気ままな推理帳

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天満村寺尾九兵衛(26) 宗清と貞之進英清の間に二代の当主がいた

2024-12-22 08:46:54 | 趣味歴史推論
  寺尾九兵衛家の位牌のなかに、没年が享保で続柄の不明な位牌が二柱あった。九兵衛とか〇清とか九兵衛室と書かれていないので、当主やその室でないと判断していた次の二柱である。

 位牌
  享保9甲辰歳9月29日(1724)
  梵字ア 法玉理然居士霊位
 裏面
  俗名 寺尾彌市右衞門

 (推定)妻の位牌
  享保13戊申年10月4日(1728)
  梵字ア 観智恵照大姉霊位


 金毘羅宮奉献八角形青銅燈籠 宝永3年10月吉日 寺尾春清 同九兵衛尉宗清 同十郎右衛門尉貞清1)

1. 位牌には寺尾弥市右衞門と俗名だけが書かれているので、春清、宗清との続柄が分らなかった。ここに至って筆者は次のように推理する。
 ① 八角形青銅燈籠(宝永3年)の寺尾十郎右衛門尉貞清は宗清の弟である。
 ② 寺尾彌市右衞門と十郎右衛門尉貞清は同一人物である。
 ③ この人物が、宗清亡き後、七代当主寺尾貞清となった。そして貞清亡き後、享保9年(1724)に(1724-1697+1=)28歳となった庸清が八代当主となった。
2. 九代当主貞之進英清は、宗清とツタの子供ではないことは、生年から分ると前報で指摘した。英清は七代当主寺尾貞清の子と推理した。名に貞之進と「貞」が付くこともそれを示唆している。ツタの義甥にあたる。
 宗清、貞清、貞清の妻、貞之進の年令考から、この推理の妥当性をチェックしてみる。
 各人の生年と没年は以下の通り。
 宗清 (1670)~1712
 貞清   ? ~1724
 貞清の妻 ? ~1728
 貞之進 1720 ~1759
 ここで、貞清は兄宗清より10才若いと仮定すると、生年は1680年となる。弟の結婚は30才と遅かったと仮定すると結婚は1709年となる。貞清の妻はやや遅く20才で結婚したとすると妻の生年は1690年となる。貞之進を生んだ妻の年令は31才となる。あり得ることである。
なお、以前本ブログ1)では、「寺尾十郎右衛門尉貞清とは、上天満村庄屋(西条藩)の名は「九郎兵衛」と古文書にあるが、その人の名でもあるのか」と記したが取り消したい。
 これまでの情報だけでは、間違いがありうるので、今後過去帳の調査でより正確になることを期待したい。
3. 寺尾九兵衛家系図(5代~9代)は次のように修正した。


4. 寺尾九兵衛当主年表 暫定版(2024.6)を修正し、寺尾九兵衛当主年表 修正版(2024.12)として示した。→表

まとめ
1. 八角形青銅燈籠(宝永3年)の寺尾十郎右衛門尉貞清は宗清の弟であり、位牌の俗名彌市右衞門と同一人物であると推定した。
2. 貞清は宗清亡き後七代当主寺尾貞清となり、貞清亡き後、宗清ツタの子庸清が八代当主となった。
3. 庸清亡き後、貞清の子貞之進英清が九代当主となった。貞之進英清はツタの義甥にあたる。


注 引用文献
1)本ブログ「天満村寺尾九兵衛(24) 春清・宗清は金毘羅宮へ八角形青銅燈籠を宝永3年に奉献した」
(2024-12-08)

表 寺尾九兵衛当主年表 修正版(2024.12)


天満村寺尾九兵衛(25) 第六代九兵衛宗清とツタの結婚及び子供たち

2024-12-15 09:11:33 | 趣味歴史推論
 天満村大庄屋五代寺尾九兵衛春清が田向重右衛門と会談し、別子銅山稼働後に当主を継いだのが六代宗清である。宗清の妻がツタであり、夫亡き後、坂之内池を(築造し)水を引いた女傑であった。ツタを中心に一家を追っていきたい。

