、下の框(かまち)に差し込むものを落猿(おとしざる)、横に差し込むものを横猿という。くるる。*雑俳・柳多留-一五三〔一八三八(天保九)~四〇〕「戸の猿は手長を防ぐ為に付け」*歌舞伎・月梅薫朧夜(花井お梅)〔一八八八(明治二一)〕六幕「思入あって下手入口の戸をしめ、さるをおろし」*思出の記〔一九〇〇(明治三三)~〇一〕〈徳富蘆花〉四・九「雨戸は一々さるを落して猶其上を閂(かんぬき)で押へ」( )自在かぎをつるす竹にとりつけ、自在かぎを上げて留めておく用具。多くグミの木で作る。小猿(こざる)。(7)小さい紙片を折り返して括猿(くくりざる)のような形をつくり、その中央に穴をあけ、揚げた凧(たこ)の糸に通して、凧の糸目の所までのぼり行かせるしかけの玩具。*随筆・嬉遊笑覧〔一八三〇(天保元)〕六・下「のぼせたる凧の糸にとをし糸をしゃくり上れば凧の糸めの処まで上り行なり。是を猿をやるといふ」(8)ミカンの実の袋を糸毛でくくって、(1)の形をこしらえる遊び。*浮世草子・好色一代男〔一六八二(天和二)〕六・一「過にし秋、自が黒髪をぬかせられ、猿(サル)などして遊びし夜は」(9)江戸時代、針さしのこと。*雑俳・折句袋〔一七七九(安永八)〕「憎まれて居る針箱の猿」(10)「さるばい(猿匐)」の略。*俚言集覧〔一七九七(寛政九)頃〕「猿匐(サルハヒ) 碁勢にあり。又猿とばかりも云」(11)盗人仲間の隠語。(イ)囚人。〔隠語輯覧{一九一五(大正四)}〕(ロ)犯罪密告者。〔隠語輯覧{一九一五(大正四)}〕(ハ)私娼。〔特殊語百科辞典{一九三一(昭和六)}〕【方言】(1)密告者。《さる》奈良県675(2)額を受けるくぎに当てたり、幟(のぼり)の下隅に下げたりする三角形の小さな布の袋や人形。《さる》島根県725香川県与島014(3)鴨猟(かもりょう)に使う網の枠の竹に取り付けた網の滑りをよくするための竹の輪。《さる》新潟県蒲原364(4)おけ状の甑(こしき)でものを蒸す時、底の気孔を覆うのに用いる小ざる。《さる》長崎県壱岐島914(5)戸障子の骨。《さる》福島県中部155(6)手掘り石油井の側板。《さる》新潟県361(7)労働用の腰ばかま。《さる》島根県石見725(8)山仕事などをする時に着る上着。《さる》長野県飯田012(9)そでなし。胴着。《さる》愛知県北設楽郡062島根県益田市(ひも結び)725広島県賀茂郡782大分県大分郡941(10)樹木の皮。《さる》島根県石見725(11)槇(まき)の実。《さる》山口県吉敷郡・厚狭郡794(12)小豆など豆につく虫。《さる》奈良県678島根県那賀郡・江津市725(13)虫、てんとうむし(天道虫)。《さる》三重県飯南郡586兵庫県加古郡664神戸市665岡山県邑久郡(小児語)761大分県東国東郡940(14)虫、かまきり(蟷螂)。《さある》沖縄県宮古島975《さあるうぐゎあ》沖縄県島尻郡975【語源説】(1)獣の中では知恵が勝っていることから、マサル(勝)の意〔和訓栞〕。(2)「サ」は「サハグ」、「サハガシ」の意の古語。「ル」は語助〔東雅〕。(3)「サルル(戯)」ものであるところから〔大言海〕。(4)「サアリ(然有)」の約「サリ」の音便。物真似の意から転じた〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。(5)怒った様子を表わすことによって、人を威嚇するところから、「シカレル」の反〔名語記〕。(6)「サトリアル(智有)」の義〔日本語原学=林甕臣〕。(7)食物などを「サラヘ取ル」から、「サラフ(凌)」の義〔名言通〕。(8)さわる所へ取り付くところから、「サハル(触)」の中略。また、木からぶらりとさがるところから、「サガル」の中略か〔和句解〕。(9)人を見ると立ち「サル(去)」ものであるから〔本朝辞源=宇田甘冥〕。(10)「サルダヒコ(猿田彦)」の神に似ているところから〔古事記伝〕。(11)馬と共に猿を飼えば、馬の病気を砕くことができるということから、マル(馬留)の転〔言元梯〕。(12)猴の義の「サン(猻)」の語尾変化〔日本語原考=与謝野寛〕。(13)アイヌ語で猿をいうサロ、または「サルウシ」からか。「サルウシ」は尻尾をもつの意〔国語学叢録=新村出〕。【発音】〈なまり〉サー〔鳥取〕サール〔新潟頸城・鹿児島方言〕サイ〔熊本分布相・鹿児島方言〕シャル〔熊本分布相〕サッ〔鹿児島方言〕サリ〔石川・鳥取〕サン〔大隅〕シヤル〔飛騨〕〈標ア〉[サ]〈ア史〉平安・室町・江戸○◐〈京ア〉[ル]【辞書】字鏡・和名・色葉・名義・和玉・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【猿】和名・色葉・和玉・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・書言・ヘボン・言海【猨】和名・色葉・和玉・易林・書言【獼】字鏡・和玉・文明【狙】色葉・和玉・書言【獼猴】色葉・名義【狖・猱】色葉・和玉【蝯】和玉・易林【猴】文明・易林【胡孫】色葉【猨猴】名義【猻・玃・㹳・𤠙・貁】和玉【猿猴】伊京【王孫・獮猴】書言【図版】猿(5)
    ましら【猿】〔名〕「さる(猿)」の異名。*古今和歌集〔九〇五(延喜五)~九一四(延喜一四)〕雑体・一〇六七「わびしらにましらななきそあしひきの山のかひあるけふにやはあらぬ〈凡河内躬恒〉」*御伽草子・猿の草子〔室町末〕「此猿〈略〉弓、まり、包丁、詩歌、管絃、ひとつもかくる事なく、器用のましら也」*日葡辞書〔一六〇三(慶長八)~〇四〕「Maxira (マシラ)。歌語。サル」*読本・椿説弓張月〔一八〇七(文化四)~一一〕前・一二回「盃の数もややかさなりて、顔をば狙猴(マシラ)のごとくなしつつ」【語源説】(1)梵語から〔和訓八例・嘉良喜随筆・名言通〕。梵語「マカタ(摩期吒)」の転か、また、猿の古名「マシ」に助辞「ラ」の付いたものか〔大言海〕。梵語マシラ(摩斯吒)から〔立路随筆〕。(2)「マ」は暦の「サル(申)」の字から、「シ」は助字。「ラ」は等の義〔関秘録・和訓栞(増補)〕。(3)「マサル」の転か〔外来語の話=新村出〕。他の動物よりすぐれているところから、「マサル(勝)」の義〔和句解〕。(4)「マシリアカ(真尻赤)」の義〔日本語原学=林甕臣〕。(5)「マシ(馬守)ラ」の義〔言元梯〕。(6)「マサル(真猿)」の転〔雅言考〕。(7)猿が人間に転生した伝説をもつ摩頭羅国の「マツラ」からか〔南方熊楠全集〕。【発音】〈標ア〉[0][マ]〈京ア〉[0]【辞書】日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【猿】書言・ヘボン・言海

