令和4年3月2日(水)
JR東海主催 さわやかウォーキング
「❶東海道のおひなさまを愛でながら関宿・亀山宿を散歩」の続きです。
ここから街道を歩いていきます。
お茶屋さんやお蕎麦屋さんがありました。
まだ開いていませんでしたが。。
ここでちょっと街道をそれて、まっすぐ進んで行きます。
なにか見えてきましたね。
小萬の湯「足湯交流施設」のようです。
行ってみます。
足湯がありました。
誰もいないw
10時からだそうですw
向こうにも何かありそうなので行ってみます。
関宿散策案内休憩所
閉まっておりましたw
ひな人形がみれないw
残念。
正門は閉まっておりました。
9時からだそうですw
先ほどの通りから右へ進んできました。
一応コース通りなのですが。。。
山車蔵です。
一部ガラス窓になっていて、中を見ることができました。
大裏町(北裏) 山車
からくり人形のある山車ですね。
昔は20山車ほどあったそうですが、今は4山車になってしまったそうです。
関の山車と書いて、せきのやま。
関の山の語源になっているそうです。
(○'ω'○)ん?
行き止まりかな?
小道を抜けてくると、山門がありました。
入ってみます。
次の目的地「福蔵寺」です。
立派なお堂ですね。
中へは入れませんでした。
この地域は戸締り用心、火の用心ですね。
お参りします。
境内にあったお墓
福蔵寺の創建と織田信孝公
織田信長の三男信孝公は、本能寺の変で憤死した信長の冥府を祈るため、
神戸の住人旧臣大塚俄左衛門長政に命じ、この寺の建立にかかりました。
しかし信孝公は羽柴(豊臣)秀吉との後継をめぐる争いに敗れ、
天正十一年尾張の国野間に於いて自害させられましたので、
長政が当山に首を持参し信孝公の菩提寺としました。
この墓は、信孝公の墓石不詳のため(事由は不詳)四百年忌を迎えた時、
菩提を弔うため建立したものです。
本堂には創建当時からの信孝公の位牌が祀られています(案内板より)
山門前は工事中でした。
出れないw
境内の端っこにあった「関の小萬碑」
お隣にお地蔵さまがありました。
小萬のお墓かな?
関の小万について
鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女の身で父の仇討ちをした仇討烈女として名高い。
小万の父は九州久留米有馬氏の家来で剣道指南役牧藤左衛門と言ったが、遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。
身重の妻は夫の仇を討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え関宿についた頃には旅の疲れが重なって、
地蔵院前の旅籠山田屋の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。
山田屋の主人も女将も親切な人たちであったので、この女を引き取って手厚く看病し、女はそこで女の子を産んだ。
これが小万である。
女はまもなく、子供の将来を宿の主人山田屋吉右衛門に託して死んだ。
小万は成長して養父母から両親のことを聞き、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心をする。
山田屋の主人は、亀山藩家老加毛寛斎に頼んで武術の修行に励むようにした。
天明3年(1783年)8月、運良く仇と巡り会うことができた小万は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、
見事本懐を遂げることができたのであった。
これにより関の小万の名前は一躍高まったが、その後も山田屋にとどまって養父母に仕え、
享和3年(1803年)正月16日、36歳で死んだ。墓は福蔵寺にある(亀山市サイトより)
工事中で正面の山門からは出られないので、迂回していきます。
こっちですw
正面の山門前へ出ました。
コンクリートを流し込んでいました。
綺麗になりますね^-^
参道を進んでくるとすぐ、通りへ出ます。
ここから東海道五十三次の四十七番目、関宿へ入っていきます。。
いよいよ街道を歩いていくのですが、あまり人が居ませんねw
まだ9時前w
早かったかな。。
続きはまたにします。