孔子の言葉です。「くんしはわしてどうぜず。しょうじんはどうじてわせず。」意味;〈君子は調和するが、それは何でも同じ考えや行動になるということではない。一方、小人は人に追随して同じ言動をとるが、しかしそれは調和しているということではない。〉
この言葉にある「同」と「和」について、吉川幸次郎(よしかわこうじろう、1904~1980)が、「左伝(さでん)」にある斉の景公(けいこう)と晏嬰(あんえい)の問答を紹介していますので、今日はそれを引用します。
〈狩猟から帰って来た景公が首相である晏嬰と、遄台(せんだい)でくつろいでいると、佞臣(ねいしん;へつらう臣下)の梁丘拠(りょうきゅうきょ)が、むこうからやって来た。景公は梁丘拠の方を指さしながら、「あの男は私と和する」と、晏嬰にいった。晏嬰は、「あの男のは同であって、和ではありません」といい、さらに説明して、「和」とは、たとえば吸い物が、水、火、醤油、塩、梅酢と、魚肉との調和であるごとくである。それに対し、「同」とは、水に水を足し、また琴の絃の同じところばかりをたたくようなものであって、何ら建設的でなく、生産的でない。あの梁丘拠は、あなたの意見が、如何ようであれ、すぐにそれに賛成する。だから同であって、和でない。(以下略)〉(吉川幸次郎『論語・下』朝日新聞出版)
吸い物の喩えはたいへん興味深いものでした。
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