〈その他〉
『猨山(ヱンザン)商売往来(シヤウバイワウライ)』周暁〔安永五年奥書〕
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100408434/manifest


うるしむろ【漆屋】

2023-03-06 11:58:34 | 古辞書研究

関係者の皆さま
 本日(20230304)は貴重なお時間を頂戴でき、なおかつ有意義な情報交流が交わせたこと感謝申し上げます。
 今日の吾人のお話しのなかで、標記語【窨】が廿巻本には未収載なのに、十卷本にはあって、これが観智院本『類聚名義抄』法下62に収載することを伝えています。(吾人のブログ「チームルーム」に詳細情報を記載)

 『日国』第二版の「うるし【漆】」の見出語を国研語彙素コードの研究調査として、小学館からご提供が適って、そのデータ資料を駆使してみてみたとき、和語「うるしむろ【窨】」の語がはたと目につきました。

 類語「うるしや」「つちむろ」も併せつつ検証しておくことの必要性を感じています。
 日本文化芸術に欠かせない「漆」の古語「うるしむろ」のことばの役割がまだ上手く伝えられていないことに氣づかされました。塗師にとって欠かせない建造物が此の「うるしむろ」です。
 海外の方からも『日国』には上手く伝えられない日本語の古典語として、疑問の指摘がなされないようにしたいと思うばかりです。

うるしむろ【窨】の補足
名古屋市立博物館蔵『倭名類聚抄』卷第十五
 △調度部第二十下

 ○膠着具第二百の最末尾の標記語として、

 「漆屋ウルシムロ)」〔92オ2〕

と収載している。

 他写本では、「膠着具」の語群のなかに、此語は標記語としては、廿巻本『倭名類聚抄』、十巻本『和名類聚抄』には未収載の語だが、十巻本『和名抄』の標記語「窨」の注記語に「一云漆屋」と記載を見る語となっている。

 当然、廿巻本『倭名類聚抄』の古写本高山寺本は同じく「一云漆屋也」として収載することは重要なところでもある。

 名博『和名抄』の所載は、原書『和名抄』を見定めるうえで大きな手がかりをここに遺しているようだ。

 名博『和名抄』解題者は、榎英一さん、267頁下段末に元京大教授木田章義さんのお名前があって、此の名博寫本が草稿本ではないかと推測している旨を記述する。
 今回の当該語「漆屋」(ウルシムロ)の所載状況については、議論を重ねていくところとなろう。萩原義雄蔵