以前に、「鉱山聞書」の著者赤穂満矩は尾去沢銅山の山師であったと書いたが、孫引きであり、出典は分からず、麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」にもあたったが、記載はなかったので、取り消す。本当に実在した人物であったのか、「鉱山聞書」と「中岳山頂の猿田彦大神命の石碑」の二つしか史料は見つからなかった。
1.「鉱山聞書」(1785)1)
序 →図1
予幼年の頃、父母に随いて銅山に養われ、父祖より相伝処の下財の業を聞き覚え、なお壮年に至りて、名ある金堀に毎事尋ね問て、その道を学び、これを我が胸中に秘して、ただ一身の日用たりなんの望みを思いて、書き溜たる事一つもなし。然れども、愚息に伝ふべきのために、今既に方寸の胸を開き集め書す。下財を営み世を渡る者、農工商の道は嘗て知らず、十国十山を家として一生を送る。しかれどもその利筋に暗き時は、必ず諸人の先途に立ち難からんか。
慶長年中に東照権現御定めの法式、往昔明暦2年、出羽国秋田郡向銀山に定め、山州伊豫国別子立川、佐渡国金山 紀州熊野銅山 丹波国幾野銅山 等に流義を定め、それより諸国諸山に法式を定む。中にも日本の始は、金花山より黄金を内裏に奉りし式を集め、今世に行わるゝ流義は、岩戸開き、外記流、振袖流とて、三派あり。中にも岩戸開きは宗元にして、専ら神道を学び遷す、以て教えを世に残す。
しかるに予既に50歳に及び、余命久しからざる事を思い、之によって胸中に貯たる所の九牛が一毛、愚子の愛情におぼれ、後人の誹りをも顧みず、一冊として微言を筆にとどめ残して、金堀の一助とす。汝これを常に修練して、欠けたるを補い誤れるを正し、他見する事之有るべからず。これ則ち人の薄智微言を笑わん事を恐れ恥ずべきのみ。
時に天明5年乙巳正月吉日 赤穂氏満矩
日本山の始陸奥金花山なり
皇の御代栄えんと東なる 陸奥やまに黄金花さく
跋 →図2
右この一番に住し、思出し筆を染め、書進み候。よって前後わきまえず乱筆文字も不分明たるべく存じ候。御推見ならるべく候。随分再覧致され口伝を得、下財の途を相嗜み申さるべき事に候。当世農商の道にて日用暮し難く無産無渡世は、ただ金堀より外他事之無し候。功を得ては立身易く一生を送り候。必ず以て他見之有るべからず、人の誹りを相慎むが故に候也。
天明5年乙巳正月 南部四角岳支配中 書
赤穂利兵衛満矩
2.「中岳山頂の石碑」(1783)2)3)
正面 猿田彦大神命
側面 天明三年卯七月十三日
奉斎 不老倉総山中
背面 出鉑増進(近?)
