「からむ」は、方言で「物で打つ」を意味するという「からみ・鍰の由来(18)」中の情報の根拠を探した。
1. 内田武志著「鹿角方言集」(1936)1)
カラム ①鉱石を鎚で叩き砕く(尾去沢)
②綱や棒で殴る
カラメル なし
2. 大里武八郎「鹿角方言考」(1953)2)→図
から-む 絡む(他動) 打つ
普通の意味「巻きつける、からめる」の外に、ここにては、打つ、たたく、殴るの意に常用す。けだし、弾力の強く細き杖や綱の先端などにて強く打てば、絡はり付く様になるより、転用するに至りたるなるべし。「からみつける」ともいうことあり。更に語勢を強むるときは、「ぶっからむ」、「ぶからむ」、「ふからむ」などという。この「ぶ」は「ひっぱたく」の「ひ」と同様の接頭語なり。
尾去沢鉱山にて今の様に機械力を利用せざりし頃には、鉱石を鉄鎚にて叩き砕きこれを「からむ」といえり、この作業に唄いしは有名なる「からめ節」なり。「からめからめとおやぢがせめる、何ぼからンでもからみたてアならぬ」
3. 日本国語大辞典(2001)3)
から・む [絡・搦]
①[自マ五(四)] からまる
②[他マ五(四)] からめる
③[他マ下二]→からめる
「方言」①結ぶ。包む。縛る。 青森県三戸郡 新潟県佐渡
②畑を耕す。 岩手県上閉伊郡 気仙郡
③タバコ畑の二回目の耕作をする。 山形県東村山郡・北村山郡
④作物に土寄せをする。山形県東村山郡・西村山郡
⑤打つ。殴る。 青森県南部 秋田県鹿角郡
⑥麦などの実を打ち落とす。 青森県三戸郡 岩手県気仙郡
⑦山の斜面を横に行く。また、谷に降りずに斜面を迂回する。 秋田県雄勝郡 福島県耶麻郡 新潟県中蒲原郡・北
4. 「秋田方言」(1929)4)
からむ、からめる 記載なし
考察
鹿角出身の大里武八郎が、「からむは、ここ鹿角にては、打つ、たたく、殴る の意に常用す」と記していることから、広く使われていた方言であることがわかる。
内田武志は、「綱や棒で殴る」としているが、「綱で殴る」とは、特徴的な行為である。それを受けて、大里武八郎は、弾力の強く細き杖や綱の先端などにて強く打てば、絡はり付く様になるので、「絡む」を転用するに至ったに違いないと由来を推定している。
日本国語大辞典の「からむ」において、細字で書かれた「方言」の項を、筆者は今まで見落としていた。「絡む」の方言例としては、奥羽地方ばかりで、関西にはない。「絡む」が「打つ、殴る、麦などの実を打ち落とす」の意味で使われた地域は、南部藩である。
麦、大豆、小豆、菜種、粟などの穀物を収穫乾燥させた後、むしろの上に広げて殻竿(からさお・唐竿ともいう)で打ち、実を落とす脱穀作業をする。この打つ動作を「からむ」と言うと理解される。殻竿は、長い竹竿の先端に、回転する短い棒を取り付けた形状をした農機具である。殻竿が発明される前は、綱や細棒などで、この動作をしていたのではないだろうか。
この農作業は、「からむ」が鉱山用語となった江戸初期よりはるか昔から行われていたから、「からむ」は鉱山用語が元ではないことは明らかである。
よって、鉱山用語「からむ、からめる」は、南部藩の方言を元として、南部藩鹿角の尾去沢銅山から全国に伝わったと推定できる。
「至宝要録」は秋田藩の院内、阿仁鉱山をもとに元禄に書かれたものである。「秋田方言」には、「からむ・からめる」は記載されていなかったが、元禄期には、南部藩から鉱山関係者には伝わっていたのではなかろうか。
まとめ
「からむ、からめる」は、「打つ、叩く、殴る」を表す南部藩鹿角の方言である。
注 引用文献
1. 内田武志著「鹿角方言集」p51(刀江書院 昭和11年1936)
web. 国会図書館デジタルコレクション 35コマ
web. 鹿角人物事典 p34(鹿角市教育委員会 2020)より
「内田武志(うちだたけし)」(1909~1980) 民俗学と菅江真澄の研究者