1. ツタは新居郡大島浦の上野庄左衞門家から嫁いできた。土居町誌によれば 1)「上野家は代々伊賀の国上野の城主であったが、豊臣秀吉に攻略せられ、大島の豪族村上氏を頼って土着したが、男がなくて、村上氏から養子を迎えたその子孫である。従ってツタには武将と伊予水軍の地が流れていた。」

 ツタの位牌
   寛延4辛未年2月16日(1751)
  梵字ア 實乗妙空大姉霊位

 位牌を納めた観音開きの厨子の背裏に
   施主 寺尾新兵衛
   出所大嶋浦上野庄左衞門娘
      俗名 寺尾おつた
      行年 七十四歳


 施主の寺尾新兵衛は、立場から云えば、八代当主貞之助英清と推定される。
 その当時の行年は数え年であったので、ツタの生年は、(1751-73=)1678年延宝6年である。
(1)いつ結婚したか
 ①豊かな家同士だったので、娘は数え年15~16で嫁いだ可能性がある。数え年15で嫁いだとすると、(1678+14=1692)元禄5年となる。
 ②寺尾九兵衛本家の位牌調査の結果、判明した事の一つに次のことがある。
 暫定当主年表2)に七代九兵衛として挙げた「寺尾庸清」(つねきよ)の存在がわかったことである。庸清は、宗清とツタの間に生まれた子に間違いなく、九兵衛とあるから当主を継いだことも確かである。
  庸清の位牌
   元文4己未歳10月29日
  梵字ア 實嚴道恕居士霊位

 裏面に
   俗名寺尾九兵衛庸清
   春秋43歳卒


 庸清の没年は1739年であり生年は(1739-42=1697)元禄10年である。ということは、ツタの結婚は元禄9年以前である。
 ③金毘羅宮への奉献燈籠の願主から
  石燈籠 元禄7年(1694) 寺尾氏春清
  六角形青銅燈籠 元禄9年(1696)頃 奉献者 寺尾善三春清 同九兵衛尉宗清 同十郎右衛門 
 六角形青銅燈籠の奉献年は1696年頃と筆者は推定しており、この年には、九兵衛宗清となっているので当主は宗清であることがわかる。この時には結婚していたと言える。
 一方、石燈籠には宗清の名がないことから宗清は当主でない可能性がある。同時に九兵衛春清と書かれていないことから、春清はすでに隠居している可能性もある。元禄7年には結婚していたかどうかは決められない。
 以上のことから、ツタの結婚は、位牌の情報からは元禄5~9年であり、燈籠の情報からは、元禄7~9年頃である。
(2)生んだ子供たちの育ち
 夫の宗清は正徳2年(1712)に亡くなっているので、最も遅い子供の生年は、正徳3年(1713)以前である。またツタの出産年令は数え年で31歳までと予想すると位牌の次の人たちが、ツタの子供に該当する。
 ① 庸清  元禄10年(1697)~元文4年(1739)
 ② 童女  没年月日 元禄13年正月15日(1700) 
 ③ 童子  没年月日 元禄13年6月28日(1700)
 ④ 童女  没年月日 宝永7年9月22日(1710)

 童子、童女は数え年5~15歳に付けられる戒名なので、その生年は
 ① 生年1697 ツタの年令(数え年)20に相当
 ② 生年1700-(4~14)=(1686~1696) ツタの年令(数え年)9~19に相当
 ③ 生年1700-(4~14)=(1686~1696) ツタの年令(数え年)9~19に相当
 ④ 生年1710-(4~14)=(1696~1706) ツタの年令(数え年)19~28に相当         
 これから考えられるケースとして、第1子②女児1695生、第2子③男児1696生、第3子①庸清1697生、第4子④(1698~1706)生。 または、第1子と第2子が入れ違うケースである。
 結局4人の子供が5歳以上に育ったが、成人したのは庸清一人だけであった。
 ケースから推測すると結婚は元禄7年(1694)頃でツタ17才である。その時、宗清が25才(数え年)とすると、宗清の生年は(1694-24=)1670年寛文10年となり、享年は43となる。ツタは(1712-1678+1=)35歳で寡婦となった。