中嶽 □ 赤穂氏
山内安全
(文字は、引用文献2 からと、2中の背面写真から筆者が読み取ったものである。石碑の重さは凡そ50貫とのことである)
検討
(1)聞書から、赤穂氏満矩は天明5年(1785)に南部四角岳(しかくだけ)鉱山支配中であり、石碑から赤穂氏は天明3年(1783)に不老倉(ふろうぐら)鉱山総山中であることがわかった。
(2)四角岳(しかくだけ)は、岩手県、秋田県、青森県の三県の境界にある山(1003m)で、その西隣に中岳(ちゅうだけ)(1024m)があり、それらの根に銅山が見つかった。4)この地域は、江戸期には南部藩(盛岡領)であった。→図3
(3)「南部藩雑書」(南部藩家老席日誌)には、四角岳銅山、狼倉(おいぬくら)銅山の出銅記録が延宝6年(1678)から、記載されている。
①斎藤長八「不老倉鉱山誌」の年表では以下のとおり。2)
延宝6年(1678)1月20日 白根・狼倉両山吹出銅1,034箇、黒沢尻番所改め他領へ出す。
6月7日 狼倉銅58箇、黒沢尻番所改め他領へ出す。
10月15日 狼倉銅220箇、黒沢尻番所改め他領へ出す。
10月24日 四角岳銅101箇、松山番所改め他領へ出す。
延宝7年(1679)----以下略---
(1箇は、約16貫)
②麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」には、産銅高を以下のようにまとめている。5)
延宝5年(1677) 6年 7年 8年 天和元年 2年
白根銅山 53,121貫 57,576 39,819 37,729 39,611 101,772
狼倉銅山 --- 3,560 4,705 --- 4,091 2,493
四角嶽銅山 --- 1,214 8,863 4,848 563 ---
(4)狼倉銅山は、明和2年(1765年)から南部藩の直山となった時から、不老倉(ふろうぐら)銅山に改称された。狼オイヌとはオオカミのことで、オイヌ→おいぬ→老いぬ→不老へ、倉(くら)は岩場のことで岩石の露出の多い所を意味し、狼のすむ岩の多い所を意味する。2)
(5)著作と石碑建立の時期は、どちらも天明の大飢饉の最中であるが、飢饉は、天明3~4年が特に厳しかった。天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が噴火し、火山灰を降らせたのである。
年表によれば、南部藩雑書に以下の記載あり。2)
・天明4年(1784)3月1日 不老倉銅山出火、床屋残らず、外に中間小屋、大炭倉、小炭倉、竹蔵、御米蔵、荒物蔵を焼失す。
・天明6年(1786)5月9日 大湯町惣老名共の願出るには、卯年(天明3年)の不作以来困窮その上数十軒焼失し夫伝馬を勤め兼ねるとのことなので、3ヵ年中50貫文宛下し置かれ銅山等の夫伝馬御用滞りなく勤めるよう命ずる。
(6)支配中(しはいちゅう)と総山中(惣山中)(そうさんちゅう)について
「中」は、「集団の一同、全体」を意味する。家中、氏子中、連中、惣中、村中、老中など。本来は、複数の構成員からなる総体を指した。その一員も、---中と呼ばれた。よって---中という役職者は、複数人いる。6)
平凡社世界大百科事典「阿仁鉱山」によれば、「1575年(天正3)湯口内に銀山が発見され,つづいて,1614年(慶長19)山先(やまさき)(惣山中の長)が七十枚山で金鉱を発見して,鉱山として急速に発展した。」とある。7)
支配中は、支配役数名がいるうちのひとりを意味するのであろう。総山中(惣山中)とほぼ同じ役職と思われる。どちらも場合も、その鉱山に複数人いる山師の一人であったということになる。
(7)不老倉鉱山、四角岳鉱山の山師の記録
年表には、「南部藩雑書」「諸山」「立山文書」「白根史蹟」などから抽出した、延宝8年(1680)~寛政7年(1795)間の不老倉鉱山、四角岳鉱山の山師、見立願人、山先、稼行者の名前が18人程挙げられているが、赤穂満矩の名前はなかった。2)
(8)不老倉銅山の捨鍰
年表によれば、以下の記述がある。2)
・文化13年(1816)4月 白根の左七、不老倉銅山の捨鍰働方を来る7月まで出銅50箇の見込みで願い出る。(白根談叢)
・文政2年(1819)この年、不老倉銅山において捨鍰稼行が行われた。(浅井資料)
