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立川銅山(10) 「神野旧記」(3)「新居郡立川山村里正年譜」

2022-04-24 08:22:07 | 趣味歴史推論
 「神野旧記」を求めて、新居浜市の神野一義氏宅へ令和4年3月19日に伺った。一義氏は故人となられていたが、夫人征子氏のご厚意により、神野旧記を見せていただいた。これは、明比貢氏1)による筆写本の電子コピーの電子コピーである。第1輯「新居郡立川山村里正年譜」と第2輯「新居郡立川山村神野舊記」から成っている。第2輯の最後に奥書がある。第1輯では、2ぺージ分欠落していたが、既に一義氏が活字化したものがあり、本文を補って読める。元となった明比貢氏の筆写本は、明比貢氏のご子孫の方、西条史談会の西原俊基会長、上野陽一副会長のお手を煩わせたが、見つけることが出来なかった。
 里正年譜に続いて、印証、豫州新居郡立川山村人別名寄小割帳、旧記書類預証 のページがあり、第1輯として綴じられているので、これらを含めて新居郡立川山村里正年譜とみなした。
神野一義氏の活字化したものを基に、筆者が残り分を読み取り、第1輯の全文(但し、人別名寄小割帳の明細部分は除く)を活字化した。これは、明比貢氏の筆写本(書き込みのない)に相当するものである。第1輯は貴重な史料と考え、神野征子氏の許可を得たので、以下に全文を示した。(太字化は筆者がした)

表紙
明治十五年四月整調
新居郡立川山村里正年譜
   神埜信夫録
     第壱輯

本文
 記録
茲ニ明治十五年三月 立川山村里正連綿履歴年譜取調記載致置焉

新居郡立川山村肝煎
 神埜藤兵衛忠秀
元和七戌年當村肝煎被仰付
 寛永十酉年迄十二ヶ年間勤務 其以前先代仝藤兵衛名籍ニテ右戸主迄ニ四代連綿云々 旧記ニ載書有之雖委細不具 此時領主松山城主加藤佐馬之助様御領地也

立川山村初而庄屋
 神埜藤兵衛忠治
寛永十一戌年四月領主松平中務様御領地ニ換リ 仝年仝月当村ニ於テ初而里正被仰付候事
正保酉二年五月領主一柳丹後守様御領分ニ相成事
明暦三酉年西條一柳監物様御領分ニ相成 以上本年迄二十四ヶ年里正奉務ス

仝村里正
 神埜藤兵衛忠明
萬治三子年正月庄屋拝命 貞享四卯年迄二十八ヶ年勤務ス 
萬治三子年六月領主一柳監物様 当村御検地ニ相成 改正御高八拾壱石七斗二升ト御定免ニ相成事
寛文十戌年十一月 西條領主松平左京太夫様ト御國換ニ相成
元禄十丑年閏二月四日 當村銅山ト幕府領宇摩郡別子山村足谷銅山坑間内ニ而 双方鋪穴ヲ切抜合 両郡村境界諍論出来 公儀役人検使ニ相成両村旧記明細取タヾシニ相成候所 當村銅山坑穴先方エ五十間余境界ヲ堀越シ有之ニ付双方御検使立合之上 峰水流ヲ以両郡村之以後境界ト定メ坑間内エハ鉄格子被入置候 右件御裁許相成リ銅山師新居郡金子村真鍋弥一右エ門真鍋甚右エ門神埜藤兵衛等江戸表エ被引重罪ニヨッテ二ヶ年ノ間入籠被申付前顕之始末片付候事

仝村里正
 神埜文右エ門忠次
元禄元辰年里正拝命 宝永元申年宇摩郡上分村仝賀奈川村ト當村ト御換地相成 是ヨリ幕府御領分ト相成候
享保四亥年迄三十二ヶ年間奉務ス
 旧記ニ曰 立川長谷銅山ハ一柳監物様御領地之節 出初以後中絶シ松平左京太夫様御領分金子村山師真鍋氏元禄五申年ヨリ巳年迄十ヶ年稼 同年四月ヨリ京都市割賦仲ヶ間請負 宝永元申年ヨリ御料ニ相成 二十七年稼 享保十二年未年十月ヨリ大坂屋久左エ門エ譲 二十二ヶ年間稼處 百五十余稼古シ深鋪ニ相成身上困窮シ上納金三千五百両滞 寛延二巳十二月請負泉屋理兵衛エ被仰付右滞金引受皆上納仕 宝暦十二午年迄十四ヶ年間相続候處損金相嵩続兼双方ヨリ願上仝年四月住友吉左エ門方エ譲受ニ相成銅山歓喜間符ヨリ古鋪ヲ破通シ立川銅山ノ鉑石ヲ運取ニ相成

