多田銀銅山のかたけ吹の内容について知りたい。多田銀銅山の銅製錬法に付いて書かれた史料は、奉勤要用帳三に書き写された寛延2年(1749)の「鉑石吹様之次第」が最も古いものである。1)以前のブログで引用した「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増」(以下荒増と略)の図と「吹屋之図」があるが、描かれた年代がはっきりしない。よって寛文6年(1666)頃に多田銀銅山のほとんどの吹屋が行っていた「かたけ吹」を推定する史料は、83年後の寛延2年(1749)「鉑石吹様之次第」しかない。以下にこの関連部分を写した。→2)図1.2.
なおこの文書には、かたけ吹とは一切書かれていないが、これがかたけ吹であるかを探っていく。
寛延2巳年7月(1749) 摂州川辺郡多田銅山覚書
多田銅山役人 藤井庄左衛門 市田与右衛門 秋山珎蔵
摂州川辺郡・能勢郡・豊島郡山方有之村々、古来より銀山支配に被仰付候、村方御割替被仰付候えば、山稼有之御運上場所之旨御窺被成、銀山付に被仰付候先格に御座候
・銀山御役所 多田銅山役人 市田与右衛門 秋山珎蔵
・山下御役所 多田銅山役人 藤井庄左衛門
中略
鉑石吹様之次第
但鉑石1駄は36貫目に御座候
(鉑焼)
・鉑石細に砕き篩にて通し置き、鉑焼窯へ入れ焼申候、この仕様焼窯およそ鉑石5駄より3駄位まで焼候積り、まず右の釜へ松木34~5貫目並べ、その上へ炭4貫目俵半俵程並べ、また上へ松木を一通り火蓋に並べ置き、その上へ砕き候鉑石の荒き分6分ほど入れ置き、また中木を14貫目程並べ、その上へ細かなる鉑石を置き、右の炭へ火を掛け、さて翌日釜の上に古莚または古菰にても掛け置き、夏なれば7日程、冬なれば6日程に冷め申候
(鉑吹(=素吹))
・右釜より取出し候鉑石、1升枡にて1駄を4杯5合に計り、1杯の掛目(36/4.5=8貫目)1日吹右枡に6杯(8×6=48貫目)、この掛目48貫目、この床数4吹に吹立申候
・炭を粉にいたし白土汁にて練り、地を窪め吹床を拵え、夜八つ時より炭をくべ焼立て、翌朝六つ時より吹掛け申候、床の内へ炭を1杯入れ吹立、その上へ鉑石を乗せ吹き候えば、湯に成り床の内へ流れ入り申候、1時余り吹候て辛味(からみ)と申すかすをかき捨て申候、そのあと鈹と申す物に成り候、これを1枚ずつ剥ぎ上げ申候、底に床尻と申候て銅1枚出来候、またはこれ無き事も御座候、これは鉑石の善悪により不同御座候
(真吹)
・右鈹と申す物を真吹床と申にてまた吹申候、これもどぶと申すかす出で候を取除き、半時ばかり吹候えば銅に成り申候、これを真吹銅と申候、右床は鉑吹床同前に御座候 但し鉑吹床と申すは前素吹床の事に候
(合吹)
・右鉑吹の床尻銅と真吹銅と一緒にいたし、銅10貫目程に鉛2貫目程、または銀滴り有之ものには鉛3貫目ほど入れまた吹き申候、これを合吹(あわせふき)と申候、銅は合せ銅と申候
(南蛮吹)
・右合銅を難波床を申す床にてまた吹き申候、この床はよき赤土と炭の灰とにてよく塗り堅め、上に1尺四方の吹床を拵え、それより吹き候前へ、坂のごとくにいたし置き吹候えば、右坂の如く成る所へ、地黄煎(じおうせん 下り飴)のごとくに成り流れ出申候、これを生松木にて押し戻し候えば、次第々に下の溜りへ銀鉛一緒に成り出申候、これを紐鉛と唱え候、全体銅の内に含み居り申候銀を、鉛相誘い一緒に成り流れ出申候也、かくのごとく銀鉛をよく鉸り取り候跡を鉸り銅と唱え候て、全て銅に成り申候
(灰吹)
・右鉸り出候紐鉛を灰吹床と申すにて吹き申候、この灰吹床拵え様は、よき土を塗り堅め丸く穴の如くいたし候、その底に鍋をいけ込置き申候て、紺屋の灰を入水にて練り堅め焼き、また砕き候て藁の灰と合わせ水嚢にて篩い、右床の内へ入れ、すべ帚にてよく押し固め、真ん中を瓢箪にて窪め置き、右の紐鉛をくべ吹き候えば、鉛は右灰へ吸い取り、真中の窪め候所へ銀ばかり残り止り申候、これを灰吹銀と申し、全て上銀に御座候
(ルカス流し吹)