(3)庸清は八代九兵衛であろう。
 当主年表 暫定版(2024.6)より2)
 五代九兵衛 春清 推定当主期間1680~1693  ~1709(宝永6年12月17日卒) 明穹法欽居士   
       妻               ~1715(正徳5年2月19日卒) 久山性永信尼 
 六代九兵衛 宗清       1693~1712  ~1712(正徳2年12月4日卒) 一白浄卯居士
       妻ツタ           1678~1751(寛延4年2月16日卒) 實乗妙空大姉 
 当主年表には、七代九兵衛として、庸清を挙げていたが、宗清が亡くなった正徳2年に、庸清は(1712-1697+1=)16歳にしかなっていない。大庄屋職が直ぐ務まるとは思えず、庸清の前に別の当主が一人いたと考えるのが妥当である。新たに七代当主を推定したので、次報でこの事を記したい。また貞之助英清は、ツタの実子でないことも貞之助英清の生年が享保5年(1720)であることから明らかである。

2. 大島浦吉祥寺の金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅(享保4年 1719)
 ツタの出身地の新居浜大島の真言宗吉祥寺には、二幅の曼荼羅がお祀りされている。(年二回春秋のみ開帳)それには次のように書かれている。3)4)
享保4年7月 両界曼陀羅 施主井筒屋上野庄左衛門 為天満寺尾九兵衛母儀 絵師東寺絵所大法印姉崎永喜(京都室町)」昭和48年再表装。
これによれば、大島の井筒屋上野庄左衞門は、娘ツタの姑(夫宗清の母=春清の妻)「久山性永信尼」をお祀りするために両界曼荼羅(絵師姉崎永喜 姑没後5年(1720)描)を寺尾家に納めた。そして江戸~明治の時代に 寺尾家から、この曼荼羅が縁のある吉祥寺に寄進されたと思われる。5)

まとめ
1. 新居郡大嶋浦上野庄左衛門の娘ツタは、六代九兵衛宗清と元禄7年頃結婚した。
2. 4人の子供が5歳以上に育ったが、成人したのは庸清一人だけであり、八代当主となった。
3. 夫宗清は正徳2年に(推定享年43)に没し、ツタは35歳で寡婦となった。
4. 上野家は、ツタの姑のお祀りに姉崎永喜作の両界曼荼羅を寺尾家に納めた。


注 引用文献
1. 土居町誌p832「坂之内池を築いた寺尾つた女」(執筆山上統一郎)(昭和59年 1984)
2. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(2) 大庄屋寺尾九兵衛当主年表」(2024-6-30)
3. ホームページ「新居浜市大島の毘沙門天・吉祥寺」>陽向山吉祥寺のご案内>両界曼陀羅図
→両界(金剛界・胎蔵法)曼荼羅の画像がある。
4. 姉崎永喜作の仏画について
兵庫県多可町政記者発表資料(令和5年) 「金蔵寺所蔵の姉崎永喜作仏画「薬師師三尊十二神将像図」「五大明王像図」「仏涅槃図」の3点を多可町指定文化財に指定した(2023.2.22)。」
姉崎永喜(?-1729)は、江戸時代の姉崎派ともいわれる仏画の絵師の一派の初祖。 延宝年間に当時より「絵所」辞令を受け、その後、真宗仏光寺派の本山である仏光寺の絵所を務める。
【姉崎永喜 作例】
・大宝寺 仏涅槃図 (長野県駒ケ根市指定文化財) 享保3年(1718)
・吉祥寺 金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅 (愛媛県新居浜市大島)享保4年(1719)
5. 土居町誌p89(執筆真鍋充親)「新居郡大島村の吉祥寺には寺尾家寄進の曼荼羅一対が秘蔵されている。まことに立派なものである。(ヲツタは大島村上野家の出であった)―参考明治45年天満村郷土誌―

