引き続き、明治32年1月の旅です。
耶馬溪から峠を越え、漱石と奥太一郎は1月5日に日田に入ります。
日田では、平野五岳についての句を詠んでいます。
「日田にて五岳を憶ひ
〇詩僧死して只凩の里なりき 」
平野五岳(ひらのごがく)は、豊後の人。文化8(1811)~明26(1893)。江戸後期から明治時代の僧で、漢詩文・画・書の三分野ともに優れて三絶僧と言われます。広瀬淡窓に詩文を学び、田能村竹田の文人画に影響を受けました。
五岳が住職をした専念寺に、現在では五岳の像が建っています。 ↓
また、そのすぐそばに、五岳の五言絶句の詩碑があります。
詩;五言絶句 「人世貴無事/不争名与功/鳥遷喬木後/幽谷亦春風」
詩の読み; 「じんせいぶじをたっとぶ/なとこうとをあらそわず/とりはきょうぼくにうつりてのち/ゆうこくもまたしゅんぷう」
詩碑そばの説明板によれば、松方正義や大久保利通から内閣の要職に就くよう誘われたとき、この詩を呈して辞退したということです。 ↓
漱石の句碑と説明板もそこにあります。漱石は五岳の清廉な生き方に共感していたのかもしれません。
平野五岳の師、広瀬淡窓が開いた私塾咸宜園(かんぎえん) ↓
咸宜園内で掲示されていた資料です。「咸宜」は、「咸く宜し(ことごとくよろし)」ということで、学ぶ者それぞれのよさを伸ばすとした広瀬淡窓の思いがこもっているとのことです。平野五岳の名も見えます。 ↓
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