但し、鉛の分は石灰へ吸い取り灰中に止り申候、この灰鉛一緒に成り候をルカス(留粕)と唱え申候、この灰鉛をわけ候には、ルカス流し吹と申すを致し候わば鉛とれ申し候えば、多分合吹につかい申候
右の通段々に吹申候、取り掛り候時刻は夜八つ時より鉑床拵え・[素吹ともいう也]鉑吹・真吹・合吹・南蛮吹・灰吹まで1日仕廻と申すにいたし候えば、翌日1日吹候て夜に入り四つ時までに吹仕廻申候、これより鉑吹と真吹と合吹まで1日に仕廻い置き、翌日南蛮吹・灰吹と仕候て2日仕廻に仕候時は、夜八つ時より床拵え仕り、明け六つ時より吹掛り、昼すぎ八つ時までに仕廻い申候
但し御運上銅は真吹銅にて取立申候
右の通に御座候、以上
寛延2巳年7月(1749)摂州川辺郡多田銅山役人 藤井庄左衛門 市田与右衛門 秋山珎蔵
解釈と考察
1. 「吹屋之図」と「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増」が描かれた年代と内容について
猪名川町史には、「「荒増」は、「鉑石吹様之次第」の写しで、第2条目に寛延2年当時と「荒増」の成立時期では、鉑吹1回当たりの鉑石高が増えているという意味の但し書きが付されている部分以外は、ほぼ同文である。」とある。2)筆者はこの内容を調べた。
「荒増」には、(鉑吹(=素吹))「右釜より取出し候鉑石、1升枡にて1駄を4杯5合に計り、1杯の掛目1日吹右枡に6杯、この掛目48貫目、この床数4吹に吹立申候」 に続いて「但し、古来は右の通にて吹立申候えども、文政(1818~1829)度の頃より大吹と唱え、鉑石3駄この掛目108貫目、1日分4吹に吹立申候」が挿入されている。則ち寛延2年では吹立1日分は48貫目であったのが、文政年では108貫目に増えていることを記している。また「吹屋之図」と「荒増」の素吹の図に書かれた文で見ると「銅鉑は、焼鉑1駄半(54貫目)ずつ1日に吹立申候」とどちらも同じ文面であり、寛延2年の48貫目から54貫目に増えている。2)以上のことから、井澤英二・青木美香が「吹屋之図」の描かれた年は、17世紀初頭の可能性があるとしているが3)、それほど古くはなく、寛延2年より後の可能性がある。
2. 「 鉑石吹様之次第」は「かたけ吹」を記したものか
「 鉑石吹様之次第」の工程で、「生野銀山秘録」との違いは、以下のとおりである。
①鉑焼(焙焼)をしている。
②素吹と真吹を分けていて、素吹から床尻銅を、真吹から真吹銅(平銅)を取り出している。
③床尻銅と真吹銅と鉛で合吹をしている。
「生野銀山秘録」に記された製錬方法は前々報で述べたように明和~天保のものと推定されるので、「 鉑石吹様之次第」の方が古い。また前報より多田銀銅山は「かけたけ吹」の発祥の地であった可能性が高い。よって寛文6年(1666)頃に多田銀銅山のほとんどの吹屋が行っていた「かたけ吹」と同じかそれの進化したものが、83年後の寛延2年(1749)「鉑石吹様之次第」ではないであろうか。
かたけとは、「銀かたけ」であり、銀を含む銅鉱石(斑銅鉱(Cu5FeS4)、黄銅鉱(CuFeS2)など)から、鉑焼→素吹→真吹→合吹→南蛮吹→灰吹で、銀かたけと鉸り銅を得る方法が「かたけ吹」であると筆者も今結論したい。
既に昭和29年、小葉田淳は「生野銀山史の研究」の中で、「かたげ吹は、かたげ吹・なんば(南蛮)吹・灰吹の3工程を一連とする吹方で、運上銀の基準となる床1挺という場合に、この3床をあわせていう。「銀銅山覚書」の「吹屋之次第」に「かたげ吹・なんば吹・灰吹、此3ヶ所床一挺前也」と記し、また「生野銀山吹方入用」に「床 1挺前の入用を内訳して、以上の3床を含めている。かたげ吹の床は大床とよぶ。」」と記している。そしてその手順として、「生野銀山秘録」に記された方法を示している。4)
多田銅山でも文政(1818~1829)度の頃より大吹と唱えとあり、生野銀山のかたけ吹きの床は大床と呼ぶに対応している。生野銀山の、素吹と真吹を一つの床で続けて行うとか、合吹に相当する工程を塗込と称して、石銀(PbS)と留粕(PbO)を使うこととかが、かたけ吹の特徴かと思ったが、そうではないことが、多田銅山の「鉑石吹様之次第」をみてわかった。そこは小さな違いであり、かたけ吹→南蛮吹→灰吹で銀かたけと鉸り銅を得る方法が「かたけ吹」なのである。