天満村寺尾九兵衛(24) 春清・宗清は金毘羅宮へ八角形青銅燈籠を宝永3年に奉献した

2024-12-08 08:54:04 | 趣味歴史推論
 寺尾春清・宗清らは、六角形青銅燈籠に続いて、八角形青銅燈籠を金毘羅宮に奉献した。

八角形青銅燈籠(W-283) 旭社本殿からの参詣下り道の上り坂の角 青銅本体の高さ255cm1) →図、写1、写2、写3、写4

 火袋  八面    「金」の透かし彫り
 竿   正面上部  寶永三丙戌年   下部  豫州天満村願主
           奉獻           寺尾 善三春清
           金毘羅大権現       同 九兵衛尉宗清
           十月吉日         同 十郎右衛門尉貞清
  
                  背面下部  請負人 大坂備後町堺筋 舛屋甚兵衛 
                        細工人 大坂 松井太兵衛

 
 基壇は花崗岩製、二段で高さ57cmである。
 全文字が凸(陽鋳)である。この燈篭は、奉献当時のままであろう。宝珠は玉形。

考察
1. 願主について
宝永3年(1706)において、五代当主だった春清は隠居しており、現在は宗清が六代寺尾九兵衛として当主を務めている。この関係は、六角形青銅燈籠を奉献した元禄9年頃と同じである。
十郎右衛門尉貞清は、六角形青銅燈籠を奉献した時は、単に十郎右衛門であったので、役が重くなったと言える。ただ十郎右衛門尉貞清は、春清との続柄が不明である。尉を持ち、二代九兵衛の名「貞清」をもらっていることから、庄屋職の可能性がある。上天満村庄屋(西条藩)の名は「九郎兵衛」と古文書にあるが、2)その人の名でもあるのか。
奉献した宝永3年(1706)は、別子粗銅が天満村を通らなくなって4年後である。今後の廻船業や地元産業の発展を願ってこの青銅燈籠を奉献したのであろうか。無病息災も願っていたであろうが、
春清は宝永6年(1709)に、追うようにして、宗清が正徳2年(1712)に亡くなった。
2. 請負人について
 大坂備後町堺筋舛屋甚兵衛が請負人である。燈籠の製作だけを請け負ったのか、金毘羅宮への設置までも含めて請け負ったのかはわからない。
「舛屋甚兵衛」をインターネット検索したら、2件の関係ありそうなものが見つかった。
 ① 「ごさんべえのぺーじ」3)には「源平の昔に三備(備前、備中、備後)を治めた平家の武将妹尾太郎兼康の後裔で津山市住の舛屋甚兵衛兼恒(寛延2年(1749)没)がいた。この人の祖父の代から商家となった。舛屋という屋号から測量器などを扱っていたのかもしれません。」とある。
 ② 「音釋文段批評莊子鬳齋口義大成俚諺鈔」4)の本の末尾には「元禄16癸未歳5月吉日 書林 舛屋甚兵衛・銭屋庄兵衛」とある。書林とは出版社のこと。銭屋庄兵衛は他にも多数の本を出版しているが、舛屋甚兵衛はこの本しか見つからなかった。
 津山市の商家舛屋甚兵衛兼恒と出版社舛屋甚兵衛とは同一人物の可能性がある。商家甚兵衛の没年寛延2年は、元禄16年(1703)の(1749-1703=)46年後であるで、年令的に考えてもありうる。大坂にも商家を構えていたのではないか。 「莊子口義俚諺鈔」の共同出版社である銭屋庄兵衛は、京都堀川通綾小路下ル町にあるので、舛屋甚兵衛が大坂住であってもおかしくない。舛屋は本の出版は早々に止めて、別の商いに転じたのかもしれない。その頃に寺尾春清から青銅燈籠の金毘羅宮への奉献を請け負ったのではないだろうか。
3. 角字について
 竿の節に角字で十二支が記されている。その角字と筆者が読んだ十二支を示した。→ 写5
角字はデザイン文字なので、漢字のように決まったものではないようで、出版社であったかもしれない請負人舛屋甚兵衛が絡んでいるのか、細工人自身がデザインしたものであるのか。凝っていてめずらしく、青銅燈籠では初めて見た。

