『 娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの「きみまち坂」につれていってもらいたい。
春のあでやかな桜花、夏なまめかしい新緑、秋ようえんなもみじ、冬清らかな雪模様など、四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね。 』
秋田県の柳原タケさん(当時81歳)が1995年に開催された「第1回日本一心のこもった恋文コンテスト」で最優秀賞を受賞された時の文です。
戦死された夫に宛てた恋文ですが、遊就館の英霊の遺書、絶筆のコーナーにて紹介されております。
いつもこの遺書、絶筆のコーナーを少し拝見している辺りで時間が一杯になってしまうため、まだ6割程しか拝見しておりませんが、今年の終戦の日に靖国神社を御参りし、遊就館を拝見した中で、最も心に残った展示です。
これを拝見した途端、目頭が熱くなりました。
過去記事にて紹介した、私の曽祖父も32歳で戦死しており、結婚後に召集されているので、曽祖母と夫婦として暮らせたのは僅か2~3年ほど…まさに曽祖母も同じ心境だったのかなと思うと、非常に胸が詰まります。
そして、英霊の方々が遺された遺書にも、これからの長い人生を共に過ごすはずだった妻や恋人などに宛てたものが多く、そのお互いが強く感じたであろう無念は計り知れないものです。
私もかつて国を守る仕事をしておりましたが、まだ20歳頃でしたから、自分の家庭があるわけでなかったため(今もありませんが…)有事の折に例え戦死しようが殉職しようが何も怖くなく、むしろ国や人のために戦って散れば名誉だと思っていたものですが、恋人や家庭を持ち、生きては帰れない戦地に赴く時、同じように考えられるかといえば、それは極めて難しいでしょう。
本当に今の平和があるのも、当時の方々のそうした犠牲、気持ちが積み重ねられての産物であり、それに対する感謝、哀悼を決して忘れてはならないと思った次第です。
遊就館の最初の展示にある「ますらをの 悲しき命積み重ね 積み重ね守る 大和島根を」という短歌が記憶に残っておりますが、まさにこれがその崇高な精神性を表しているように思います。
これを現代人の価値観で見たら「国粋主義」とか「軍国主義」といった言葉で批判する者もいるのかも知れませんが、大切な誰かのため、かけがえのない故郷のために身を呈してそれを守ろうとする、強い勇気、愛情、責務をそのように蔑まれる謂れは無いと私は思います。
そもそも、当時の時代背景として、軍国主義は何ら悪い事ではないのですが、日教組やその他赤い人達に一方的に刷り込まれ、何ら自主的に調べようともせずに歳だけ重ねた場合は、そのような時代背景さえ考え無しに批判しますから、タチが悪いと思っております。
そして、今回遊就館で最も行いたかったことは、大展示室にある戦車でお眠りになる英霊への合掌でした。
昨年の11月、関東甲信越居合道大会の翌日に靖国神社をお参りし、ここ遊就館を見学した折のことです。
この戦車の壁側の側面には、米軍の速射砲が命中したと思われる穴があるのですが、そこから内部の機銃や梯子、ミッションの状況が見学出来たため、しばし拝見しておりましたが、同行していたお弟子さんが穴を見たら、中に人の気配がしたということで、しばらく肩が重かったり、ご自宅で誰もいないのに足音がしたり部屋の扉が勝手に開閉したりと、不思議な現象があったそうで、従って、その穴を覗いてしまったお詫びを伝えられればと思っておりました。
ちなみに、お茶やおにぎり、味噌汁を数日お供えしたところ、不思議な現象は止んだそうです。
いわく、靖国神社から連れて来てしまったと思われる「英霊」だと予想がついたため、恐怖というより、感謝しておもてなしをしようと思ったということでした。
その後、私共々、松本の長野縣護国神社へ御参りしました。
この遊就館に展示されている九七式中戦車は、陸軍戦車第九連隊第五中隊所属の戦車「みたて号」で、サイパン島に配備されていた車両です。
昭和19年6月17日午前4時頃、上陸した米軍に対して、戦車後方のエンジン上に歩兵数名を乗せて総攻撃を仕掛けた際、米軍の猛攻撃を受けて擱座し、その後土に埋められていたものを掘り起こされ、車内のご遺骨や遺品も回収されて日本へ帰還。
そして、今は靖国神社の遊就館にて展示されているわけですが、考えてみると、遊就館に展示されている零式艦上戦闘機や艦上爆撃機彗星、特攻兵器回天等は地上撃破されていたり出撃する前の物でありますが、この大展示室の隅に静かに安置されている九七式中戦車だけは、唯一戦場で兵士が乗り組み、敵と干戈を交え、車内や車上で数名の兵士が戦死されている「棺」そのものなのです。
遊就館1階のエントランスに展示されている、沖縄の洞窟にて発見された、弾痕だらけの榴弾砲も、もしかするとそれを操作していた砲兵さん共々散華された「墓標」なのかもしれませんし、銃弾が直撃して穴が開いた鉄帽もあり、そうして誰かの大切な親、子、夫であっただろう人の命が失われていったことを、この平和な時代に伝えて下さっているのであります。
