そしてさらに何名かが紹介してくれている索道跡の滑車…山の中に突如現れる錆び付いた索道のプーリーですが、コレをネットで最初に紹介したのは、実は自分なのであります。
約15年前の高校生の頃に開設していたブログで紹介したのですが、思ったより多くの方が見ていらしたのでしょうか?
「今は閉鎖してしまったブログで存在を知った」と書かれている方がいらっしゃり、そのブログは間違いなく自分のものでしょう。
吾野にある索道跡…かつて祖父から聞いた話ですが、吾野の南に位置する名栗に白岩地区という石灰石を採掘している(いた?)があるのですが、そこから吾野鉱山まで引かれていた索道の跡であります。
トップ写真のプーリーは多くの方が紹介されていますが、実はその延長線上、吾野駅側斜面に鉄塔も残っているのです。
木に紛れて分かりにくいため、これは初出だと思います。
写真のセンスが無いので、イマイチな感じですが…上手いカメラマンが撮ったら、山に遺された人類の遺構が自然に飲み込まれて行くような、凄くノスタルジックな画になるのでしょうね。
芸術的なセンスが乏しくすみませんねえ。
鉄塔にもしっかりプーリーが残っていますね。
鉄塔にもしっかりプーリーが残っていますね。
タラップもあるのですが、さすがに錆び付いており、いつ破断するか分からないですから昇るのは絶対にやめましょう。
ちなみに、この鉄塔を間近で見たい場合は、プーリーが置いてある稜線から降りるより、行きの斜面を注視しながら歩き、見つけたら直登した方が安全です。
自分も鉄工の仕事をしていますが…リベット留めの構造物ってワクワクしますよね。
フルのリベット留めではなく、アングルとプレートは予め麓でリベット留めしておき、ここまで部材を担ぎ上げてからボルト取りして組んだということでしょうか?
さすがに山の中にリベットを焼く火床やコークスを持ってきて…ってのも大変でしょうし、リベットはカシメてしまったら動かないけど、ボルト取りだったら組む時に融通が効きますからね。
それにしても、100mmと75mmのアングルで組まれた鉄塔ですが、機械ではなくみんなでヨイショして荷揚げしたはずです。
本当に昔の人達は凄いですね…
高校生の頃、自分がここを発見した時は、鉄塔の真下に写真の木箱があり、中には油が入った缶と、同じく写真の底が抜けた油差しが入っていましたが、長年の風雨等で地表共々下へ流れておりました。
それにしても…山の中に突如現れるこの遺構…
初めて見つけた時は、もの凄く驚きました。
回想すると…
当時我が家の一員だった、柴犬のさくらさんと山に行くことが休日の楽しみでしたが…
ある日さくらさんと、吾野駅の裏山から道を登り、子の権現まで散歩に出かけました。
さくらさんも散歩が大好きだったので、休みとなれば大高山や子の権現まで散歩していました。
吾野駅裏山の、土砂崩れ跡のてっぺんより少し上にある、トロッコのレールが杭として打ち込まれている怪しい道…
前々から気になっていました。
野生児の勘で、コレは何かあるんじゃないか?と。
ハイキングコースは、この杭が続く坂の途中で左に折れて行きますが、そのまま杭がある獣道を真っ直ぐ進むと、山の稜線に出ます。
(ちなみに鉄塔は、この稜線に出る手前の山側にあります。足元と山側をよく見て登ってみて下さいね)
そのまま稜線を登って行くと、行き着くのがトップ画像のプーリーです。
最初は戦車が打ち捨てられているのかと思いギョッとしましたが、よくよく見たら、索道のプーリーでした。
よくスキー場のリフトを吊っている鉄塔にこんな装置ありますもんね。
「吾野の山にこんなものが…」と思いつつ、とりあえず写真を撮ったので、帰宅して祖父に見せたら、とても懐かしがっていました。
以上、回想終わり。
以上、回想終わり。
意外とまだベアリングが生きていて、クルクル回ります。
ちゃんと注油されていたのですね。
在りし日の索道には、ドラム缶を縦に半分に切ったようなゴンドラがぶら下がっていたそうな。
先述の通り、その索道で名栗の白岩地区や鋼管の山から石灰石を運んでおり、最終的には吾野駅山側の所にあったホッパーへ石灰石を運搬していたようです。
子供の頃、吾野駅の貨物扱いの遺構(写真)より山側の所にホッパーのようなものがありました。
このコンクリートの構造物は、どのように使われていたのか不明です。
何か設備があったのでしょうか?
