信州塩尻発 田舎暮らし日記

生まれも育ちも埼玉県飯能市。現在は移住して長野県塩尻市民です。 田舎暮らしや趣味の事、居合道の事等々を書いております。

私が武道を始めた経緯

2018年07月21日 | 武道


小学5年生の時に今は亡き母方の祖父と撮った写真です。
剣道大会か稽古会の後だったのでしょうか?
全く覚えておりません。
夏休みは毎日朝6時半頃から夜7時頃まで友達と川で泳いだり釣りをして遊んでいたので、足が真っ黒ですね。

思えば小学1年生の時、学校で配られた剣道教室のチラシを母に見せて「これをやりたい」と言ったことが、武道を始めるきっかけであります。
いわゆる「足りない子」だった私が、それまで一切自主的に何かをやりたいと言ったことが無く、そんな子供が自主的に習い事をやりたいと言った…それもよりによって、厳しいはずの剣道を選んだ…
その時の衝撃は鮮明に覚えていると生前母が話していました。
藁半紙に「会員募集」の文字と防具を身に着けて竹刀を携刀している人の絵が書いてあったチラシであったことは覚えています。



大切にしている当時の手拭い。何故か血痕があるのですが。

剣道教室(西川剣友会)は母校西川小学校の体育館で19時から行われており、赤胴で椅子に腰掛け指導されていた教士七段の先生を筆頭に、数名の地元の先生が指導して下さっている、いわゆる田舎の剣友会でした。

今の歳では「稽古は毎回出席が当たり前」と思うものですが、小学生時分、稽古そのものと言うよりも皆勤賞として皆の前で賞状やお菓子を頂ける事が嬉しく、宿題は忘れても(おい!)稽古は忘れずに出席していました。

小学校低学年時は母に送り迎えをしてもらいましたが、中学年になったら道着を着て防具と竹刀を担いで稽古場に行き、夕暮れ時に外で夕涼みや庭掃除をしている近所のおばあちゃん達から褒められたり、アイスやおにぎり等を貰って食べながら通ったのが懐かしい思い出です。
首都圏とは思えない、凄い田舎でしたから(実際、塩尻の奈良井や木曽平沢と似たような景観のです。)、向こう三軒両隣の感覚が根強く、こうして地域の人達に育てて貰った恩は忘れ難いものです。

今では西川小学校も生徒数が相当少なくなってしまい、来年には近隣の小学校と統合するそうです。(吸収して存続する方ですが)
数年前に西川剣友会も解散してしまったそうで、アイスやお菓子をくれた近所のおばあちゃん達も多くはこの世を去られ、世の無常を感じます。
当時はそうした環境が当たり前で、永遠に続くものかと思っていましたが、「時」というものは残酷な一面もあるものですね。

そして、防具を着けた竹刀による一般的な剣道の稽古よりも木刀を用いた日本剣道形が好きで、19時の稽古開始より前に体育館へ着くと、先生が剣道形を教えて下さり、ますます形にハマって行ったのであります。


まさに形がメインになり、今私が修行している居合道を知ることになったのは、飯能市の剣道大会開会式で、城西大学居合道部の学生さん達が演武した時です。
剣道と違って実際の相手ではなく仮想敵を相手として刀を操る姿を見て、当時よく意味が分からなかったものの、形を主とする武道があることを知り、「居合道か…そのうち絶対にやろう!」と、小学生の私は思ったのでした。
また、小学校の教頭先生も居合道をやられており、社会の授業の時に鞘に納めた状態の刀を触らせて下さり、その時も一人興奮しておりました。


月日は流れて国士舘大学へ進学し、「大学では何よりサイクリングが好きだから、フランスへ旅行してツール・ド・フランスを観戦したいな!登山もしたい!」と、一般的な大学生活を謳歌しようと思ってました。
国士舘大学へ進学したのも、武道をやるためではなく、特に当時の私は思想的に限りなく端に近い右寄りの人物だったので、ここで政治学を学びたい!という理由であります。
通学も大学一年時は自宅通いだったため、片道2時間半ほど掛かっており、講義の時間より通学の時間の方が長い日がある状況でしたから、サークル程度の活動は出来たとしても、部活動はとても出来ないと思っていました。

が、運命なのか因果なのか、小学生の頃見た居合道の記憶も薄れている頃でしたが、新入生の勧誘で貰った居合道部の部員募集チラシが気になっており、5月下旬のある日、家族で夕食を囲みながら「なんでも鑑定団」を見ていたら、依頼人の紹介で居合道をやられているという方が映り、ふと箸を止めて居合道部の部員募集チラシを見ました。
すると翌日が稽古日…
親に「ちょっと明日居合道部を見学して来ようと思うから帰りは遅くなる」と、無意識に言ってました。

