(私は特別な存在)という思いをもって生きている人、少なくないと思います。
私もそうでした。
しかも、オンリーワンの特別な存在と思っていました(爆)
それが、謙虚さを持てなかった時期をつくりだして、持論を押し付け真摯に
人の話に耳を傾け向き合うことをせず、一方的に語ることを続けていた
のかと思ったりしています。
だって、いつも私だけが特別な存在だったから。(笑)
ある時セミナーで、教えて下さる方を当然のことながら、「先生」と言った時
その方が(先生)ではないです、名前で呼んでくださいと言われました。
なるほど、日本には敬う心から敬語があるけれど、よく考えると自分が
へりくだることで、相手を奉っている事だと思いませんか?
天秤をイメージして、相手を上げるためには自分は下がらなきゃって
思ったのは、私の勘違い?
だったら良いのですが。
{余談ですが、相手を持ち上げるって行為には時に自分の打算が入っていたり、
背伸びした自分を見せたかったりって心が働いていたりします}
敬語や敬う心を否定するものではないですが、そう思っちゃったんです。
それは、相手を勝手に(自分だけが特別な人)にさせちゃうことになっていませんか?
そのように(私は特別な人)という思いは、他人が評価してくれる
ことによって、より強固なものとなって生きる力を得て自分を支えて
いくのでしょうね。
他人からの支持を受け人気も頂点に達しブームが去った時、何を頼りに
生きようとするのでしょう。
そのとき自分を守り、支えるのは自分だったと学ぶのでしょうか。
自分の応援団はじぶんだったことを。
本当は他人の評価などどうでも良かったことを。
観るものは他人ではなく、自分自身だということを。
全ての人が価値ある存在だったことを。
もちろんあなたも価値ある存在だったことを。
自分はへりくだり下げる存在じゃなかったということを。
そして、人はみな平等だったことを。
気付きが遅いなんてことはなく、気付けた時に目を輝かせ自分を評価して
ラッキーでもハッピーでも、やったねと心でピースしながらでも喜んで、
届けてくれた存在と受け取れた自分とに感謝するサイクルをつくって。
その積み重ねが、やがて自分への信を強めていくのでしょう。
自分を信じきる(自分を愛する)ことが、スーパーマンよりすごい無限の能力を
もった自分を発見できること。