切上り長兵衛が働いていた当時の立川銅山の状況に興味がある。切上り長兵衛は、なぜ立川銅山山師に、峰を超えた所の鉱床の有望性を話さなかったのかを推理してみたいのである。
「別子開坑二百五十年史話」には、以下の記述がある。
「新居郡立川村庄屋神野家の文書には、立川山村は寛永13年以来、西条藩主一柳侯の領地であって、領内最初の稼行請負人は、西条在の戸左衛門であると記録されている。いくばくもなく、その稼行を土佐の寺西喜助に譲り、さらに、紀州の熊野屋彦四郎、大坂の渡海屋平左衛門、大坂屋吉兵衛と時に中絶しながら、請負人は転々として変わった。領主もまたかわって寛文5年に一柳侯は除封となり、同10年紀州藩の分家松平頼純侯がその後を承けた。別子開坑の元禄4年、立川銅山は松平侯の支配、大坂屋吉兵衛請負の時代だったが、翌5年大坂屋吉兵衛は没落して、新居郡金子村の眞鍋弥一右衛門が新たに稼ぐことになったのである。」
寛永の開坑から元禄4年までの名前が書かれている請負人は以下のとおりである。
① 西条 戸左衛門
② 土佐 寺西喜助
③ 紀州 熊野屋彦四郎
④ 大坂 渡海屋平左衛門
⑤ 大坂 大坂屋吉兵衛
この人たちの存在を知るべくインターネット検索したところ、④の渡海屋平左衛門には、追加の情報が見つかった。それは、坪井利一郎が「立川銅山関係遺産として、龍河神社の階段参道に渡海屋平左衛門が寄進した狛犬がある。また、一宮神社参道には立川銅山師たちが寄進した灯篭がある。」と記していたことである。1)
早速、龍河神社(りゅうかわじんじゃ)に確認に行った。その古い狛犬は参道の二の鳥居のそばにあった。この鳥居には、「奉寄進 氏子中 安永八亥年九月吉日」とある。→写真1,2
狛犬は体長60cm、盤台は32cm径25cm高、台座は57cm四角32cm高である。狛犬と盤台はかなり劣化が進んでいるが、台座は花崗岩で比較的良好であり、その刻字は読めて、次のとおりである。
拝殿に向かって右の狛犬の台座 →写真3
于時天保八丁酉八月吉日 (ときに てんぽうはち ひのととり はちがつきちじつ)
左の狛犬の台座 →写真4
願主 服部平右衛門政胤 (がんしゅ はっとりへいえもん まさたね)
「亍」は、于の異体字。
願主の服部平右衛門は、天保元年(1830)~天保8年(1837)の別子銅山支配人である。2)
台座の取り換えは、寄進者が別子銅山の長なので、ありえない。安永8年(1779)に建立された鳥居の脇に、天保8年(1837)狛犬が据えられたと考えるのが妥当である。渡海屋平左衛門とは関係がなかった。
まとめ
龍河神社の古い狛犬は、天保8年(1837)に別子銅山支配人の服部平右衛門が寄進したものである。
注 引用文献
1. 坪井利一郎「旧別子銅山案内を読む」の中の「立川銅山」の項目(2017.2)
web. 新居浜市立図書館>別子銅山・住友>講座「別子銅山を読む」>平成28年度講座第5回「旧別子銅山案内」
2. 住友別子鉱山史(別巻)p235(住友金属鉱山 平成3年 1991)
写真1. 龍河神社の二の鳥居と古い左右の狛犬
写真2. 左の狛犬と鳥居
写真3. 右の狛犬の台座
写真4. 左の狛犬の台座
「別子開坑二百五十年史話」には、以下の記述がある。
「新居郡立川村庄屋神野家の文書には、立川山村は寛永13年以来、西条藩主一柳侯の領地であって、領内最初の稼行請負人は、西条在の戸左衛門であると記録されている。いくばくもなく、その稼行を土佐の寺西喜助に譲り、さらに、紀州の熊野屋彦四郎、大坂の渡海屋平左衛門、大坂屋吉兵衛と時に中絶しながら、請負人は転々として変わった。領主もまたかわって寛文5年に一柳侯は除封となり、同10年紀州藩の分家松平頼純侯がその後を承けた。別子開坑の元禄4年、立川銅山は松平侯の支配、大坂屋吉兵衛請負の時代だったが、翌5年大坂屋吉兵衛は没落して、新居郡金子村の眞鍋弥一右衛門が新たに稼ぐことになったのである。」
寛永の開坑から元禄4年までの名前が書かれている請負人は以下のとおりである。
① 西条 戸左衛門
② 土佐 寺西喜助
③ 紀州 熊野屋彦四郎
④ 大坂 渡海屋平左衛門
⑤ 大坂 大坂屋吉兵衛
この人たちの存在を知るべくインターネット検索したところ、④の渡海屋平左衛門には、追加の情報が見つかった。それは、坪井利一郎が「立川銅山関係遺産として、龍河神社の階段参道に渡海屋平左衛門が寄進した狛犬がある。また、一宮神社参道には立川銅山師たちが寄進した灯篭がある。」と記していたことである。1)
早速、龍河神社(りゅうかわじんじゃ)に確認に行った。その古い狛犬は参道の二の鳥居のそばにあった。この鳥居には、「奉寄進 氏子中 安永八亥年九月吉日」とある。→写真1,2
狛犬は体長60cm、盤台は32cm径25cm高、台座は57cm四角32cm高である。狛犬と盤台はかなり劣化が進んでいるが、台座は花崗岩で比較的良好であり、その刻字は読めて、次のとおりである。
拝殿に向かって右の狛犬の台座 →写真3
于時天保八丁酉八月吉日 (ときに てんぽうはち ひのととり はちがつきちじつ)
左の狛犬の台座 →写真4
願主 服部平右衛門政胤 (がんしゅ はっとりへいえもん まさたね)
「亍」は、于の異体字。
願主の服部平右衛門は、天保元年(1830)~天保8年(1837)の別子銅山支配人である。2)
台座の取り換えは、寄進者が別子銅山の長なので、ありえない。安永8年(1779)に建立された鳥居の脇に、天保8年(1837)狛犬が据えられたと考えるのが妥当である。渡海屋平左衛門とは関係がなかった。
まとめ
龍河神社の古い狛犬は、天保8年(1837)に別子銅山支配人の服部平右衛門が寄進したものである。
注 引用文献
1. 坪井利一郎「旧別子銅山案内を読む」の中の「立川銅山」の項目(2017.2)
web. 新居浜市立図書館>別子銅山・住友>講座「別子銅山を読む」>平成28年度講座第5回「旧別子銅山案内」
2. 住友別子鉱山史(別巻)p235(住友金属鉱山 平成3年 1991)
写真1. 龍河神社の二の鳥居と古い左右の狛犬
写真2. 左の狛犬と鳥居
写真3. 右の狛犬の台座
写真4. 左の狛犬の台座
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