仝村里正
 神埜幸右衛門忠庸
享保五子年里正拝命 寛保三亥年迄二十四ヶ年之間奉務ス
享保六丑年五月 当村ヲ松山城主松平隠岐守様御預所ト相成候事

仝村里正
 神埜林蔵忠義
延享元子年里正拝命 安永五申年迄三十二ヶ年之間奉務候事

仝村大里正額里正
 神埜良右エ門忠幹
安永六年酉正月拝命 享和三亥年マデ二十七ヶ年里正勤務 
中就宇摩郡御領所小川山村仝郡今治領三嶋村ト山論騒動之節 御領所宇摩新居両郡中里正総代ニ而備中倉敷御陣屋并ニ江戸表エ出張致争論掛引始末取扱方盡力不少 依テ前顕御褒美ト而大里正額并ニ仝人壱代苗字帯刀御見遁被仰付
天明六午年御預所新居郡種子川山村仝郡西條領分ヨリ八ヶ村右種子川山村エ入会處成ニ該奥山ニ於テ八ヶ村ヨリ炭竈等ヲ壊害シ村民不残村ヲ立退キ候ヲ 周布郡大頭村ニ於テ論留シ差縺 双方和解ヲ取扱右平定ス 此時川之江御陣屋ニ於テ御代官所ヨリ御褒詞并上下一具拝領ス

仝村里正
 神埜禮蔵忠紹
文化元子年拝命 仝十三子年迄十三ヶ年里正奉務
同十酉年十一月十二日當村人戸数 五拾弐戸焼失致 里正宅モ不残類焼ニ掛 旧記諸帳簿等モ過半焼失致事

仝村里正
 神埜幸作忠照
文化十四丑年拝命 嘉永元申年マデ三十二ヶ年ノ間里正奉務 仝年正月川之江御陣屋ニ於テ 年来實意ヲ以勤務候ニ付 松平隠岐守様ヨリ御褒詞并ニ上下一具金五百疋被下置
「 」年仝村松井武右エ門ト計リ仝村字牛ヶ首エ新四国并ニ大師堂新築建立ヲ成就ス
安政七申年正月仝郡船木村農仙波文次殿ト同心共力ヲ以テ仝郡角野村佛國山瑞應寺々内エ養老庵建築ヲ右二人已而而(のみにて)寄進ス 幼年ヨリ能家業ヲ勵ミ家聲ヲ挙グ

仝村里正
 神埜良平忠親
嘉永二酉年拝命 明治元辰年迄二十ヶ年里正奉務
中就宇新両郡御預所村々窮民救備之内エ 文久二戌年七月米百俵出米候段 奇特之儀ニ付松平伊豫守様ヨリ永代家續之倅エ苗字帯刀御見遁被仰付候事
明治元辰年廃幕ニ付松平伊豫守様御領所ヲ被解 土佐國高智藩御領所ニ相成其後廃藩置県之御沙汰有之明治五壬申年是迄之里正ヲ廃止新ニ大區小區ヲ被設置即当地ハ第三大區之内種子川山村角野村合併シ六小區ト称エ角埜村エ事務所設置シ其節六小区差配方ヲ拝命シ仝七戌年迄角埜村エ日勤シ在務ス 仝年十二月大小區組換改正ニ相成立川種子川松木ノ三ヶ村合併シ仝二大区八小区ト改其節区内組頭ニ撰挙相成明治九年三月十七日迄三ヶ年在勤ス
明治十一年別子鉱山方ヨリ新道開拓ニ付其地等賣渡方并ニ村内説論方盡力不少候故別子鑛山方ヨリ厚ク謝シ金百五拾圓ヲ被下置
仝十二年郡区改正之後立川山村勧業世話掛拝命 仝十三年五月迄在勤ス
明治二巳年十二月角埜村佛國山瑞應寺ニ米金寄付候ニ付代々家相續人エ院号免許ヲ受印証ヲ取ル
明治四未年九月當村救助備ノ内エ安三石差出シ候付 高智藩出張所ヨリ上下一具御盃一組拝領ス
明治六酉年地券改正丈量方被行候
明治十一年迄ニ整頓ス耕宅地総計改正額反別三拾弐町壱反四畝拾弐歩 第弐着山林原野山岳改正反別三百三拾四町弐反四畝五歩也