「白根談叢」原書で「鍰」が漢字の「鍰」であったか確認したいところである。
考察
1. 「鉱山聞書」の目的は、序によれば、鉱山経営・技術の秘伝を息子に書き残すことである。秘伝は口伝が基本で、書き残すことは同業者から誹りをうけることになる。しかし「他見無用 秘伝なり」と書いてあるが、著者は、公開されることを本当に期待しなかったのであろうか。知り得たことをまとめて、謙遜はしているが誇りをもって、鉱山業の進歩に貢献したいと願ったのではなかろうか。
この本は、赤穂の子孫が何時公開したのであろうか。写本をいつ(南部藩内?)で、多数配布したのであろうか。
「鍰」を仮借した事だけなら、秘密にすることもないから、本に書くよりだいぶ前に、皆に言っていたかもしれない。
2. 江戸時代の書や文書で、「鉱山聞書」および「赤穂満矩」について言及されているものを、筆者は見つけていない。この和書の秘が守られていたためであろうか。
また 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」も何ら言及していない。日本鉱業会誌 vol. 28(No.329~332)(1912)には「鉱山聞書」が公開されており、「古事類苑・金石部1」(1896~1914)には、部分的に採録されている。8)それらを麓三郎が知らなかったとは思えない。技術面では参考になったと思うのであるが。
3. 石碑には「赤穂氏」までの刻字とのことだが、普通は、個人の名まで彫る。「満矩」の字が土に埋もれていないか。どなたか登山の折に確認していただけたらうれしい。序に「赤穂氏満矩」と「氏」を入れているが、何か意味があるのであろうか。
4. 赤穂姓
明暦3年(1657)~寛文5年(1665)の間、「大湯代官」に任じられたのが赤尾又兵衛卓頼(700石)であり、その父赤尾伊織頼賢は近江国赤尾村の出身であった。9)10)日本姓氏語源辞典によれば、「赤穂」は「赤尾」から出た場合もあるとのことなので、11)上記の赤尾氏から出た可能性はないか。また 現在「赤穂」姓の人が、岩手県二戸市、青森県八戸市に居られるので、繫がりがある人はいないであろうか。石碑により、実在人物であると確信するが、子孫が分かると決定的である。
5. この「鉱山聞書」(国会図書館蔵)写本は、明治初年と見られる。
からみ・鍰の由来(8)に示したように、「この書は、巖州邪麻郡下谷地村々長直助所蔵」と巻末に書かれている。巖州とは、岩代国(いわしろのくに)のことである。明治元年12月7日(1869.1.19)に、陸奥国から岩代国、磐城国、陸前国、陸中国の4国が分立し、岩代国は明治9年まで存在し以後福島県となった。その耶麻郡下谷地村(やまぐんしもやちむら)(現在は、福島県耶麻郡西会津町)の村長直助が所蔵したものである。本文とこの所蔵の筆跡は似ていることから、この写本は、明治初年になされたものと推定され、比較的新しいものであることが分かった。赤穂満矩の原書やその頃の写本は、図書館、博物館、歴史文化博物館等や旧家にないであろうか。字を問題にすると、著作当時の和書が、必要になる。
まとめ
赤穂満矩は「鉱山聞書」で、四角岳鉱山の支配中であること、中岳山頂に不老倉鉱山の総山中として鉱山の出鉑増進、山内安全を祈願した石碑があることから、実在した人物である。
南部藩雑書(南部藩家老席日誌)に「赤穂満矩」「鉱山聞書」の記載の有無をいつか調べてみたい。12)
注 引用文献
1. 赤穂満矩「鉱山聞書」国立国会図書館所蔵 コマ数2~3(図1),57~8(図2)
2. 斎藤長八「不老倉鉱山誌」(大湯郷土研究シリーズ1 平成12年 2000)
石碑p96 年表p103~112 不老倉の由来p5
鹿角市十和田市民センターの佐藤智美氏と大湯郷土研究会副会長の三上豊氏のお蔭でこの本を読むことができ、情報を得ることが出来ました。お礼申し上げます。
3. Wikipedia「中岳 (鹿角市・八幡平市)」に猿田彦大神命の石碑の正面写真のみあり。
4. Web. 木下亀城「不老倉及四角鉱山調査報文」地質調査所報告 第107号p67~115(東京地学協会 昭和5年1930)
5. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p56(勁草書房 1964)