今でももしかすると、英霊が休まれているかも知れません。
この記事をご覧になり、遊就館を見学される機会がお有りの方は、この戦車の前では手を合わせて頂ければ幸いです。
今や観光やダイビングのために日本人の馴染み深いサイパン島ですが、あの島にもこうした歴史があります。
そして、お弟子さんが連れ帰ってしまった英霊…私の勘繰りではありますが、そのサイパン島の隣、テニアン島で松本陸軍歩兵第五十連隊が玉砕しており、その信州出身の英霊の魂が、故郷に帰りたい一心で戦車に乗り込み、お弟子さんに乗り移り、今ようやく故郷の信州へ帰ることが出来たのかと思っております。
大展示室中央に、各戦場に遺されていた遺品が展示されておりますが、霊感が無い私も、この場所の空気の重さ、張り詰めた空気は分かります。
しかしながら、冷やかしのつもりではなく、しっかり見学して歴史を学ぼうとする気持ちさえあれば、その気も何ら悪いものでは無いと思います。
ちなみに、そこの展示の片隅に、注射のアンプルが置いてありました。
老夫婦が連れたお孫さん(ひ孫さん?)3人が「何だろうこれ?」と興味を示しており、そのうち一人が「お弁当の醤油とか入れるものじゃない?」と言っていた事が可笑しくて笑ってしまい、「これは注射のお薬を入れるものだよ。ここに注射器もあるでしょ。」と話したら、「へえ~。ホントだここに注射器もある。こんな昔から注射器ってあったんだねえ。 教えてくれてありがとう」と言われ、とても嬉しく思いました。
アンプルが弁当の醤油ボトルと思いつく子供の発想の豊かさに感心し、さらにこの子供たちからすれば、子供であることもさる事ながら、自分より1世代下がることもあり、凄く昔のものというイメージがあるのですね。
かく言う私も、ビール瓶の色や形状が今と全く変わらないことに驚きました。
戦場の束の間の休息で、戦友と楽しくこれを飲んでいたであろう兵隊さんは、果たして御無事だったのかと気にかかるものです…
特攻機の桜花です。
双発の陸上攻撃機の胴体に吊り下げ、敵艦隊の近くで切り離してロケットエンジンにて加速。その後は滑空して敵艦船に体当たりする特攻兵器ですが、敵艦隊に辿り着く前に陸上攻撃機共々撃ち落とされてしまう事が多く、米軍のガンカメラでもその映像が遺されております。
かつて学生の頃に、この桜花の訓練生だったおじいさんに話を聞くことが出来ました。
「普通の飛行機ではなく、もはや体当たりするだけのこの機体に乗ったことについて、どう思われましたか?」と尋ねたところ、「私は飛行機の飛ばし方もましてや回避行動などまともに教わっていない状況だったのだから、むしろそこそこ経験を積んだパイロットに乗せて行って貰った方が安心だった。どうせ死ぬのだから、零戦でも桜花でも何に乗っても同じだよ」と仰った時は、「こんな物に乗せられて…」という回答を予想していたため、まさかのお答えで驚きましたし、達観した人間の境地を垣間見た気がしました。
特攻兵器回天…言うまでもなく人間魚雷と言われている潜水艇です。
本来、敵に最大限の損害を与え、自分たちはより損害が少なく生還する計画が「作戦」というものですが、特別攻撃なる計画で、後の日本を支える、愛国心ある優秀な学生や若者を失ってしまった損害は極めて大きく、戦後日本もそうした優秀な人材を消耗させず残していれば、もっと強大かつ豊かな国になっていたに違いないと思っております。
一方で、日本人の恐ろしいほどの意地というものは戦後の世界に伝わることになり、人類史上比類なき愛情、自己犠牲、郷土愛が実を結んだ行為として永く伝えるべきであり、散華された英霊やその精神を忘れてはならないと思います。
そして…私は2年ほど前から鉄工の仕事をしておりますが、回天の溶接箇所を見る限り、1年半前の、ど素人だった私の溶接と同じような下手くそなビードになっており(今でもまだまだダメですが…)、戦争末期の被覆アーク溶接で使う溶接棒や機械の質も、おそらく凄く悪いものだったのでしょうが、ベテランの工員が皆徴用されて前線基地等に送られ、勤労動員で来た溶接未経験の学徒達が製作したのだろうかと想像できますし、今の溶接機でも高圧容器の溶接はそれなりのスキルが要求されますが、明らかに溶接不良の兵器が潜水時や攻撃を受けた時の衝撃に耐えられる代物なのか…ましてやこれは、兵士が搭乗して生きては帰れない「棺」になるものである…と考えると、非常に悲しく思います。
その他にも、艦上爆撃機彗星や曽祖父が一時期乗艦していた戦艦陸奥の副砲、当時使用されていた機関銃など、色々な物が展示されております。
人により捉え方は様々ですが、今の工業大国になった日本と異なり、有色人種の中では最も文明が発達していたものの、白人国家、殊に欧米列強と比べると物や技術が乏しく、それを補うべく絶え間ない努力と苦労によって、何とか軍事国家となり、白人による世界征服を最後の最後で防いだのが、大日本帝国の姿であったと私は考えております。
