面谷銅山(おもだにどうざん)は、越前大野郡箱ケ瀬村枝村の持穴村地内に開坑した銅山である。小葉田淳によれば、1)「面谷銅山の開坑の時代は康永年間(1342~45)とか天正年間(1573~92)とか伝える向もあるが、寛文9年(1669)の発見という所伝もあり、このころより銅山稼行が興ったと思われる。天和2年(1682)土井利房が大野に封ぜられても面谷もその領となるが、そのころはかなりの産銅をみたらしい。元禄またはそれに近いころより面谷の山元で南蛮吹により灰吹銀の採取も行われたようである。大坂では灰吹銀を絞(鉸)った銅を鍰(しぼり)銅というが、正徳4年(1714)には大坂廻着の大野(面谷)鍰銅126,992斤、同荒銅6,400斤に達している。」さらに
「「銅山御用留」の初めのところに、(中略)面谷の荷吹より真吹までの工程を列記し、合吹・絞吹について床炉の構造や吹方につき詳細な説明をしている。ところが絞吹について、次のような所伝のあることを述べている。先年稼行方を大坂の泉屋が請けた時、吹方頭取として久右衛門と申す者が来って、面谷の仁兵衛を試吹したところ「同じ銅にて仁兵衛よりは鉛270~280匁余計に要て、久右衛門吹き候は、吹銀2匁8~9分余計に之有り候」とあり、差引勘定は久右衛門の吹方が利であるとし、その吹方を指示どおり使用することになったというのである。」
これは寛政10年(1798)のことである。なお泉屋の記録には久右衛門の名はないが、しぼり大工茂兵衛の名があり、面谷の所伝は人名を間違えたのであろうかと小葉田は記している。また註に、「絞吹の仕法として山下吹の名を伝えることを記し、久右衛門も山下吹達者の者といい、絞吹に優れたことを述べている。山下吹はいうまでもなく、摂津川辺郡山下(兵庫県川西市)の名を負うたもので、製銅法である。」と記している。
解釈と考察
面谷銅山では、絞吹(南蛮吹)を山下吹と言っている。このことから南蛮吹は多田銀銅山から伝わったということを示唆している。銀含有銅鉱石から銀と銅を取り出す製錬法は、どの工程であろうが、多田銀銅山から伝えられた工程は、山下吹といったのではないか。
まとめ
面谷銅山では、山下吹とは南蛮吹のことを指している。
注 引用文献
1. 小葉田淳「面谷銅山の稼行法と製錬法-近世の面谷銅山-」住友修史室報第16号p1-29(昭和61年 1986) web.より
「天保3壬辰年(1832)より銅山御用留書抜 横田重興扣」 「大野市史藩政史料編二」(1984.3)
「「銅山御用留」の初めのところに、(中略)面谷の荷吹より真吹までの工程を列記し、合吹・絞吹について床炉の構造や吹方につき詳細な説明をしている。ところが絞吹について、次のような所伝のあることを述べている。先年稼行方を大坂の泉屋が請けた時、吹方頭取として久右衛門と申す者が来って、面谷の仁兵衛を試吹したところ「同じ銅にて仁兵衛よりは鉛270~280匁余計に要て、久右衛門吹き候は、吹銀2匁8~9分余計に之有り候」とあり、差引勘定は久右衛門の吹方が利であるとし、その吹方を指示どおり使用することになったというのである。」
これは寛政10年(1798)のことである。なお泉屋の記録には久右衛門の名はないが、しぼり大工茂兵衛の名があり、面谷の所伝は人名を間違えたのであろうかと小葉田は記している。また註に、「絞吹の仕法として山下吹の名を伝えることを記し、久右衛門も山下吹達者の者といい、絞吹に優れたことを述べている。山下吹はいうまでもなく、摂津川辺郡山下(兵庫県川西市)の名を負うたもので、製銅法である。」と記している。
解釈と考察
面谷銅山では、絞吹(南蛮吹)を山下吹と言っている。このことから南蛮吹は多田銀銅山から伝わったということを示唆している。銀含有銅鉱石から銀と銅を取り出す製錬法は、どの工程であろうが、多田銀銅山から伝えられた工程は、山下吹といったのではないか。
まとめ
面谷銅山では、山下吹とは南蛮吹のことを指している。
注 引用文献
1. 小葉田淳「面谷銅山の稼行法と製錬法-近世の面谷銅山-」住友修史室報第16号p1-29(昭和61年 1986) web.より
「天保3壬辰年(1832)より銅山御用留書抜 横田重興扣」 「大野市史藩政史料編二」(1984.3)
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