6. Wikipedia 「老中 ろうじゅう」
7. Web.exite辞典「阿仁鉱山」 出典:平凡社 世界大百科事典
8. web. 国会図書館デジタルコレクション 神宮司庁古事類苑出版事務所 編「古事類苑・金石部1」(明治29年~大正3年 1896~1914)
明治政府による官撰百科事典である。
9. Web. 鹿角市先人顕彰館研究員編「鹿角人物事典」p5(鹿角市教育委員会 2020.3)
「赤尾卓頼(あかおたくより)」
10. Web. 近世こもんじょ館>きろく解読館>池田衛士家
『参考諸家系図』によれば、赤尾美作守清国の末流赤尾伊織頼賢は、近江浅井郡赤尾村(滋賀県・伊香郡の誤りか)に住居して京極若狭守忠高に仕えたと伝える。三子あり、
嫡子又兵衛卓頼は江戸に住居、明暦三年南部重直に召抱えられ七百石を領して鹿角郡大湯城を預かり花巻郡代を勤めたが、寛文五年禄を辞して江戸に帰り、一時浪人の後、常陸土浦藩土屋但馬守政直の家臣となり、後その家老職を勤めたという。子孫は同家の長臣となったと伝える。一説には土屋家仕官は南部家の推挙ともいう。
その二弟は伊兵衛頼茂で、池田家の祖である。頼茂は、兄卓頼と行動を共にして明暦三年南部家に出仕、三百石を食禄して者頭を勤めた。寛文五年禄を辞して江戸に帰り、やはり兄卓頼と共に土屋但馬守政直の家臣となった。その子は赤尾三平頼勝といい盛岡に生まれた。成人の後江戸に出て父に従い土屋氏の邸に居したが、後同家中池田重右衛門の婿養子となり、その家領二百五十石を継いで池田重右衛門と改めた。頼勝はその後元禄五年に盛岡の母を介護する理由で主家の許可を得て家族共々に盛岡に移住、南部家に帰参して十五人扶持(高九十石)を食禄し同八年死去した。(以下略)
11. web. 「日本姓氏語源辞典」>赤穂
12. 「南部藩雑書」(盛岡藩家老席日記)盛岡市教育委員編 第30巻安永8年(1779)~第40巻文化7年(1810)(東洋書院 2013~2016)
図1. 鉱山聞書 序
図2. 鉱山聞書 跋
図3. 不老倉鉱山、四角岳鉱山、白根鉱山、尾去沢銅山などを含む鹿角周辺の地図
1.「鉱山聞書」(1785)1)
序 →図1
予幼年の頃、父母に随いて銅山に養われ、父祖より相伝処の下財の業を聞き覚え、なお壮年に至りて、名ある金堀に毎事尋ね問て、その道を学び、これを我が胸中に秘して、ただ一身の日用たりなんの望みを思いて、書き溜たる事一つもなし。然れども、愚息に伝ふべきのために、今既に方寸の胸を開き集め書す。下財を営み世を渡る者、農工商の道は嘗て知らず、十国十山を家として一生を送る。しかれどもその利筋に暗き時は、必ず諸人の先途に立ち難からんか。
慶長年中に東照権現御定めの法式、往昔明暦2年、出羽国秋田郡向銀山に定め、山州伊豫国別子立川、佐渡国金山 紀州熊野銅山 丹波国幾野銅山 等に流義を定め、それより諸国諸山に法式を定む。中にも日本の始は、金花山より黄金を内裏に奉りし式を集め、今世に行わるゝ流義は、岩戸開き、外記流、振袖流とて、三派あり。中にも岩戸開きは宗元にして、専ら神道を学び遷す、以て教えを世に残す。
しかるに予既に50歳に及び、余命久しからざる事を思い、之によって胸中に貯たる所の九牛が一毛、愚子の愛情におぼれ、後人の誹りをも顧みず、一冊として微言を筆にとどめ残して、金堀の一助とす。汝これを常に修練して、欠けたるを補い誤れるを正し、他見する事之有るべからず。これ則ち人の薄智微言を笑わん事を恐れ恥ずべきのみ。
時に天明5年乙巳正月吉日 赤穂氏満矩
日本山の始陸奥金花山なり
皇の御代栄えんと東なる 陸奥やまに黄金花さく
跋 →図2
右この一番に住し、思出し筆を染め、書進み候。よって前後わきまえず乱筆文字も不分明たるべく存じ候。御推見ならるべく候。随分再覧致され口伝を得、下財の途を相嗜み申さるべき事に候。当世農商の道にて日用暮し難く無産無渡世は、ただ金堀より外他事之無し候。功を得ては立身易く一生を送り候。必ず以て他見之有るべからず、人の誹りを相慎むが故に候也。
天明5年乙巳正月 南部四角岳支配中 書
赤穂利兵衛満矩
2.「中岳山頂の石碑」(1783)2)3)
正面 猿田彦大神命
側面 天明三年卯七月十三日
奉斎 不老倉総山中
背面 出鉑増進(近?)