まとめ
1. 別子粗銅が天満村を通らなくなって4年後の宝永3年に春清・宗清は金毘羅宮へ八角形青銅燈籠を奉献した。
2. この燈籠は六角形燈籠より後に大坂で作られた。
3. 竿の節に十二支の角字がデザインされている。


注 引用文献
1. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p238下向道の燈籠W-283(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション →図 
2. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(10) 寛文7年に家50軒250石積廻船があった」(2024-9-1)
3. ホームページ「ごさんべえのぺーじ」>妹尾家・舛屋
4. 「国書データベース」>音釋文段批評莊子鬳齋口義大成俚諺鈔 デジタルデータ コマ数730/731

図 寺尾春清・宗清宝永3年奉献の八角形青銅燈籠W-283(金毘羅庶民信仰資料集より)


写1 寺尾春清・宗清宝永3年奉献の八角形青銅燈籠


写2 青銅燈籠の竿正面


写3 青銅燈籠の竿正面奉献者名


写4 青銅燈籠の竿背面下部冶工名


写5 青銅燈籠の節の十二支角字


天満村寺尾九兵衛(23)金毘羅宮へ元禄10年別子銅山外財中・泉屋吉左衛門奉献の青銅燈籠1対

2024-12-01 06:48:31 | 趣味歴史推論
 別子銅山外財中・泉屋吉左衛門奉献の青銅燈籠1対は、金刀比羅宮本宮右脇の柵の中に1基、そこから約20m離れた奥社への道入口に1基がある。同形状、同銘文であり、奉献当時は対になる場所に設置されていたと思われる。
青銅本体の高さ308cm、基壇は花崗岩製で二段高さ63cm。
八角形青銅燈籠 (W-256-a、b) →図、写1~5
 火袋  背面 元禄十丁丑歳
        九月吉祥日
 中台     金(八面)
 竿  正面上部 常夜燈   下部 伊豫國宇摩郡
                  別子銅山外財中  
                  象頭山松尾寺
                  造立攝州大坂住
                  泉屋吉左衛門

 背面            下部 冶工
                  洛陽釜座住
                  近藤丹波掾藤原佐久
 
 基壇二段目 正面  別子銅山持
           大坂府下
           和泉屋吉左衛門

 竿の主銘文は凸(暘鋳)、背面下部の冶工の部分は陰刻である。

考察
1. 奉献年月
 資料集で火袋の背面にあるとされる「元禄10年9月吉祥日」は、目視ではわからなかった。「常夜燈」の両側は空いているのになぜそこでないのか。冶工名は竿の背面に陰刻されているのに。
2. 別子銅山外財中
 外財中(げざいじゅう)は外財全員を示している。外財は下財とも書かれる。
  ①別子銅山用語集2)によれば 「下財とは稼人。元来土地を持たない人の意味で、「工」に属する職人。賃仕事で生計を立てる者。百姓の対語。」
  ②日本国語大辞典(小学館)によれば、「下財とは鉱山の金掘り坑夫、金掘師」である。
 ①の別子銅山の稼人全員が金を出したと思いたいが、実際は②の坑夫全員ではないだろうか。そのお金に足して泉屋吉左衛門が残り大半を出し、燈籠を造立したということであろう。
3. この燈籠の奉献の対象は、象頭山松尾寺としている。金毘羅大権現ではなかったが、中台各面には、「金」の字が大きく鋳られている。
4. 花崗岩製の基壇に大坂府下とあるので、この基壇は明治初期神仏分離令後に燈篭を移設した際に作成したのであろう。1868年5月2日に太政官が大阪府を設定した時は「阪」になったが、官報は1887~1891年あたりから「阪」の文字に変わった。即ち 「大坂府」表示は1868~1891年(明治元年~明治24年)にあり得る。
5.  冶工は洛陽釜座住の近藤丹波掾藤原佐久である。京都の三条釜座鋳物師で有力な家であり、梵鐘など多くの作品が現存する。3)
6. 設置箇所からの推測
 柵の中に、一基(W-256-a)と寺尾奉献の六角形青銅燈籠(W-255)一基がある。1984年の配置は右に張り出した本宮の近くに寺尾W-255があったが、現在は奥の方に移されている。寺尾W-255の方が小さいが本宮近くに配置されていたことは、寺尾W-255の方が別子銅山・泉屋のより古く奉献されたからと筆者は思う。そうでなければ、一対の別子銅山・泉屋燈籠が並んで柵の中にあったはずである。