今の時代に北朝鮮のような軍事国家になれば世間の笑い物になって然るべきでありますが、現代のこうした物差しを以て当時の軍事国家を考えること自体が非常に愚かです。
政策や戦略、戦術として反省すべき点は多々ありますが、現代日本人が思っている以上に貧乏で未発達だった当時の日本が、如何にして超大国アメリカやその他列強諸国と対峙することを迫られ、対処したか…展示を見学すると、それが見えてくると思います。
最後にご紹介するのは、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判で連合国側が全員一致で東條英機首相など所謂A級戦犯と言われる昭和殉難者を有罪にしようとした思惑を唯一批判し、全員の無罪を主張したインドの法学者ラダ・ビノード・パール判事の顕彰碑です。
そもそも大東亜戦争における戦争犯罪を定義する法自体が事後法であるため違法であり、そもそも「極東軍事裁判」といっても、国際法学者の判事はこのパール判事のみという、お粗末なものでした。
裁判所の裁判長席に隣の家に住むパート従業員のおばちゃんが座り、単独審を行うのと何ら変わりない…そんな事が罷り通る筈ないですよね?
A級戦犯とされた方々の名誉回復は昭和27年4月に取り掛かられ、国会決議によって赦免されているものであります。
今や単なる左翼団体と化している日弁連や社会党ですら名誉回復の署名活動や演説を行っておりました。
従って、マスコミや果ては皇后陛下すら口にするA級戦犯というものは存在しておりません。
どうして今A級戦犯なるものを蒸し返すかといえば…そういうことですよね。
以下、パール判事の言葉です。
判決文を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。
しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。
そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。
どうかわたくしの判決文を通して充分研究していただきたい。
日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。誤られた歴史は書きかえられねばならない。
日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼らの戦時謀略にごまかされてはならぬ。
日本が過去の戦争において国際法上の罪を犯したという錯覚に陥ることは、民族自尊の精神を失うものである。
自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。
日本よ!日本人は連合国から与えられた『戦犯』の観念を頭から一掃せよ。
1950年のイギリスの国際事情調査局によると、「東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない」と書いてある。
要するに、彼ら欧米は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正統性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪であると烙印し、罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いない。
日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。強いて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらよい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!
と私は言いたい。
今の日本人に思いつくことが多々あるのではないでしょうか?
そして、この顕彰碑にパール判事の判決文の結びの文言が彫られ、このように書かれています。
『 時が、熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう。 』
歴史は勝者によって塗り替えられるものであり、それが史実であるかの真偽は問題ではありません。
しかし、本当に日本人が日本人であり、豊かな国、楽しい暮らし、素晴らしい歴史や文化を少しでも感じるのであれば、国民個々人がアメリカをはじめとした白人国家によって埋められた日本の正しい歴史を掘り返し、洗浄する必要があると思うのであります。
さもなければ、外国人と対等に会話し、「日本の文化は~」などと話す資格は無いと思いますし、アメリカの植民地の住民と胸に刻んで卑しく生きる他ないでしょう。
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