気ままな推理帳

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立川銅山(3) 海部屋平右衛門は 寛文11年~延宝2年に堺の銅貿易商だった

2022-03-06 08:31:24 | 趣味歴史推論
 立川銅山の4人目の山師として、渡海屋平左衛門(とかいやへいざえもん)が挙げられているが、ネット検索では、全く情報が得られなかった。そこで、本を探した結果、有力な情報が得られた。
 住友修史室の泉屋叢考に、立川銅山開抗から別子銅山開坑までの立川銅山稼行者については、「今のところ唯一つ神野家の記録に、立川銅山は慶安元年(1648)に始まったとして、間鍋氏に至る迄の同山稼行者5人の名を挙げ、4人目を大阪の海部屋平右衛門(かいふやへいえもん)、最後の5人目を同じく大坂屋吉兵衛としているので、---」とある。1)
この「海部屋平右衛門」の注に「神野家記録では渡海屋平左衛門とある」とあり、筆者は混乱するのであるが、この「海部屋平右衛門」をネット検索したら、1件見つかった。

1. 白柳秀湖著「住友物語」に、寛永15年(1638)幕府により許可された22人の銅貿易商の一人として、「堺 海部屋平右衛門」が、泉屋理兵衛、大坂屋久左衛門、そして熊野彦三郎らと共に「古来銅屋株御免之名前」に記されていた。2)3)
寛永15年とは、かなり早くから海部屋が銅貿易をしていることになる。この記述の信頼性を疑い調べた。

 泉屋叢考は、この記述を詳しく検討していた。4)この記述の元は、「銅吹屋仲間由緒書」であるが、銅貿易の禁止、解禁の年や記述に矛盾があり、挙げられている泉屋3人の名前や年齢、役割から考えて矛盾があることを指摘している。この由緒書は、旧記紬調して宝暦13年(1763)に大坂屋久左衛門智清と丸銅屋次郎兵衛正徳が記し、住友が文政3年(1820)に写したものである。5)これに「垂裕明鑑」の編者はつられ、白柳秀湖も依ったのである。
22人の名前が出てきた根拠は、延宝6年(1678)に決定された銅名代所有者15人に加え6)、それ以前の廃業者7人を加えたものであると泉屋叢考は結論している。由緒書には延宝2年(1674)の廃業者4人の一人として、「堺 海部屋平右衛門」が記されている。
貞享5年(1688)「銅異国賣人数16人之年来之覚」の開業時期からみると、寛永中あるいはそれ以前の開業者は、確実なところで、泉屋、大坂屋、平野屋(太刀屋、銭屋は、家が亡んだ)に過ぎなかった。
以上のことから、「海部屋平右衛門が銅貿易商の免許を得たのは、寛永15年(1638)である」は間違いであることがわかった。また延宝2年(1674)には、廃業したこともわかった。
後世からの由緒書には不確実な記載があるので、(由緒正しい、古くから権利を持っているなどを示すために)、注意が必要である。

2. 次に海部屋平右衛門が実際に銅貿易をしていた時期や規模の記録を探した。
(1)幕府は、貨物輸入額が増大し金銀流出を抑えるため、寛文12年(1672)貨物市法商賣法を施行した。銅輸出業者は貨物の輸入業を兼営し外貨を購入していたので、寛文12年度は前年買物高に応じ以下のような貨物銀高の割当を受けた。7)貨物銀高は、銅輸出高とは無関係であった。
 表1. 寛文12年銅商売人の銅売高と貨物銀高
             銅売高(斤)     貨物銀高
 京   布袋屋加兵衛    26,000      24貫200目
    帯屋六兵衛     49,000      29貫900目
 同   糸屋治兵衛     50,000       26貫400目
 同   紣屋徳左衛門    108,900      21貫200目
 同   海部屋平右衛門   82,500      26貫400目
 同   銭屋喜兵衛     352,700      29貫900目
 大坂  塚口屋與右衛門   112,600       24貫200目
 同   塩屋小兵衛     50,600        4貫目
 同   銅屋善兵衛     59,000       1貫500目
 同   平野屋平兵衛    150,400      29貫300目
 同   大坂屋小左衛門   273,371       26貫400目
 同   泉屋平八      134,400      26貫400目
 同   泉屋長十郎     272,629      32貫500目
 同   泉屋與九郎      402,200      29貫900目

