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★最悪!小沢一郎の大罪 (1)出自と経歴。.

2012年10月28日 | 政治


  (1) 出自と経歴。 
小沢一郎の大罪!

小沢一郎がまた新党「国民の生活が第一」の政党をつくり、国民受けを狙い国民を惑わしています。
しかし小沢一郎には今のところ検察による再起訴は免れているとはいえ、公的責任人間としての国民への説明義務はないのか?以下の事が一切説明されていません。 

(1)政党転がしともいえる、次々と解党した政党助成金の行方は一体何処に消えたのか?(23億円) 
(2)西松建設からの3億円にものぼる政治献金。  
(3)水谷建設社長の1億円の政治献金の証言。 
(4)小沢王国(岩手県)でのゼネコン政治の実態。 
(5)21億にもわたる虚偽記載による秘書3名の逮捕の責任は本当にないのか? 
(6)百億をゆうに超える個人資産は一体どのようにして作られたのか?
(7)そして最後に何故、新党を作るたびに、コロコロと言うこと(政策)が変わるのか?(消費税の礎はもともと本人が作ったのではないか、原発は鹿島建設と共に本人が進めてきたのではないか)

これらの疑惑は依然として不明のままです。公的な責任のある政党指導者として国民への説明責任は一切なされていないからです。また国会への説明責任も一切なされていません。
政党助成金にしても、政治献金(大型公共工事の見返り)にしても全ては国民の税金が原資です。
疑惑の金額はロッキード事件の田中角栄首相を遥かに上回る、日本政治史上最大のものです。

このコーナーでは日本政治史上、桁はずれに最大疑惑の政治とカネ、そしてこれらのカネは一体どこに消えたのか?
小沢一郎が自民党幹事長を経てから、次々と新党を作り、そして解党してきた意味は一体何だったのか?
小沢一郎の軌跡をたどりながらシリーズで検証していきたいと思います。何故なら今日の日本政治(悪弊)は小沢一郎を抜きにして語ることはできず、また日本の本当の民主主義は創造しえないからです。
まずは「出自と経歴」からです。

1、小沢一郎の出自。
父親は小沢佐重喜(1898~1968年)、岩手県の水沢から東京へ出て、日本大学で苦学しながら弁護士になった(大正13年)政治家だ。その後父佐重喜は東京市会議員を経て、衆議院に転身し、運輸、逓信、建設大臣を歴任している。
小沢佐重喜がなによりも功績を上げたのが、1960年日米安保条約の批准だ。
<リンク、ウィキペデア> 小沢佐重喜
父小沢佐重喜(左)と岸信介(右)

   
終戦後の総理、岸信介(安倍晋三の祖父)は戦後A級戦犯とされながら、なぜかA級戦犯の者たちが次々と処刑されるなかで釈放され、数年後には総理大臣にもなっている。その岸信介総理のもとで1960年、衆議院日米安保条約等の特別委員長となり、日米安保の批准に働いた第一人者が小沢佐重喜です。

小沢一郎の家族は父佐重喜、母みち、そして二人の姉(長女スミ子、次女則子)と一番下の一郎となっている。しかし上二人の姉は父佐重喜のそれぞれが腹違いの子だ。一郎の母みちは3人の子供を分け隔てなくかわいがり育てたようだ。
一郎を産んだ母みちは実は佐重喜の後妻だった。

佐重喜の先妻は一関では有名な資産家「伊藤家」の二人の娘、上の姉は鹿島建設をゼネコントップに押し上げた鹿島の大番頭こと、渡辺喜三郎に嫁ぎ、下の妹は政治家、小沢佐重喜に嫁いでいます。
だが先妻は女の子を産んだあと若くして亡くなり、その後父佐重喜は一郎の母みちと結婚しています。


2、小沢家と(スーパーゼネコン)鹿島建設の2代にわたる深い繋がり。
鹿島家はもともと岩手県盛岡市の出だ。鹿島建設を大手ゼネコントップに押し上げたのが鹿島の大番頭、渡辺喜三郎です。
この渡辺喜三郎と小沢佐重喜は胆沢郡の同郷であるばかりか、妻同士が姉妹である義理の兄弟でもありました。
また一郎の母みちが九段精華女学校時代に同級生として一緒にすごしたのが鹿島建設会長、鹿島精一の長女、鹿島卯女です。
鹿島卯女はその後次期社長の鹿島守之助(婿養子)と結婚しています。
鹿島精一(1896~1975年)

鹿島建設はスーパーゼネコンとして、大型公共工事(ダム、道路等の国家的プロジェクト)や原発(日本の原発の6割を建設)を受注、建設してきましたが、その背景に存在するのが小沢家2代にわたる親子です。
現在今だに建設中が続く胆沢ダム(総工費2300億)も地元では小沢ダムと呼ばれ、工事のトップゼネコンは鹿島建設です。
その傘下に政治献金で問題になる西松建設や水谷建設があります。
鹿島建設と小沢家親子2代は国家的プロジェクトを受注し(2人3脚で?)急成長した関係といえるでしょう。

岩手県では達増県知事自らが「小沢チルドレン」と名のり、大型公共工事は全て鹿島建設が絡んでいます。胆沢ダムでは「天の声」が小沢事務所と言われ、3人の秘書が逮捕されました。


3、小沢一郎の経歴。(1)
小沢一郎は1942年(昭和17年)に生まれ、少年時代を父佐重喜のいない水沢で過ごしています。中学時代は成績の良い優等生のようでした。
中学3年に父親のいる文京区湯島に転居し、以後都立小石川高校、慶応大学経済学部、日本大学大学院法科に進んでいます。
若き小沢一郎は父佐重喜のように弁護士をめざし司法試験に臨んでいました。だがこの頃父佐重喜が心不全で急死します。(昭和43年)
父佐重喜の死をきっかけに、小沢一郎は司法試験を断念し、父の看板、地盤を受け継ぎ政治家の道を歩きます。父親なき若き小沢一郎が門を叩いたのは、時の実力者自民党幹事長の田中角栄でした。

田中角栄は一郎を実の子供のようにかわいがり、小沢一郎もオヤジと呼び田中角栄の秘蔵っ子の様にかわいがられたといいます。
父佐重喜の地盤を継いだ小沢一郎は、27歳にして衆院議員になります。(1969年、昭和44年)
その後1976年(昭和51年)、いわゆるロッキード事件で前首相の田中角栄は秘書の榎本と共に逮捕されます。これを機に自民党最大派閥田中派が異変を起こし始めます。

この辺までの小沢一郎は若くして、時の実力者田名角栄に可愛がられたとはいえ、普通の代議士だったと思います。
しかしこの時小沢一郎が見たものは前総理田中角栄がロッキード(政冶収賄)事件で起訴され、逮捕されたことでした。田中裁判には小沢一郎は毎回傍聴したといいます。
この経験は小沢一郎にとって深く心に刻み込まれたと思います。
さて自民党最大派閥のドン田中角栄が逮捕され、田中派内部から反乱が起こります。小沢一郎の異色ぶりはここから始まります。
この後の小沢一郎の経歴は次号で!

<参考文献>
小沢一郎全研究(松田賢也)、小沢一郎、虚飾の支配者(松田賢也)-講談社
小沢一郎50の謎を解く (後藤謙次)-文春新書
   







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