漱石は、今回取り上げた以外にも小天を訪ねています。それは妻鏡子の記憶によると明治31年「蚕のころ」といいます(狩野亨吉・山川信次郎・奥太一郎らと一緒)から、5月~7月ころでしょうか。「なんでも最初か二度めに夏目が参りました時、ちょうど生まれたばかりのすえの利鎌(とがま)さんを見て、顔の赤いのに驚いたとか何とかいうのですが」(『漱石の思い出』夏目鏡子・述、松岡譲・筆録)とあります。
ここにある利鎌は、前田利鎌のことで、卓子の異母弟にあたります。利鎌は明治31年1月の生まれですから、漱石が利鎌を見たのは2回目の訪問時ということになります。
「生後いくばくもなき幼少の故人[前田利鎌のこと]が、姉卓子に抱かれて漱石等に愛撫され、後年その門に親しく出入せるも亦奇縁といふべし。」と漱石の長女筆子の夫松岡譲が後に描いています。(松岡譲編集『宗教的人間』に付された前田利鎌年譜)
前田利鎌は、卓子に連れられて大正3年初めて漱石の家を訪ね、それから度々出入りするようになったようです。
利鎌は、東京帝大哲学科に学び、のちに東京工業高等学校で教えるようになります。
わずか32歳で夭折したため、生前の著書は『臨済荘子』のみです。もっと多くのものを遺して欲しかったと思います。近頃岩波文庫から出た『臨済・荘子』はこの著書の文庫版かもしれません。
前田利鎌については、安住恭子さんの著書に詳しく書かれています。
話が逸れました。 卓子のことはまた次回へ。
前田利鎌 ↓
臨済・荘子 岩波文庫 ↓
安住恭子 禅と浪漫の哲学者・前田利鎌 ↓