(2)「銅異国賣覚帳」中の「子丑両年(寛文12年(1672)延宝元年(1673))銅屋中より長崎へ銅下し高」覚書8)→図1
 表2. 銅屋の長崎への銅下し高
                   寛文12年(斤)   延宝元年(斤)
 増田屋弥左衛門         12,400        29,900
 山形屋弥右衛門                    29,000
 塩屋小兵衛           62,500        154,600
 徳岡與次兵衛                     62,500
 銅屋半左衛門          111,450        164,050
 平野屋長兵衛          401,926        356,000
 銭屋喜兵衛+大坂屋小左衛門   847,126        328,400
 泉屋(與九郎・平八・長十郎) 1,336,829        940,400
 熊野屋彦三郎                    349,600
 塚口屋與右衛門        170,800
 海部屋平右衛門        165,350        174,050
 紣屋徳左衛門           165,600        101,000

(1)によれば、寛文12年の貨物銀高は前年の実績によって割当てられたとあるので、海部屋平右衛門は寛文11年(1671)に銅貿易をしていたことがわかる。表2によれば、銅貿易額は中堅であるといえる。延宝元年(1673)に確かに銅貿易をしていたことがわかる。
これと先の廃業年を考慮すると、海部屋平右衛門は、少なくとも寛文11年(1671)~延宝2年(1674)の期間は銅貿易免許を有し、銅商をしていたと結論される。
開業は、寛文11年より前と思われるが、証拠となる文書がない。

3. 以上のことから、海部屋平右衛門は、羽振りのよかった寛文11年(1671)~延宝2年(1674)の間、立川銅山山師となったと筆者は推定する。3人目の熊野彦四郎が止めた年が前報によれば寛文10年であるので、妥当である。また銅貿易を廃業した延宝2年には、5人目の大坂屋に譲渡したのではないかと思う。廃業は、立川銅山の経営状態と関係があったのであろうか。
 海部屋平右衛門が銅貿易を廃業したあとは、どうなったのであろうか。「海部屋平右衛門」では見つからなかったが、「海部屋-------」では、以下のものが見つかった。
① 海部屋市左衛門 「銅異国賣覚帳」に元禄7年(1694)12月16日附の泉屋平兵衛より海部屋市左衛門へ銅名代譲渡願書が見えている。9)
② 海部屋市左衛門(堺) 正徳2年(1712)銅屋16人の一人として見える。元禄元年(1688)および元禄7年(1694)に見えない。10) 
③ 海部屋儀平(出羽立石銅)
  海部屋権七(陸奥獅子沢銅 京橋6丁目)
  海部屋徳兵衛(獅子沢銅 京橋6丁目)
の3人が、銅問屋 正徳2年(1712)~4年(1714)に見える。11)
 銅問屋は、山元の荷主(銅山師)から銅荷物を受け取り、大坂で買い手(銅吹屋、のちには銅座)に渡し、代価を荷主に送り、所定の手数料を取得する。
④ 海部屋与一兵衛(南堀江4丁目)が 銅問屋 元文3年(1738)に見える。12)
これらの人は、平右衛門と同族と推定するが、規模はやや小さそうである。

4. 海部屋と渡海屋とは、どうような関係にあったのであろうか。ほとんど同じ史料と思われるものに、二つの名前が見られるのはなぜか。渡海屋という屋号からは、瀬戸内海の海運問屋にも思える。海部屋の銅や貨物を運んだのが、渡海屋なのか。立川銅山請負人としての単なる名義人かもしれない。海部屋平右衛門を本家とするなら、渡海屋平左衛門は、分家なのか。「海部」という屋号から、平右衛門は阿波の出身ではなかろうか。
本ブログでは、4人目の山師として「海部屋平右衛門」を採用した。

まとめ
 4人目の山師 海部屋平右衛門は、寛文11年~延宝2年に堺の銅貿易商だった。この間に、立川銅山山師となったと推定した。         

注 引用文献
1. 泉屋叢考 第13輯「別子銅山の発見と開発」p11(住友修史室 昭和42年 1967)
2. web. 白柳秀湖「住友物語」大阪毎日新聞 1931.1.1-1931.2.13(昭和6年 1931)
3. 白柳秀湖著「住友物語」p60(千倉書房 昭和6年 1931)
4.  泉屋叢考 第8輯「近世前記の銅貿易株と住友」p11~29(住友修史室 昭和31年 1956)
5. 4のp6
6. 熊野屋彦太郎が延宝3年に銅貿易商に公認されたので、16人である。
7.  泉屋叢考 第9輯「近世前記に於ける銅貿易と住友」p42(住友修史室 昭和32年 1957)
8. 4のp30 →図1
9. 4のp30
10. 今井典子「近世日本の銅と大坂銅商人」p38(思文閣 2015)
11. 10のp43
12. 10のp44

図1. 「銅異国賣覚帳」の長崎への銅下し高(寛文12年、延宝元年)泉屋叢考第8輯より



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