中嶽 □ 赤穂氏
山内安全
(文字は、引用文献2 からと、2中の背面写真から筆者が読み取ったものである。石碑の重さは凡そ50貫とのことである)
検討
(1)聞書から、赤穂氏満矩は天明5年(1785)に南部四角岳(しかくだけ)鉱山支配中であり、石碑から赤穂氏は天明3年(1783)に不老倉(ふろうぐら)鉱山総山中であることがわかった。
(2)四角岳(しかくだけ)は、岩手県、秋田県、青森県の三県の境界にある山(1003m)で、その西隣に中岳(ちゅうだけ)(1024m)があり、それらの根に銅山が見つかった。4)この地域は、江戸期には南部藩(盛岡領)であった。→図3
(3)「南部藩雑書」(南部藩家老席日誌)には、四角岳銅山、狼倉(おいぬくら)銅山の出銅記録が延宝6年(1678)から、記載されている。
①斎藤長八「不老倉鉱山誌」の年表では以下のとおり。2)
延宝6年(1678)1月20日 白根・狼倉両山吹出銅1,034箇、黒沢尻番所改め他領へ出す。
6月7日 狼倉銅58箇、黒沢尻番所改め他領へ出す。
10月15日 狼倉銅220箇、黒沢尻番所改め他領へ出す。
10月24日 四角岳銅101箇、松山番所改め他領へ出す。
延宝7年(1679)----以下略---
(1箇は、約16貫)
②麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」には、産銅高を以下のようにまとめている。5)
延宝5年(1677) 6年 7年 8年 天和元年 2年
白根銅山 53,121貫 57,576 39,819 37,729 39,611 101,772
狼倉銅山 --- 3,560 4,705 --- 4,091 2,493
四角嶽銅山 --- 1,214 8,863 4,848 563 ---
(4)狼倉銅山は、明和2年(1765年)から南部藩の直山となった時から、不老倉(ふろうぐら)銅山に改称された。狼オイヌとはオオカミのことで、オイヌ→おいぬ→老いぬ→不老へ、倉(くら)は岩場のことで岩石の露出の多い所を意味し、狼のすむ岩の多い所を意味する。2)
(5)著作と石碑建立の時期は、どちらも天明の大飢饉の最中であるが、飢饉は、天明3~4年が特に厳しかった。天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が噴火し、火山灰を降らせたのである。
年表によれば、南部藩雑書に以下の記載あり。2)
・天明4年(1784)3月1日 不老倉銅山出火、床屋残らず、外に中間小屋、大炭倉、小炭倉、竹蔵、御米蔵、荒物蔵を焼失す。
・天明6年(1786)5月9日 大湯町惣老名共の願出るには、卯年(天明3年)の不作以来困窮その上数十軒焼失し夫伝馬を勤め兼ねるとのことなので、3ヵ年中50貫文宛下し置かれ銅山等の夫伝馬御用滞りなく勤めるよう命ずる。
(6)支配中(しはいちゅう)と総山中(惣山中)(そうさんちゅう)について
「中」は、「集団の一同、全体」を意味する。家中、氏子中、連中、惣中、村中、老中など。本来は、複数の構成員からなる総体を指した。その一員も、---中と呼ばれた。よって---中という役職者は、複数人いる。6)
平凡社世界大百科事典「阿仁鉱山」によれば、「1575年(天正3)湯口内に銀山が発見され,つづいて,1614年(慶長19)山先(やまさき)(惣山中の長)が七十枚山で金鉱を発見して,鉱山として急速に発展した。」とある。7)
支配中は、支配役数名がいるうちのひとりを意味するのであろう。総山中(惣山中)とほぼ同じ役職と思われる。どちらも場合も、その鉱山に複数人いる山師の一人であったということになる。
