立川銅山(10) 「神野旧記」(3)「新居郡立川山村里正年譜」
立川銅山(8) 金子村山師 弥一左衛門こと眞鍋八郎右衛門
立川銅山(7) 海部屋平右衛門は、創始者海部屋権右衛門の孫であった
立川銅山(3) 海部屋平右衛門は 寛文11年~延宝2年に堺の銅貿易商だった
立川銅山(1) 龍河神社の古狛犬の寄進は 天保8年服部平右衛門だった
享保期の廻銅船は、忠七船、庄五郎船、勘右衛門船の3船であった
からみ・鍰の由来(22) 万延元年南部藩主に尾去沢銅山で鉑つぶしの女たちが披露した「石からみ節」
からみ・鍰の由来(20) 「から(絡)む」は南部藩鹿角方言で「打つ、叩く、殴る」
からみ・鍰の由来(19)中岳山頂の赤穂氏奉斎の石碑で、「満矩」の確認はできず
からみ・鍰の由来(17) 柄実(がらみ)説
からみ・鍰の由来(15) 赤穂満矩は南部藩四角岳鉱山の支配中、不老倉鉱山の総山中
理系の退職者
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