尾去沢鉱山の修三とサトの二男として八幡平宮川村に生まれる。本名は武。内田家の先祖は尾去沢鉱山が盛岡藩直営となった際の山内支配人の内田九平衛富涛である。武は幼少の頃、父修三の勤務地・碇発電所社宅に住んでいた。大正12年鎌倉に転居するが、関東大震災で家が全壊し、1年後に静岡へ移転した。まもなく静岡商業学校に入学するも血友病を発病して退学、この頃詩人の蒲原有明の知遇を得て、柳田国男・渋沢敬三の指導の下に民俗学の研究を続ける。昭和5年『民俗学』に「年中行事・鹿角郡宮川村地方」を初めて発表し、昭和11年『鹿角方言集』を刊行した。20年戦争の激化により、母方の大叔母の嫁ぎ先である郷里毛馬内の高橋家に疎開、毛馬内町長の伊藤良三と出会い、菅江真澄研究に没頭したという。昭和21年妹ハチとともに秋田市に転居、柳田国男・渋沢敬三の賛助を得て「菅江真澄研究会」を設立した。のち真澄研究の集大成ともいわれる『菅江真澄全集』(全13巻)、『菅江真澄遊覧記』などを出版、真澄研究の第一人者と評される。武志が病床に伏したまま研究を続けられたのは、妹ハチの献身的援助によるところが大きいといわれる。昭和29年ハチとともに秋田市文化章、42年県の文化功労章、50年柳田国男賞を受賞。享年71歳。
2. 大里武八郎「鹿角方言考」p78(鹿角方言考刊行会 昭和28年 1953)→図
web. 鹿角人物事典p37(鹿角市教育委員会 2020)より
「大里武八郎(おおさとぶはちろう)」(1872~1972)名著『鹿角方言考』の著者
花輪町長大里寿の四男として生まれる。花輪小学校卒業後上京、一高、東京帝大に進み法学士となった。一高時代、民俗学者柳田国男と同窓で、親交があった。明治38~41年の3回、内藤湖南に随行し清国調査に当たった。42年臨時台湾旧慣調査員となり台湾に渡り、大正元年には台湾総督府法院判官に任ぜられ、台湾の各地方法院を歴任した。昭和8年には台北地方法院長になり、10年に退官した。退官後は花輪に帰郷し、若年より関心の高かった鹿角方言の研究に没頭した。そして、昭和28年花輪を中心とする鹿角地方の方言の意味・語源等を調べて、学術的・民俗的に評価の高い『鹿角方言考』を発刊した。小学館の『日本国語大辞典』には『鹿角方言考』から多くが収録されている。享年100歳。花輪町名誉町民第一号の栄誉を受けた。
3. 日本国語大辞典第二版(小学館 2001)
4. 秋田県学務部学務課編「秋田方言」(出版 秋田県学務部学務課 昭和4年 1929)
web. 国会図書館デジタルコレクション
図 大里武八郎「鹿角方言考」の「からむ」の項
1. 内田武志著「鹿角方言集」(1936)1)
カラム ①鉱石を鎚で叩き砕く(尾去沢)
②綱や棒で殴る
カラメル なし
2. 大里武八郎「鹿角方言考」(1953)2)→図
から-む 絡む(他動) 打つ
普通の意味「巻きつける、からめる」の外に、ここにては、打つ、たたく、殴るの意に常用す。けだし、弾力の強く細き杖や綱の先端などにて強く打てば、絡はり付く様になるより、転用するに至りたるなるべし。「からみつける」ともいうことあり。更に語勢を強むるときは、「ぶっからむ」、「ぶからむ」、「ふからむ」などという。この「ぶ」は「ひっぱたく」の「ひ」と同様の接頭語なり。
尾去沢鉱山にて今の様に機械力を利用せざりし頃には、鉱石を鉄鎚にて叩き砕きこれを「からむ」といえり、この作業に唄いしは有名なる「からめ節」なり。「からめからめとおやぢがせめる、何ぼからンでもからみたてアならぬ」
3. 日本国語大辞典(2001)3)
から・む [絡・搦]
①[自マ五(四)] からまる
②[他マ五(四)] からめる
③[他マ下二]→からめる
「方言」①結ぶ。包む。縛る。 青森県三戸郡 新潟県佐渡
②畑を耕す。 岩手県上閉伊郡 気仙郡
③タバコ畑の二回目の耕作をする。 山形県東村山郡・北村山郡
④作物に土寄せをする。山形県東村山郡・西村山郡
⑤打つ。殴る。 青森県南部 秋田県鹿角郡
⑥麦などの実を打ち落とす。 青森県三戸郡 岩手県気仙郡
⑦山の斜面を横に行く。また、谷に降りずに斜面を迂回する。 秋田県雄勝郡 福島県耶麻郡 新潟県中蒲原郡・北
4. 「秋田方言」(1929)4)
からむ、からめる 記載なし
考察
鹿角出身の大里武八郎が、「からむは、ここ鹿角にては、打つ、たたく、殴る の意に常用す」と記していることから、広く使われていた方言であることがわかる。
内田武志は、「綱や棒で殴る」としているが、「綱で殴る」とは、特徴的な行為である。それを受けて、大里武八郎は、弾力の強く細き杖や綱の先端などにて強く打てば、絡はり付く様になるので、「絡む」を転用するに至ったに違いないと由来を推定している。