(7)不老倉鉱山、四角岳鉱山の山師の記録
年表には、「南部藩雑書」「諸山」「立山文書」「白根史蹟」などから抽出した、延宝8年(1680)~寛政7年(1795)間の不老倉鉱山、四角岳鉱山の山師、見立願人、山先、稼行者の名前が18人程挙げられているが、赤穂満矩の名前はなかった。2)
(8)不老倉銅山の捨鍰
年表によれば、以下の記述がある。2)
・文化13年(1816)4月 白根の左七、不老倉銅山の捨鍰働方を来る7月まで出銅50箇の見込みで願い出る。(白根談叢)
・文政2年(1819)この年、不老倉銅山において捨鍰稼行が行われた。(浅井資料)
「白根談叢」原書で「鍰」が漢字の「鍰」であったか確認したいところである。
考察
1. 「鉱山聞書」の目的は、序によれば、鉱山経営・技術の秘伝を息子に書き残すことである。秘伝は口伝が基本で、書き残すことは同業者から誹りをうけることになる。しかし「他見無用 秘伝なり」と書いてあるが、著者は、公開されることを本当に期待しなかったのであろうか。知り得たことをまとめて、謙遜はしているが誇りをもって、鉱山業の進歩に貢献したいと願ったのではなかろうか。
この本は、赤穂の子孫が何時公開したのであろうか。写本をいつ(南部藩内?)で、多数配布したのであろうか。
「鍰」を仮借した事だけなら、秘密にすることもないから、本に書くよりだいぶ前に、皆に言っていたかもしれない。
2. 江戸時代の書や文書で、「鉱山聞書」および「赤穂満矩」について言及されているものを、筆者は見つけていない。この和書の秘が守られていたためであろうか。
また 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」も何ら言及していない。日本鉱業会誌 vol. 28(No.329~332)(1912)には「鉱山聞書」が公開されており、「古事類苑・金石部1」(1896~1914)には、部分的に採録されている。8)それらを麓三郎が知らなかったとは思えない。技術面では参考になったと思うのであるが。
3. 石碑には「赤穂氏」までの刻字とのことだが、普通は、個人の名まで彫る。「満矩」の字が土に埋もれていないか。どなたか登山の折に確認していただけたらうれしい。序に「赤穂氏満矩」と「氏」を入れているが、何か意味があるのであろうか。
4. 赤穂姓
明暦3年(1657)~寛文5年(1665)の間、「大湯代官」に任じられたのが赤尾又兵衛卓頼(700石)であり、その父赤尾伊織頼賢は近江国赤尾村の出身であった。9)10)日本姓氏語源辞典によれば、「赤穂」は「赤尾」から出た場合もあるとのことなので、11)上記の赤尾氏から出た可能性はないか。また 現在「赤穂」姓の人が、岩手県二戸市、青森県八戸市に居られるので、繫がりがある人はいないであろうか。石碑により、実在人物であると確信するが、子孫が分かると決定的である。
5. この「鉱山聞書」(国会図書館蔵)写本は、明治初年と見られる。
からみ・鍰の由来(8)に示したように、「この書は、巖州邪麻郡下谷地村々長直助所蔵」と巻末に書かれている。巖州とは、岩代国(いわしろのくに)のことである。明治元年12月7日(1869.1.19)に、陸奥国から岩代国、磐城国、陸前国、陸中国の4国が分立し、岩代国は明治9年まで存在し以後福島県となった。その耶麻郡下谷地村(やまぐんしもやちむら)(現在は、福島県耶麻郡西会津町)の村長直助が所蔵したものである。本文とこの所蔵の筆跡は似ていることから、この写本は、明治初年になされたものと推定され、比較的新しいものであることが分かった。赤穂満矩の原書やその頃の写本は、図書館、博物館、歴史文化博物館等や旧家にないであろうか。字を問題にすると、著作当時の和書が、必要になる。