祖父が生きていた頃に聞いておけば良かったです。
そしてその索道…
定期的に点検員がゴンドラに乗って、プーリーに注油していたそうな。
今では貨物用の索道に人間を乗せたら労働基準監督署が黙っていないでしょうが、安全は二の次の時代だったでしょうからね。
安全帯なんてカッコ悪いから着けないという職人さんが普通にいた時代です。
それにしても、吾野から名栗まで索道を通すなんて…よくそんな発想が出来たものだと驚きますし、部材の運搬やワイヤーの編み込みなど、作業者も凄い力持ちかつベテラン揃いだったのでしょう。
今では道路が発達しているので考えつかない運搬方法でしょうが、当時は索道による鉱石の運搬はごく普通に行われていたようです。
秩父の日窒鉱山にも索道の鉄塔が遺っていますが、秩父鉱山から小鹿野を経由して三峰口駅までを結ぶ、当時東洋一の長さを誇った索道もあったようなので、案外珍しいものでは無かったようですね。
とはいえ、設置にも相当な費用がかかるうえ、ランニングコストは洒落にならない額だったのではないでしょうか?
ワイヤーが切れたら…全員で担いで結線していたのでしょうかね?やってらんないですね。
まあ、当然道路事情の改善や自動車の発達によって、索道は姿を消しました。
祖父は身長160cm程の小柄ながら、若い頃は外麦の俵を5俵担いで貨車に積み込みしていたと話していましたが、昔の人は現代人とは比べ物にならないような力があったので、こうしたこともやってのけたのでしょう。
自分も現代人の中では怪力の部類に入ると自負していますが、昔の人達の中だったら、そこそこ力持ち程度だったかもしれないです。
ちなみに…
(合流地点)
プーリーの稜線をさらに登って行くと、前坂、大高山、子の権現方面に行くハイキングコースと合流します。
そして、先述のレールの杭がある道から索道の稜線と合流する道の中間に「りゅうがい山」という山へアクセスする道があります。
「りゅうがい山」とは「要害山」が転訛した地名で、字の通りかつて岡部六弥太忠澄という人物が治めていた山城がありました。
今でも堀切などの遺構が現存しております。
麓の旧坂石尋常小学校跡~白髭神社付近には屋敷跡もあります。
大学生の頃に、ここの研究をしておりましたが、その論文がどこへ行ってしまったやら…
これら吾野の山…自分にとっては庭であり、足腰や腕力などを鍛えてくれた先生でもあります。
剣道着姿に草履を履き、自作の木刀を持って獣道をさくらさんと走り回っていました。
トレイルランの出で立ちの時はハイキングコースを走っていましたが、道着姿の時はハイカーの方の迷惑、恐怖になるので、獣道か自分で作った道を走っていましたね。
当時は丸刈りでしたから、風貌はまさに西郷さんでしたし。
そして山が鍛錬してくれた自分の体は、未だ健在であります。
山こそ草履で歩くことによって、母指球に力が入り、指で地面を掴むように歩くため、体の内側の筋肉を鍛えられる最高の場所だと思います。
今回の帰省時にココを見に行った時も、もちろん草履で行きました。
とはいえ…草履は歩き方を間違えると滑ってかなり危ないですし、鼻緒が切れて裸足で歩いた場合、足裏を切って破傷風というリスクもありますから、全くおすすめはしません。むしろ絶対に真似しないで下さい。
吾野駅から子の権現まで山をショートカットして、45分で行けるような野生児だったからこそ問題無かったですが、普通の人だったら怪我や遭難するのが関の山です。
そして最後に…
ゴミは必ず持ち帰りましょう。
ビニールやビン缶は土に還りません。
本来自然に無いものを自然に捨てる行為は、自然で遊ばせてもらっている者がするべきで行いではありません。
当然のことですが、その当然のことが出来ない人間が山に来る資格は無いと考えます。
長野県の里山ではあまり見かけない、ほぼ針葉樹の山…
かつて林業で栄えた西川地域の山の姿であります。
これが自分の故郷の山であり、庭であり、友達であり、先生であります。
今回ご紹介した遺構に立ち寄って頂ければ、ハイキングのちょっとしたアクセントになる事でしょうし、都市部からのアクセスも良く、比較的簡単な山域なので、安全に注意して頂いて吾野の山を楽しんで貰えれば、出身者として非常に嬉しいことであります。
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