夏目漱石は、明治39年に『草枕』を書きますが、その舞台那古井は小天の旅を踏まえて設定されています。
『草枕』の中で、志保田の那美さんが前田卓子をモデルにしたとされますが、卓子の人物像や生活をそのままモデルにしているわけではありません。
主人公の入浴中、那美さんが浴室に現れる有名な場面がありますが、これは実際には山川信次郎と漱石が入っているところに卓子さんが入って来たということのようです。次に夏目鏡子の『漱石の思い出』(文春文庫)から引用します。
〈ある日夜おそくなってから姉さん[前田卓子]は、その日のことを終わっていざ湯に入って寝(やす)みましょうと思って、女湯の方へ行ってみますと、ぬるくてとても入れません。男湯の方はとのぞいてみますと、もうもうと湯気の立ってるぐあいと言い、誰もいないらしい気勢(けはい)なので、安心して着物をぬいで、浴槽へ石段を踏んで下りかけますと、湯の中でポチャリという音がします。オヤ、誰もいないはずだったのにと立ちどまって、怪しみながら、中をじっと覗ってみますと、くすりとたしかに人の笑う声がします。びっくりして瞳をこらしてみると、驚いたことに夏目と山川さんとが、しきりにおかしさをこらえて、茶目さんらしく灯影の当たらない浴槽の一隅に首だけ出していたというではありませんか。姉さんは真赤になって戸の外へ逃げ出したそうです。すると女中がこれまた裸になりかけていましたが、どうなすったのかとひどいあわて方にびっくりしてたずねますが、姉さんはたまらくなって何も言わず着物をひっかけて逃げ出してしまったということです。〉
『草枕』の場面とは全く趣を異にしています。下の画像は、『草枕絵巻』作成を主宰した松岡映丘の描いた「湯煙りの女」です。
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