まとめ
赤穂満矩は「鉱山聞書」で、四角岳鉱山の支配中であること、中岳山頂に不老倉鉱山の総山中として鉱山の出鉑増進、山内安全を祈願した石碑があることから、実在した人物である。
南部藩雑書(南部藩家老席日誌)に「赤穂満矩」「鉱山聞書」の記載の有無をいつか調べてみたい。12)
注 引用文献
1. 赤穂満矩「鉱山聞書」国立国会図書館所蔵 コマ数2~3(図1),57~8(図2)
2. 斎藤長八「不老倉鉱山誌」(大湯郷土研究シリーズ1 平成12年 2000)
石碑p96 年表p103~112 不老倉の由来p5
鹿角市十和田市民センターの佐藤智美氏と大湯郷土研究会副会長の三上豊氏のお蔭でこの本を読むことができ、情報を得ることが出来ました。お礼申し上げます。
3. Wikipedia「中岳 (鹿角市・八幡平市)」に猿田彦大神命の石碑の正面写真のみあり。
4. Web. 木下亀城「不老倉及四角鉱山調査報文」地質調査所報告 第107号p67~115(東京地学協会 昭和5年1930)
5. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p56(勁草書房 1964)
6. Wikipedia 「老中 ろうじゅう」
7. Web.exite辞典「阿仁鉱山」 出典:平凡社 世界大百科事典
8. web. 国会図書館デジタルコレクション 神宮司庁古事類苑出版事務所 編「古事類苑・金石部1」(明治29年~大正3年 1896~1914)
明治政府による官撰百科事典である。
9. Web. 鹿角市先人顕彰館研究員編「鹿角人物事典」p5(鹿角市教育委員会 2020.3)
「赤尾卓頼(あかおたくより)」
10. Web. 近世こもんじょ館>きろく解読館>池田衛士家
『参考諸家系図』によれば、赤尾美作守清国の末流赤尾伊織頼賢は、近江浅井郡赤尾村(滋賀県・伊香郡の誤りか)に住居して京極若狭守忠高に仕えたと伝える。三子あり、
嫡子又兵衛卓頼は江戸に住居、明暦三年南部重直に召抱えられ七百石を領して鹿角郡大湯城を預かり花巻郡代を勤めたが、寛文五年禄を辞して江戸に帰り、一時浪人の後、常陸土浦藩土屋但馬守政直の家臣となり、後その家老職を勤めたという。子孫は同家の長臣となったと伝える。一説には土屋家仕官は南部家の推挙ともいう。
その二弟は伊兵衛頼茂で、池田家の祖である。頼茂は、兄卓頼と行動を共にして明暦三年南部家に出仕、三百石を食禄して者頭を勤めた。寛文五年禄を辞して江戸に帰り、やはり兄卓頼と共に土屋但馬守政直の家臣となった。その子は赤尾三平頼勝といい盛岡に生まれた。成人の後江戸に出て父に従い土屋氏の邸に居したが、後同家中池田重右衛門の婿養子となり、その家領二百五十石を継いで池田重右衛門と改めた。頼勝はその後元禄五年に盛岡の母を介護する理由で主家の許可を得て家族共々に盛岡に移住、南部家に帰参して十五人扶持(高九十石)を食禄し同八年死去した。(以下略)
11. web. 「日本姓氏語源辞典」>赤穂
12. 「南部藩雑書」(盛岡藩家老席日記)盛岡市教育委員編 第30巻安永8年(1779)~第40巻文化7年(1810)(東洋書院 2013~2016)
図1. 鉱山聞書 序
図2. 鉱山聞書 跋
図3. 不老倉鉱山、四角岳鉱山、白根鉱山、尾去沢銅山などを含む鹿角周辺の地図
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