まとめ
1. 寛延2年(1749)の摂州川辺郡多田銅山覚書のなかの「鉑石吹様之次第」が、寛文6年(1666)頃に多田銀銅山のほとんどの吹屋が行っていた「かたけ吹」を推定する最も古い史料である。この「次第」中にはかたけ吹きとは書かれておらず、また寛文6年ごろの手法と同じかどうかはわからなかったが、かたけ吹といってもよいと考えられる。
2. 多田銀銅山は生野銀山と違って、鉑焼、素吹と真吹の分離、合吹をしている。
3. どちらの銀銅山も 南蛮吹と灰吹を行っている。
4. 2は小さな違いであり、かたけ吹とは、銀を含む銅鉱石から、(鉑焼→)素吹→真吹→合吹→南蛮吹→灰吹で、銀かたけと鉸り銅を得る方法を広く指すものであると筆者も今結論したい。
注 引用文献
1. 奉勤要用帳三:幕末期の銀山役人秋山良之助が編集した「元文2年(1737)から宝暦6年(1756)にかけて銅山の稼方や役人の勤方などを時々の代官に届け出た書類」である。
猪名川町史5 多田銀銅山資料編(小嶋正亮執筆)p642~649(猪名川町 平成3年12月 1991)
2. 猪名川町史5 多田銀銅山資料編(小嶋正亮執筆)p808~809
3. 「気ままな推理帳」江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(7)(2020.4.5)
この中に素吹の図あり。
井澤英二 青木美香「多田銀銅山の採鉱・選鉱・製錬技術-『摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増』と『吹屋之図』の考察を中心として-」 猪名川町文化財調査報告書5 「多田銀銅山遺跡(銀山地区)詳細調査報告書 p171(猪名川町教育委員会 2014.3)
4. 「気ままな推理帳」山下吹(3)生野銀山のかたけ吹とは?(2020.7.31)
図1. 摂州川辺郡多田銅山覚書の中の鉑石吹様之次第-1(猪名川町史5より)
図2. 摂州川辺郡多田銅山覚書の中の鉑石吹様之次第-1(猪名川町史5より)
なおこの文書には、かたけ吹とは一切書かれていないが、これがかたけ吹であるかを探っていく。
寛延2巳年7月(1749) 摂州川辺郡多田銅山覚書
多田銅山役人 藤井庄左衛門 市田与右衛門 秋山珎蔵
摂州川辺郡・能勢郡・豊島郡山方有之村々、古来より銀山支配に被仰付候、村方御割替被仰付候えば、山稼有之御運上場所之旨御窺被成、銀山付に被仰付候先格に御座候
・銀山御役所 多田銅山役人 市田与右衛門 秋山珎蔵
・山下御役所 多田銅山役人 藤井庄左衛門
中略
鉑石吹様之次第
但鉑石1駄は36貫目に御座候
(鉑焼)
・鉑石細に砕き篩にて通し置き、鉑焼窯へ入れ焼申候、この仕様焼窯およそ鉑石5駄より3駄位まで焼候積り、まず右の釜へ松木34~5貫目並べ、その上へ炭4貫目俵半俵程並べ、また上へ松木を一通り火蓋に並べ置き、その上へ砕き候鉑石の荒き分6分ほど入れ置き、また中木を14貫目程並べ、その上へ細かなる鉑石を置き、右の炭へ火を掛け、さて翌日釜の上に古莚または古菰にても掛け置き、夏なれば7日程、冬なれば6日程に冷め申候
(鉑吹(=素吹))
・右釜より取出し候鉑石、1升枡にて1駄を4杯5合に計り、1杯の掛目(36/4.5=8貫目)1日吹右枡に6杯(8×6=48貫目)、この掛目48貫目、この床数4吹に吹立申候
・炭を粉にいたし白土汁にて練り、地を窪め吹床を拵え、夜八つ時より炭をくべ焼立て、翌朝六つ時より吹掛け申候、床の内へ炭を1杯入れ吹立、その上へ鉑石を乗せ吹き候えば、湯に成り床の内へ流れ入り申候、1時余り吹候て辛味(からみ)と申すかすをかき捨て申候、そのあと鈹と申す物に成り候、これを1枚ずつ剥ぎ上げ申候、底に床尻と申候て銅1枚出来候、またはこれ無き事も御座候、これは鉑石の善悪により不同御座候