履歴
 神埜信夫忠正
西條藩浪士山田早笛氏ニヨリ六才ヨリ習字勤学并ニ新田宮流逆釼教受ス 中就十七才ヨリ廿才迄西條士族服部右門正早氏ニヨリ漢学教受ス訓授ス
慶應元丑年六月四日其時十三才新居郡立川山村里正見習被係付
仝年十二月三日御預所川之江村御陣屋御備御用途ノ内エ米百五拾俵出米致候段 奇特之儀ニ付苗字帯刀御免被仰付
御預所銃隊被仰付候間調練熟達之上 炮銃射擲銃兵教導相兼厚世話可致候 尤非常之節者早速御陣家エ駈付可請差図候
明治元辰年廃藩置県ス
明治五壬申年里正ヲ廃止ス 信夫是迄八ヶ年勤務ス

神埜信夫 任大阪府四等巡査 明治九年三月十二日 大阪府
神埜信夫 任大阪府三等巡査 明治十年七月廿日 大阪府
神埜信夫 依願三等巡査差免 明治十一年四月三日 大阪府
右三ヶ年大阪府ニ於テ巡査奉職有之右四月十一日帰国ス
神埜信夫 愛媛県新居郡立川山村戸長申付候事 但年給六拾円給與候事 明治十二年一月三十一日愛媛県 印
愛媛県新居郡立川山村戸長神野信夫依願戸長差免候事 明治十三年十一月十七日 愛媛県
神埜信夫 新居郡立川山村々会議員當撰 明治十八年六月廿四日 新居郡船木村外三ヶ村戸長役場 印
明治十六年六月 是迄之居住家屋ヲ 字渡ル瀬住友分店前エ新築シ住改メ商事営業ス 不計不幸内續キ該家屋ヲ明治十九年十一月住友氏エ賣却シ 目下ノ家屋ヲ庄内村 本藤真太郎氏ヨリ金五拾五円ニテ買入家族商業ヲ営ム 明治廿年四月ヨリ信夫眼病重症ニ掛リ困却ス
神埜信夫 傳染病防遏視察委托候 明治十九年 船木村外三ヶ村戸長役場 印

印証
一 拙末養老庵者享保年中當山五世月庭和尚之開闢而元西之山麓ニ有之候也 去弘化年中及焼失已十余年廃地ニ相成居候處 此度其仁両家合志再建開基ニ相成移處今之地エ被害致造営候事 實不忘霊山付嘱奇特之至ニ候也 依之當人夫婦エ院號令免許者也
   安政七年申正月        瑞應寺
                   傳光叟 花押
  立川山村庄屋
    神野幸作殿

   正徳元歳 卯十二月
豫州新居郡立川山村人別名寄小割帳

  卯年御免定之事
         伊豫國新居郡 立川山村
一 高八拾壱石七斗弐升
   ----中略
 右之通大小之百姓不残立会御免定奉頂戴割符仕少モ相違無御座候 此上ハ同日少モ申分無御座候 為其連判如件
  正徳元年卯ノ十二月
       立川山村庄屋 藤兵衛
       同村組頭   与左衛門 六兵衛 茂左衛門 甚兵衛 清右衛門 又左衛門 与兵衛 善左衛門 九郎左衛門 徳兵衛 孫左衛門 市郎右衛門 太郎右衛門 重七 六右衛門 作左衛門 
 御代官様