「山崎聖天」の青銅燈籠
 同じ元禄10年(1697)に住友家より奉献された青銅燈籠が「山崎聖天」真言宗妙音山観音寺4)(京都府大山崎町)にある。筆者は見ていないので、以下はネット情報からの知見である。

八角形青銅燈籠で高さ3m余りと金毘羅宮のと同じ大きさである。5)→写6
竿に「冶立抾貢者 住友氏友信」と陰刻されている。6)
「大燈籠は、元禄10年住友吉左衛門友信が住友発祥の地である京都と当時の住友の拠点であった大坂との中間点であるこの山崎の地に歓喜天(聖天)信仰と報恩謝徳を願い、また商売繁盛の祈誓のために建立、寄進されたもので、別子銅山の銅で鋳造された」の旨が説明碑に記されている。
写真の観察で分ったこと。
 笠には梵字、火袋にも梵字、中台には天女、竿には、多数の法輪、基礎の格狭間には、龍、神獣が鋳られている。各面に梵字があるのが特徴的で、五輪塔の様な感じがする。仏教色が濃い。
 寄進者名が陰刻であることは、金毘羅宮の燈籠と違う。燈籠鋳造後に刻めることから推測すると、住友から寄進されたお金で、寺側が作り建てたのではなかろうか。

まとめ
1. 別子銅山外財中・泉屋吉左衛門は、金毘羅宮へ元禄10年八角形青銅燈籠1対を奉献した。
2. 同じ元禄10年に吉左衛門は、山崎聖天へ八角形青銅燈籠1基を寄進した。


注 引用文献
1. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p205 御本宮まわりの燈籠W-256-a,b(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション →図
2. 「住友別子鉱山史」別巻 別子銅山用語集p70「下財」(平成3年 1991)
3. 田中聡「近世三条釜座鋳物師の実態について」 web.「立命館文学」672号p285(2020)
4. ホームページ「京都風光」>観音寺(山崎聖天)
観音寺:昌泰2年(899)創建。 本尊は聖徳太子の作と伝わる十一面千手観音菩薩。1682/1681年摂津・勝尾寺より聖天(大聖歓喜雙身天王)を遷し、諸大名、豪商の信仰を集める。勝尾寺の僧・木食以空(もくじきいくう)が、その夢告により中興したという。その際に、住友、三井、鴻池などの豪商の寄進があった。やがて本尊より、財宝・子宝・安産を祈願して祀られる仏教の護法神である歓喜天が有名となり、観音寺は山崎聖天と呼ばれるようになった。
5. ブログ「みぞかつのぶらり散歩」>観音寺 【山崎聖天】 (京都府乙訓郡) (2023-3-19) →写6
 写真を転載させていただきありがとうございました。
6. ブログ「Tenyu Sinjo.jp 天祐神助」>住友財閥史>山崎聖天観音寺

図 別子銅山外財中・泉屋吉左衛門奉献の青銅燈籠1対 W-256-a,b(金毘羅庶民信仰資料集より)


写1 別子銅山外財中・泉屋吉左衛門の青銅燈籠W-256-a(手前)と寺尾家の六角形青銅燈籠(奥)