(真吹)
・右鈹と申す物を真吹床と申にてまた吹申候、これもどぶと申すかす出で候を取除き、半時ばかり吹候えば銅に成り申候、これを真吹銅と申候、右床は鉑吹床同前に御座候 但し鉑吹床と申すは前素吹床の事に候
(合吹)
・右鉑吹の床尻銅と真吹銅と一緒にいたし、銅10貫目程に鉛2貫目程、または銀滴り有之ものには鉛3貫目ほど入れまた吹き申候、これを合吹(あわせふき)と申候、銅は合せ銅と申候
(南蛮吹)
・右合銅を難波床を申す床にてまた吹き申候、この床はよき赤土と炭の灰とにてよく塗り堅め、上に1尺四方の吹床を拵え、それより吹き候前へ、坂のごとくにいたし置き吹候えば、右坂の如く成る所へ、地黄煎(じおうせん 下り飴)のごとくに成り流れ出申候、これを生松木にて押し戻し候えば、次第々に下の溜りへ銀鉛一緒に成り出申候、これを紐鉛と唱え候、全体銅の内に含み居り申候銀を、鉛相誘い一緒に成り流れ出申候也、かくのごとく銀鉛をよく鉸り取り候跡を鉸り銅と唱え候て、全て銅に成り申候
(灰吹)
・右鉸り出候紐鉛を灰吹床と申すにて吹き申候、この灰吹床拵え様は、よき土を塗り堅め丸く穴の如くいたし候、その底に鍋をいけ込置き申候て、紺屋の灰を入水にて練り堅め焼き、また砕き候て藁の灰と合わせ水嚢にて篩い、右床の内へ入れ、すべ帚にてよく押し固め、真ん中を瓢箪にて窪め置き、右の紐鉛をくべ吹き候えば、鉛は右灰へ吸い取り、真中の窪め候所へ銀ばかり残り止り申候、これを灰吹銀と申し、全て上銀に御座候
(ルカス流し吹)
但し、鉛の分は石灰へ吸い取り灰中に止り申候、この灰鉛一緒に成り候をルカス(留粕)と唱え申候、この灰鉛をわけ候には、ルカス流し吹と申すを致し候わば鉛とれ申し候えば、多分合吹につかい申候
右の通段々に吹申候、取り掛り候時刻は夜八つ時より鉑床拵え・[素吹ともいう也]鉑吹・真吹・合吹・南蛮吹・灰吹まで1日仕廻と申すにいたし候えば、翌日1日吹候て夜に入り四つ時までに吹仕廻申候、これより鉑吹と真吹と合吹まで1日に仕廻い置き、翌日南蛮吹・灰吹と仕候て2日仕廻に仕候時は、夜八つ時より床拵え仕り、明け六つ時より吹掛り、昼すぎ八つ時までに仕廻い申候
但し御運上銅は真吹銅にて取立申候
右の通に御座候、以上
寛延2巳年7月(1749)摂州川辺郡多田銅山役人 藤井庄左衛門 市田与右衛門 秋山珎蔵
解釈と考察
1. 「吹屋之図」と「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増」が描かれた年代と内容について
猪名川町史には、「「荒増」は、「鉑石吹様之次第」の写しで、第2条目に寛延2年当時と「荒増」の成立時期では、鉑吹1回当たりの鉑石高が増えているという意味の但し書きが付されている部分以外は、ほぼ同文である。」とある。2)筆者はこの内容を調べた。
「荒増」には、(鉑吹(=素吹))「右釜より取出し候鉑石、1升枡にて1駄を4杯5合に計り、1杯の掛目1日吹右枡に6杯、この掛目48貫目、この床数4吹に吹立申候」 に続いて「但し、古来は右の通にて吹立申候えども、文政(1818~1829)度の頃より大吹と唱え、鉑石3駄この掛目108貫目、1日分4吹に吹立申候」が挿入されている。則ち寛延2年では吹立1日分は48貫目であったのが、文政年では108貫目に増えていることを記している。また「吹屋之図」と「荒増」の素吹の図に書かれた文で見ると「銅鉑は、焼鉑1駄半(54貫目)ずつ1日に吹立申候」とどちらも同じ文面であり、寛延2年の48貫目から54貫目に増えている。2)以上のことから、井澤英二・青木美香が「吹屋之図」の描かれた年は、17世紀初頭の可能性があるとしているが3)、それほど古くはなく、寛延2年より後の可能性がある。
2. 「 鉑石吹様之次第」は「かたけ吹」を記したものか
「 鉑石吹様之次第」の工程で、「生野銀山秘録」との違いは、以下のとおりである。
①鉑焼(焙焼)をしている。
②素吹と真吹を分けていて、素吹から床尻銅を、真吹から真吹銅(平銅)を取り出している。