日本国語大辞典の「からむ」において、細字で書かれた「方言」の項を、筆者は今まで見落としていた。「絡む」の方言例としては、奥羽地方ばかりで、関西にはない。「絡む」が「打つ、殴る、麦などの実を打ち落とす」の意味で使われた地域は、南部藩である。
麦、大豆、小豆、菜種、粟などの穀物を収穫乾燥させた後、むしろの上に広げて殻竿(からさお・唐竿ともいう)で打ち、実を落とす脱穀作業をする。この打つ動作を「からむ」と言うと理解される。殻竿は、長い竹竿の先端に、回転する短い棒を取り付けた形状をした農機具である。殻竿が発明される前は、綱や細棒などで、この動作をしていたのではないだろうか。
この農作業は、「からむ」が鉱山用語となった江戸初期よりはるか昔から行われていたから、「からむ」は鉱山用語が元ではないことは明らかである。
よって、鉱山用語「からむ、からめる」は、南部藩の方言を元として、南部藩鹿角の尾去沢銅山から全国に伝わったと推定できる。
「至宝要録」は秋田藩の院内、阿仁鉱山をもとに元禄に書かれたものである。「秋田方言」には、「からむ・からめる」は記載されていなかったが、元禄期には、南部藩から鉱山関係者には伝わっていたのではなかろうか。
まとめ
「からむ、からめる」は、「打つ、叩く、殴る」を表す南部藩鹿角の方言である。
注 引用文献
1. 内田武志著「鹿角方言集」p51(刀江書院 昭和11年1936)
web. 国会図書館デジタルコレクション 35コマ
web. 鹿角人物事典 p34(鹿角市教育委員会 2020)より
「内田武志(うちだたけし)」(1909~1980) 民俗学と菅江真澄の研究者
尾去沢鉱山の修三とサトの二男として八幡平宮川村に生まれる。本名は武。内田家の先祖は尾去沢鉱山が盛岡藩直営となった際の山内支配人の内田九平衛富涛である。武は幼少の頃、父修三の勤務地・碇発電所社宅に住んでいた。大正12年鎌倉に転居するが、関東大震災で家が全壊し、1年後に静岡へ移転した。まもなく静岡商業学校に入学するも血友病を発病して退学、この頃詩人の蒲原有明の知遇を得て、柳田国男・渋沢敬三の指導の下に民俗学の研究を続ける。昭和5年『民俗学』に「年中行事・鹿角郡宮川村地方」を初めて発表し、昭和11年『鹿角方言集』を刊行した。20年戦争の激化により、母方の大叔母の嫁ぎ先である郷里毛馬内の高橋家に疎開、毛馬内町長の伊藤良三と出会い、菅江真澄研究に没頭したという。昭和21年妹ハチとともに秋田市に転居、柳田国男・渋沢敬三の賛助を得て「菅江真澄研究会」を設立した。のち真澄研究の集大成ともいわれる『菅江真澄全集』(全13巻)、『菅江真澄遊覧記』などを出版、真澄研究の第一人者と評される。武志が病床に伏したまま研究を続けられたのは、妹ハチの献身的援助によるところが大きいといわれる。昭和29年ハチとともに秋田市文化章、42年県の文化功労章、50年柳田国男賞を受賞。享年71歳。
2. 大里武八郎「鹿角方言考」p78(鹿角方言考刊行会 昭和28年 1953)→図
web. 鹿角人物事典p37(鹿角市教育委員会 2020)より
「大里武八郎(おおさとぶはちろう)」(1872~1972)名著『鹿角方言考』の著者
花輪町長大里寿の四男として生まれる。花輪小学校卒業後上京、一高、東京帝大に進み法学士となった。一高時代、民俗学者柳田国男と同窓で、親交があった。明治38~41年の3回、内藤湖南に随行し清国調査に当たった。42年臨時台湾旧慣調査員となり台湾に渡り、大正元年には台湾総督府法院判官に任ぜられ、台湾の各地方法院を歴任した。昭和8年には台北地方法院長になり、10年に退官した。退官後は花輪に帰郷し、若年より関心の高かった鹿角方言の研究に没頭した。そして、昭和28年花輪を中心とする鹿角地方の方言の意味・語源等を調べて、学術的・民俗的に評価の高い『鹿角方言考』を発刊した。小学館の『日本国語大辞典』には『鹿角方言考』から多くが収録されている。享年100歳。花輪町名誉町民第一号の栄誉を受けた。
3. 日本国語大辞典第二版(小学館 2001)
4. 秋田県学務部学務課編「秋田方言」(出版 秋田県学務部学務課 昭和4年 1929)
web. 国会図書館デジタルコレクション
図 大里武八郎「鹿角方言考」の「からむ」の項
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