写2 別子銅山外財中・泉屋吉左衛門の青銅燈籠W-256-b


写3 青銅燈籠W-256-bの竿正面


写4 青銅燈籠W-256-bの竿背面下部の冶工名


写5 青銅燈籠W-256-bの基壇


写6 山崎聖天の住友吉左衛門友信寄進の青銅燈籠(「みぞかつのぶらり散歩」より)


天満村寺尾九兵衛(22)坂上半兵衛正閑(羨鳥)が金毘羅宮へ元禄9年寄進した青銅燈籠

2024-11-24 09:08:53 | 趣味歴史推論
 寺尾九兵衛家の六角形青銅燈籠は、坂上半兵衛正閑(さかうえはんべえまさやす)家の青銅燈籠と同時期の元禄9年に奉献されたのではないかと前報で記した。ここで、その坂上半兵衛正閑の青銅燈籠を見てみたい。

 本宮まわりの三穂津姫社脇にあり、青銅本体高さ256cmの立派なもので、銘文(凸)は明確に読める。
 六角形青銅燈籠W-267(1696)1) →図、写1、写2

 竿 正面  上部  奉寄進金燈籠     下部  豫州宇摩郡中之庄村
           金毘羅大権現         坂上半兵衛尉正閑
           御寳前            同 半右衛門尉正清
                          同 伊之助
           元禄九丙子歳
           三月吉祥日


 この燈籠は、金毘羅宮の青銅燈籠のうち、最古の燈籠である。また大名奉納の燈籠以外で、最古の燈籠である。
笠には法輪、火袋には天女、中台には唐草模様、節には五輪、基礎の格狭間には龍と波、獅子が鋳られている。
 坂上半兵衛正閑(羨鳥)は、元禄時代の宇摩郡の著名人で記録が多く残され、経歴・業績が紹介されている。青銅燈籠の寄進に関係がありそうな所のみを文献から引用しておく。
1. 経歴
坂上羨鳥(さかうえせんちょう)(1653~1730)(承応2年~享保15年)2)
俳人。庄屋。宇摩郡中之庄村出身。本名は半兵衛正閑。松山・今治・丸亀・高松など、諸藩の御用金調達方を務めており、仏道信仰と商用を兼ね上坂した際、池西言水・北条団水・椎本才麿ら上方談林派の指導を受ける。句集『簾(すだれ)』、『たかね』、『花橘』を刊行し、その親交は談林派のみならず、貞門派、新風の蕉門にまで広がる。また、信仰心も厚く、河内国清水村地蔵院の蓮体を尊敬し、中之庄村持福寺をはじめ、河内国地蔵院や讃岐国金刀比羅宮など、多くの寺社に寄進を続けた。」

石川士郎「伊予今村家物語」には以下のように記されている。3)
坂上半兵衛正閑は承応2年中之庄村庄屋坂上半右衛門正吉の子として生まれる。延宝6年(1678)父の跡を継ぎ庄屋となる。この年26才、父と共に高野山佛心院へ燈籠寄進、讃州地蔵院へ観経曼荼羅(重文)大師自筆御影像寄進。元禄4年父没、同5年妻没、同6年妹没し、世の無常を感じ、庄屋職を嫡男正清に譲り、以後羨鳥と号し、自由に京洛に遊び財をなすが、大部分は神社仏閣に奉仕し、俳諧書を刊行して文化の発展に寄与する。
  羨鳥寄進の社寺は次のようである。
  元禄6年 中之庄持福寺へ梵鐘及び鐘楼寄進
  同 7年 三角寺へ文殊堂寄進
  同 8年 三島大明神に神門寄進
  同 9年 讃岐金毘羅宮へ青銅燈籠寄進給田付、俳諧書「簾」を刊行
  同14年 善通寺へ釣鐘寄進、鐘楼給田付、俳諧書「高根」3巻を刊行
  宝永元年 中之庄持福寺へ客殿寄進
  同 2年 讃岐金毘羅宮へ手水鉢寄進、給田付
  同 4年 中之庄へ大師堂建立、給田付、河内に蓮体和尚を招き大供養会
  以後正徳元年~享保10年の間に13件の寄進あり(詳細は省く)。」