③床尻銅と真吹銅と鉛で合吹をしている。
「生野銀山秘録」に記された製錬方法は前々報で述べたように明和~天保のものと推定されるので、「 鉑石吹様之次第」の方が古い。また前報より多田銀銅山は「かけたけ吹」の発祥の地であった可能性が高い。よって寛文6年(1666)頃に多田銀銅山のほとんどの吹屋が行っていた「かたけ吹」と同じかそれの進化したものが、83年後の寛延2年(1749)「鉑石吹様之次第」ではないであろうか。
かたけとは、「銀かたけ」であり、銀を含む銅鉱石(斑銅鉱(Cu5FeS4)、黄銅鉱(CuFeS2)など)から、鉑焼→素吹→真吹→合吹→南蛮吹→灰吹で、銀かたけと鉸り銅を得る方法が「かたけ吹」であると筆者も今結論したい。
既に昭和29年、小葉田淳は「生野銀山史の研究」の中で、「かたげ吹は、かたげ吹・なんば(南蛮)吹・灰吹の3工程を一連とする吹方で、運上銀の基準となる床1挺という場合に、この3床をあわせていう。「銀銅山覚書」の「吹屋之次第」に「かたげ吹・なんば吹・灰吹、此3ヶ所床一挺前也」と記し、また「生野銀山吹方入用」に「床 1挺前の入用を内訳して、以上の3床を含めている。かたげ吹の床は大床とよぶ。」」と記している。そしてその手順として、「生野銀山秘録」に記された方法を示している。4)
多田銅山でも文政(1818~1829)度の頃より大吹と唱えとあり、生野銀山のかたけ吹きの床は大床と呼ぶに対応している。生野銀山の、素吹と真吹を一つの床で続けて行うとか、合吹に相当する工程を塗込と称して、石銀(PbS)と留粕(PbO)を使うこととかが、かたけ吹の特徴かと思ったが、そうではないことが、多田銅山の「鉑石吹様之次第」をみてわかった。そこは小さな違いであり、かたけ吹→南蛮吹→灰吹で銀かたけと鉸り銅を得る方法が「かたけ吹」なのである。
まとめ
1. 寛延2年(1749)の摂州川辺郡多田銅山覚書のなかの「鉑石吹様之次第」が、寛文6年(1666)頃に多田銀銅山のほとんどの吹屋が行っていた「かたけ吹」を推定する最も古い史料である。この「次第」中にはかたけ吹きとは書かれておらず、また寛文6年ごろの手法と同じかどうかはわからなかったが、かたけ吹といってもよいと考えられる。
2. 多田銀銅山は生野銀山と違って、鉑焼、素吹と真吹の分離、合吹をしている。
3. どちらの銀銅山も 南蛮吹と灰吹を行っている。
4. 2は小さな違いであり、かたけ吹とは、銀を含む銅鉱石から、(鉑焼→)素吹→真吹→合吹→南蛮吹→灰吹で、銀かたけと鉸り銅を得る方法を広く指すものであると筆者も今結論したい。
注 引用文献
1. 奉勤要用帳三:幕末期の銀山役人秋山良之助が編集した「元文2年(1737)から宝暦6年(1756)にかけて銅山の稼方や役人の勤方などを時々の代官に届け出た書類」である。
猪名川町史5 多田銀銅山資料編(小嶋正亮執筆)p642~649(猪名川町 平成3年12月 1991)
2. 猪名川町史5 多田銀銅山資料編(小嶋正亮執筆)p808~809
3. 「気ままな推理帳」江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(7)(2020.4.5)
この中に素吹の図あり。
井澤英二 青木美香「多田銀銅山の採鉱・選鉱・製錬技術-『摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増』と『吹屋之図』の考察を中心として-」 猪名川町文化財調査報告書5 「多田銀銅山遺跡(銀山地区)詳細調査報告書 p171(猪名川町教育委員会 2014.3)
4. 「気ままな推理帳」山下吹(3)生野銀山のかたけ吹とは?(2020.7.31)
図1. 摂州川辺郡多田銅山覚書の中の鉑石吹様之次第-1(猪名川町史5より)
図2. 摂州川辺郡多田銅山覚書の中の鉑石吹様之次第-1(猪名川町史5より)
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