旧記書類預証
・東西角野村戸籍帳寫 一冊
・十五年八月二日付 松山始裁所原告角野村什人願寫 壱冊
・十五年六月八日付 種子川山村雑木山所有定メ伺書 一冊
・万治三亥六月廿三日付 御奉行所エ角埜村ノ不當ヲ願書 一通
・文政三辰九月 別子銅山方エ 炭山ニ手銀願受取書 三通
・四年未年三月十五日 村内地主ヨリ共同ニ差出書類 一通
・宝永元申宝暦四戌五月付 大永種子川論訴出寫 三通
・明治十四午巳四月 穴山売却分製願 壱通  并分製製図分ニ画図面 壱通
・明和六亥年 村内持分地押番号帳 壱通  并ニ画図面 壱枚
・万治三子六月付 御検地帳 壱冊
・宝永元申八月廿日付 角埜村立川村山論取為換書 壱通
・元禄九子年 銅山方ト坹間内論争奉行所エ願出 壱通 
・元禄十五年 右裁判所寫 壱通
・文久二亥年 銅山エ炭ヲ為焼候通 壱通
・明和六丑年五月二日 地押番帳 壱冊
・宝暦二申十一月 角埜立川境論旧記 壱通 并図面 壱枚
・村内四方境界書 一通
・明治九子年 二大区八小区地番丈量臺帳 壱通
・元和八亥年三月廿九日付 畑改帳 壱冊
・地所ニ関スル左長役場ノ保証書 四通
・元禄十二卯四月 立川角埜差維ヲ中村大庄屋エ訴ル願書寫 壱通
・天保十四年九月八日付 御預所 壱冊 立川山村高反別小本帳控案文 壱冊
・角埜村矢埜氏ヨリ當村議長エ宛タル書状 壱通 并案文 壱通
右之通旧証類如前顕正願候 御入用之節ハ何時御返換ヲ仕也
 明治十六年三月四日     立川山村委員総代
                   瀧本冨三郎 印
 神埜信夫殿

奥書
 此ノ旧記纂輯者 大坂神埜幸男所蔵ノモノヲ今初夏借閲シタレバ 爰ニ書寫シ至モノナリ
 本ノ旧記ハ 角埜村長鷲見六郎殿ノ斡旋ニヨリ閲読ノ様ヲ得タリ
    昭和十一年六月一日        明比 貢