2. 寺尾九兵衛との関係
「坂上家系図」によれば4)
「坂上正閑 室は今村義康の女、後室は飯尾氏の女  子は五男四女
  長男 正清(半右衛門) 元禄14年(1701)没  元禄6年庄屋職襲名
  次男 伊之助  (早世)
  三男 正勝 室は寺尾九兵衛の女、後室は今村義堅の女 元禄16年庄屋職襲名、宝永6年大庄屋職襲名。」

 三男正勝の妻が寺尾九兵衛春清の娘である。坂上半兵衛正閑と寺尾九兵衛春清とは、姻戚であった。春清は、生年、享年が不明のため年令が分らないが、元禄6年頃大庄屋職を宗清に譲っている。坂上半兵衛正閑とほぼ同じ年代であろう。金毘羅宮への青銅燈籠の奉献は互いに知っていたであろう。

3. 羨鳥が金毘羅宮へ青銅燈籠を寄進した理由5)
「寄進した元禄9年(1696)に発行した俳諧書「簾」に北条団水の序文が載せられている。北条団水6)は、坂上羨鳥が「飛花落葉、人生の無常を感じ或る年の春、高野山に上り先祖の霊をまつり、現世門葉の安泰を祈り、和歌浦、吉野、多武、泊瀬、奈良をへて得た多くの句や、京阪の士と風交した句々を選んで一集となし、これを予讃の神仏に奉納しようとして作ったのが、この「簾」である。」と述べている。ここでいう予讃の神仏とは、伊予の三角寺と讃岐の金毘羅宮である。羨鳥は、家族の死にあい、世の無常を感じ人生について深く思いをいたし、永遠の彼方に伝えるものとして、俳諧集の選集と奉納があった。金毘羅宮の燈籠は、このとき俳句と一緒に奉納したものである。

まとめ
1. 坂上半兵衛正閑(羨鳥)は、金比羅宮へ元禄9年青銅燈籠を寄進した。併せて俳諧集「簾」を奉納した。
2. この燈籠は、金毘羅宮の青銅燈籠のうち、最古の燈籠である。また大名奉納の燈籠以外で、最古の燈籠である。
3. 坂上半兵衛正閑は寺尾九兵衛春清と姻戚であった。


注 引用文献
1. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p216 御本宮まわりの燈籠W-267(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション →図
2. web. データベース「えひめの記憶」>四国中央市>坂上羨鳥
3. 石川士郎「伊予今村家物語」p89,p328(今村武彦発行 2006)伊予三島市史及び村上光信「福生庵と羨鳥の福業」を参考にしたとある。
4. 石川士郎「伊予今村家物語」 p351第4図「今村家と坂上家系図」(今村武彦発行 2006)
5. 「伊予三島市史」上巻p354(昭和59年 1984)(主筆合田正良、該当箇所執筆石川士郎) web.国会図書館デジタルコレクション
6. web.名古屋大学付属図書館「古書は語る」
北条団水(寛文3年-宝永8年)(1663-1711) :西鶴の一番弟子で京の人。西鶴から発句「団(まどか)なるはちすや水の器(うつわもの)」を贈られ、号を団水とする。他に白眼居士・滑稽堂の号がある。西鶴の死後、大阪に移住して西鶴庵を守りつつ、誠実に西鶴遺稿を整理して世の中に送り出した。団水自身の浮世草子作家、俳諧師としての著作活動は25歳ころからはじまり、晩年までに数多くの作品を上梓する。

図 坂上半兵衛正閑(羨鳥)奉献の青銅燈籠W-267(金毘羅庶民信仰資料集より)


写1 坂上半兵衛正閑(羨鳥)奉献の六角形青銅燈籠


写2 燈籠の竿の銘文