そして講義が終わって国士舘大学居合道部の当時の活動場所であった日本舞踊実習室に向かって歩いていると、徐々に「いち!に!さん!」と素振りをしている号令と被せるように「声が小さい!」「しっかり止めろ!」「何度も同じ事を言わせるな!」と夕方の静まり返った校舎に響き渡る怒号が…

私がいた西川剣友会は近所の年配の先生が主に教えて下さっていたため、強豪の町道場のように上下関係が厳しいところでは無かったですし、母校の吾野中学校は先輩に対して「〇〇先輩」ではなく「〇〇さん」と呼ぶ程、上下関係が非常に弱い校風…高校も一応「〇〇先輩」とは呼ぶものの、あまり上下関係が無い田舎の進学校だったので、初めて垣間見る厳しい上下関係と体育会系の雰囲気に圧倒されました。

が、それでも憧れていた居合道…いざ部屋に入ってみると、華麗に刀を扱っている人達の集団がそこにありました。
挨拶をしたら、わざわざ3年生の先輩が座布団を持ってきて「ここにでも座ってよく見て行って」と優しく声を掛けてくれたもので「凄く優しい先輩達なんだな~」と、垢抜けない純真な当時の私は思っておりました…

いや、何だかんだ今思い返しても、そんなに厳しいとか辛いというより、やって良かった、楽しかったという思い出の方が強く残っています。

大東亜戦争で激戦地ニューギニアに赴き敗走した挙句、マラリアに罹りつつも奇跡的に生還した近所のおじいちゃんも、「あの時は大変だった」と言いつつ、「現地の全裸の土人と一緒に歌を歌った」とか「補給が絶たれて食糧も弾も無くなったが、敵の死体から鹵獲した手榴弾を川に投げたら凄い量の魚とワニが捕れて助かった」などと面白おかしく(といっても、こっちはネタがネタだけに全く笑えないのですがね…)戦争体験を話してくれましたが…それと同様の心理なのかもしれません。

いずれにしても、今巷で蔓延っている「今が楽しければ良い」「他人の事より自分の事」という刹那的楽天主義、欧米的個人主義を私は凄く嫌っており、それもよく祖父から「この世は苦の娑婆だから、今辛い事があっても進んで行えば、そのうち良い事がある。辛い記憶はいずれ忘れ去られて良い思い出として残るのだから、何事もやり通す覚悟と辛い時期を乗り越える忍耐が大事だ。」と言い聞かせられておりましたから、その教えを守って来た事が根底にあります。

その祖父も戦時中、現代人には到底出来ないような大変な苦労をし、75歳まで働いて80歳でこの世を去った非常に仕事熱心で勤勉な人でした。
言葉の重みが違いますね。

話が戻り、居合道部の稽古では袴からも汗が滴り、床一面に汗の水溜まりを作る稽古をしておりましたが、自主練の時に先輩と色々な話をした事や、飲みに行ったこと、夏合宿、稽古後のせい家のラーメン、上野公園の夜桜、道場から見えた新宿の高層ビル群や建設中のスカイツリー、鶴川のアパートから自主練に向かっている時に見えた茜色に染った丹沢山地と富士山、そして東日本大会の団体戦で準優勝した事…

当時は色々と大変な事があったはずですが、確かに今思えば良い思い出しか残っていないのであります。

そしてこれからも「あの時面白かった。」「いい思い出だ。」と将来思えるように、一層苦の娑婆をより大変な方向に選択して修行しようと思います。

何故か(理由は明確ですが…)「精神論」とか「根性論」などの言葉やその行為そのものを忌み嫌う人が非常に多い現代ですが、多量の情報を取捨選択するスキルが身についており、ある程度の教育を受けてきた人間だったら「論理性」や「科学的思考」は出来て当たり前なのですから、私を含めた現代人こそ精神を鍛錬する事が大切であると思います。


私個人としても、武道を行っていたから礼儀とか精神性を大切に思うのか、礼儀や精神性を元から重んじていたから武道を23年続けているのかは分かりませんが、少なくとも武道はそうした「精神性」が重要な要素になっている事は言うまでもありません。
しかしながら、近年では特に保護者がそれを理解出来ずに「精神論で物を言う指導者だ」などと武道の指導者を批判して子供の武道の習い事を辞めさせる事例が多いと聞き、非常に残念に思います。

それらの話題もそのうち書きましょう。

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