解読と特記事項
1. 電子コピーの履歴
表紙に明比蔵書印と神野一義印(これもコピー)があることより、この紐綴本は、明比貢氏による筆写本の電子コピーの電子コピーであることがわかる。筆写は、明比貢の名入の原稿用紙になされ、半分にカットされ、B5版として綴じられている。電子コピーの電子コピーなので、筆跡の違う書き込みが、欄外、行間にたくさんある。第1ページ(忠秀の箇所)と第3ページ(忠治の箇所)は欠落していたが、既に一義氏が活字化したものがあり、本文を補える。里正年譜に続いて、印証、豫州新居郡立川山村人別名寄小割帳、旧記書類預証 のページがあり、第1輯として綴じられている。
2. 神埜信夫2)が明治15年3月 里正履歴年譜を取り調べ記録したことが記されている。整調とある。信夫が書いた文章であり、事蹟の根拠が、神野家の古文書か、他のものかは不明である。
3. 忠秀
元和7年(1621)は酉であり、寛永10年(1633)-元和7年(1621)=12に1年足して数え年の13ヶ年となり、13ヶ年勤務となる。加藤左馬助(加藤嘉明)の松山潘主期間は、慶長5年(1600)~寛永4年(1627)なので、確かに忠秀肝煎任命時は、加藤左馬助である。
4. 忠治 
松平中務とは、蒲生忠知(ただとも)中務大輔のことである。出羽国上ノ山4万石の蒲生忠知が本領の近江国日野牧(滋賀県蒲生郡日野町)と合わせ24万石を得て松山藩主となったのは、寛永4年(1627)であった。寛永11年(1634)8月、忠知が参勤交代の途中に死去し蒲生家が断絶したため、大洲藩主・加藤泰興が一時松山城を預かった。確かに、里正任命時の寛永11年4月は、松平中務である。
一柳直重(なおしげ)丹後守の在職期間は、 寛文13 ~正保2(1636~1645)である。
一柳直興(なおおき)監物の在職期間は、正保2~ 寛文5(1645~1665)である。
5. 忠明 
松平頼純(よりずみ)左京大夫の在職期間は、寛文10年(1670)~正徳元年(1711)であった。
元禄10年両銅山境について評定所の裁定の件は、忠明の事績に記すのではなく、次代の神埜文右エ門忠次に記すべきであった。忠明は、元禄10年に存命としても、里正を退任し隠居の身である。公務なので、代理が可能とは考えにくい。忠明が存命なら、里正任命が20才の時とすると、元禄10年には57才となる。神野信夫の調査では、神埜文右エ門忠次は、藤兵衛を襲名していなかったのであろう。しかし「正徳元年 豫州新居郡立川山村人別名寄小割帳」の最後に「立川山村庄屋 藤兵衛」とある。よって(元禄元年~宝永~正徳~享保4年)の間の里正であった神埜文右エ門忠次は、藤兵衛を襲名したことが明らかであり、先代の書き方に倣うならば、藤兵衛忠次なのである。入牢した藤兵衛は、この藤兵衛忠次であろう。
6. 忠次
 忠次も藤兵衛を襲名したことは、上記のことで明らかである。抜合当時の庄屋であり、入牢したのは、この忠次と筆者は推定する。
7. 忠庸
 名前で「門」が抜けていたので、補った。「寛享三」は間違いなので、「寛保三」に書き直した。
松平定英隠岐守は、松平家第5代藩主で、その在職期間は享保5年~享保18であり、記述と合う。
8. 忠幹   
 宇摩郡御領所小川山村と同郡今治領三嶋村と山論騒動の節 御領所宇摩新居両郡の里正総代であった。備中倉敷御陣屋並びに江戸表へ出張して、争論掛引始末取扱方の盡力が少なからずあった。御褒美として、大里正格並びに同人壱代苗字帯刀を許された。
9. 忠紹
 文化10年(1813)年11月12日に、立川山村で大火があり52戸が焼失し、里正宅も残らず類焼し、旧記諸帳簿等も過半が焼失した。よって文化10年以前の古文書は過半がなくなったと考えざるをえない。忠紹が記憶をもとに書き残したものを里正年譜作成に使っている可能性があることに注意が必要である。
10. 忠照
 文政4年立川大師堂建立、安政7年船木村農仙波文次と共に、瑞応寺境内に養老庵建立寄進。
11. 忠親
 文久2年(1862)宇摩新居両郡の御預所村々窮民に米100俵供出し、松山藩より、永代苗字帯刀を許された。明治4年にも、高知藩へ安三石差出した。「安」は、備蓄用の穀物のようだが何か。コーリャン?
12. 信夫忠正
明治5年に里正が廃止となった。ここまでが明治15年に整調した里正年譜の綴りであろう。あとは、信夫の履歴として、明治20年に書き足したと思われる。
13. 豫州新居郡立川山村人別名寄小割帳
正徳元年(1711)御免定之事の明細が記されており、後日 見やすくして全文を示したい。
14. 旧記書類預証
 万治3年(1660)の文書が最も古いが、多くの古文書を所蔵していたことが伺える。火事で焼失しなければ、その量は、莫大なものであったに違いない。残っていた古文書は、戦争で焼失したのであろうか。
15. 奥書
 神野家子孫で大阪在住の神埜幸男の所蔵する神野旧記を、昭和11年6月に、明比貢が筆写したことがわかる。角野村村長 鷲見(すみ)六郎は、歌人でもあった。
16. 家伝によれば、神野家は、元亀天正年間(1570~1591)伊勢国より神野美濃守この地に定住せしを祖とす。
17. 里正年譜の本文には、真鍋弥一右エ門より前の立川銅山山師の名はなかった。

まとめ
1. 「新居郡立川山村里正年譜」は、明治15年に神埜信夫が整調したものである。それを昭和11年に明比貢が筆写し、その電子コピーの電子コピーを見たことになる。
2. 記録が残る初代は神埜藤兵衛忠秀で、元和7年(1621)松山藩主加藤嘉明公より立川山村肝煎を仰せ付かった。寛永11年(1634)2代藤兵衛忠治から明治5年(1872)11代信夫忠正まで立川山村里正を任じられた。
3. 文化10年(1813)年、立川山村で大火があり里正宅も類焼し、旧記諸帳簿等も過半が焼失した。
4. 里正年譜の本文には、真鍋弥一右エ門より前の立川銅山山師の名はなかった。


神野征子様には、神野旧記の閲覧と公表の許可を頂きました。厚くお礼申し上げます。

注 引用文献
1. 明比貢(あけひみつぐ):西条の郷土史家 明治27年(1894)生~昭和51年(1976)歿 享年83才
2. 神埜信夫(じんののぶお):11代当主 嘉永6年(1853)生~明治25年(1892)歿 享年39才

写真 表紙と奥書



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